人権制限

思考実験として、人格を社会制度に組み込むための人権制限について考察する。


人権制限は人の権利の制限である

「人権制限」と聞くと恐ろしく聞こえるかもしれないが、ここで書くのは、性犯罪者や凶悪犯罪者など、反復的に反社会的行為をする者(反社会的人格)を野放しにしない、普遍的で社会的仕組みの考察である。反社会的な人格が、反社会的な行為をするので、行為を防ぐのではなく、人格そのものの制御するために(広い意味での)人権を制限する。人権の定義に基づく「人格」の定義については、「人権と対話と人格」で説明している。

言うまでもなく、2023年現在の日本には、このような仕組みは存在しないし、恐らく世界中どこにも存在しない。結果的に、どのような社会に存在するべきでないことが、存在し続けている。

国家や権力が人権を制限する「縦の人権制限」とは違うので、概念と用語を整理する必要があるが、この文章では「人権制限」で統一することにする。

人権は普遍的に扱う

例えば、生徒に対する性犯罪で追放された外国人の元教師が、日本に移住して、日本で教職につくようなことが、望まれないのは異論の余地がないだろう。同様に、日本の性犯罪者が外国に移住するときに、当該人物の性犯罪をの経歴を外国に伝えないのは、真摯な国家の態度ではない。

日本国内において、日本人か外国人かで、性犯罪に対する扱いに差が出るのは論外であるし、あるいは、「うちの国では性犯罪は問題ない」などという国が現れては、世界全体が困る。例を挙げるまでもなく、人権の扱いは普遍的で国際的でなければならない。

法律で人権を扱うのは難しい

法の刑罰や、司法の保護命令などによって、個人(人格)の権利が制限される場合もあるが、それはあくまで例外で、法に基づく社会制度は、原則として刑罰によって社会の秩序を保とうとする前提で設計されている。法や刑罰の概念は人権の概念よりもずっと古く、人権の概念の適用は後付であり、人権の根本に関する問題を扱うことが難しい。例えば差別発言やヘイトスピーチなど、一般的な人権侵害は法律では禁止しておらず、法律違反ではないので、現実的には野放しである。

一方、問題のある個人(人格)は、これまでの人間社会で野放しにされてきたかといえば、そうではないだろう。日本においていえば、かつての「ムラ社会」と呼ばれるような閉じた共同体であれば、特定の個人への様々な扱いがされていたのは、想像に難くない。

目指すのは、人権の概念に基づき、普遍的で公正中立な「共同体による解決」を設計し構築することだといえる。

人格を社会制度に組み込む

では実際に、どのような仕組みを実現すればよいのか。性犯罪者の例で考えると、2023年現在の日本では、「日本版DBS」という制度が検討されている。性犯罪者の個人情報を電子的に記録して限定的に公開し、例えば教職への採用時に参照できるようにする仕組みである。(ただし、保守勢力が激しく反対すると思われ、実現可能性は低い。)韓国では、性犯罪者にGPSの装着を義務付けている。いずれも、性犯罪者の人格の扱いを、社会制度に組み込む試みといえる。

性犯罪者への取り組みは、万国共通で普遍的な人類的課題である。人権の概念は、完全ではないにしても、全ての現代的な国家から認めれる概念であろう。これらを組み合わせて、性犯罪者に対する普遍的な社会制度を構築したい、そしてその先には、あらゆる反社会的人格を扱えるようになることが望ましい。(ただし、繰り返すように、これは権力による縦の人権制限では決してない。)

言い換えれば、性犯罪者に対する社会制度を実現すると、他の反社会的人格も同様に扱えることが実証される。これは反利他主義的な、反社会的勢力、いわゆる保守勢力からすると脅威であるから、あらゆる手を尽くして、妨害されることが予想される。

実現可能性はともかくとして、ここでは、まず実現できる形を模索する。

普遍的な仕組みを目指す

繰り返すように、人権の概念は普遍的であり、人権制限の仕組みも普遍的であることが望ましい。性犯罪の例では、日本においては法によって犯罪が裁かれ、性犯罪者として認められる。法制度は、国や文化によって多様であり、一貫性を持たせることは困難であろう。

しかし、法による罰則と、人権制限を独立して扱えばどうか。性犯罪に限らず、反社会的な行為は、一般化して言えば人権侵害である。他者の人権を故意に侵害した場合に、行使していた権利を制限するという考え方は、人間社会に広く見られる自然な制裁の形であろう。

行為ではなく人格を判定する

ここで問題は、判定の手続きである。人権侵害というのは、人間の感覚では容易に理解できる。ある人が差別的な発言をしたとする。あの人は昔からそういう人だ、という背景があって、その発言をした状況があって、文脈が分かる。司法が精査して判定するまでもなく、文脈が分かれば、「まともな人権感覚がある人」からすれば、白黒の判定は自明である。人権侵害の判定方法については別の文章で説明するが、行為ではなく人格を判定することは、ずっと直感的で容易である。

人格の状態を記録する

人格は連続性があり、容易に変えられるものではない。例えば、25歳で性犯罪を犯した人が、30歳で改心を宣言して、35歳でまた性犯罪に犯したとする。性犯罪は反復性があるので、人格が治ったと宣言するには、最低10年は見る必要があろうし、その後に、人権感覚が正常化したことを証明する手続きも必要だろう。そして、証明できるまでは、反社会的な人格として、間違いなく記録される必要がある。

となると、戸籍の制度を拡張し、人格の状態を記録するのが自然であろう。人格の状態は、婚姻の状態と同等か、それ以上の重みがあり、普遍的な意味合いがあり、人格の一義的な記録である戸籍に、記述するべき内容である。

人格の状態を証明する

仮に戸籍に人格の状態が記録されたとして、実際の社会がどのようにして人権制限を運用するのか。例えば、まず住民票やパスポートに人格の状態を反映する。教職に就きたければ、最新の人格の状態を提出すればよい。そしてこれは差別ではない。人権は生まれながらに平等で、誰しも生まれながらにして人権を制限されるわけではなく、人格の状態も同様である。

人権の概念を発展させて、反社会的な人格による、反社会的な行為を抑えるための人権制限について、実現可能な社会制度を模索し、思考実験を続けたい。

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