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2. “その瞬間”が有るか、無いかだ

世の中にはたくさんの言葉で溢れている。
著名人の言葉、偉人の言葉、漫画・アニメの主人公の言葉…
そんな中で共感した言葉を見つけることはあるだろう。今日はその中から、僕の学生時代に感じていた気持ちを表現してくれた言葉を紹介いたします。
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『3回』

3回。これは、大学4年間で公式戦のベンチ登録をされた回数だ。

大学2年に上がる年(2009年)の韓国遠征での延世大学戦、その年の関東大学リーグの大東文化大学戦と日本体育大学戦の3試合だ。いずれも人数不足による繰り上げだったため、実力で勝ち取ったとは言えない登録だった。
4年間でたった3回しか、公式戦でユニフォームに袖を通していない。氷の上でプレーした時間にすれば、5分もないだろう。

もちろん、練習試合などには出場しているし、4年生になった時はBチームでCマークを付けて何回もプレーをしている。だから、ユニフォームを全く着ていないという訳ではない。
もしかしたら、4年間公式戦でユニフォームを着ないで終えた選手もいるかもしれない。それと比べたら、僕はまだ良いのかも知れない。
だが、それでももっと公式戦に出たかった。

スポーツの世界が、実力世界であることは明白な事だ。
だから、「公式戦に出れない=実力がまだ足りない」と自分に言い聞かせて、練習以外に他大学やサークル、社会人チームの練習に乗れる時はお願いして乗せてもらった。学習院大学、慈恵医大学、順天堂大学、東京大学、上智大学、慶應ホワイトベアーズ、慶應ELK・スパイラル、早稲田ポーラーベアーズ、早稲田オリオンズ、東京都Sリーグ合同練習…
他にもたくさんのチームにお世話になった。この中には塾高時代からお世話になったチームもある。

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ただ、アイスホッケーは大好きだったが、筋トレは苦手だった。
ベンチプレスも同期の中で僕だけ100kgを上げることは出来なかった。
MAX値は、大学4年時の測定で95kg×3回。微妙に100kgを超えなかったのだ。それでも、当時体重63kgの僕としては頑張っていた方だと思う。(何とか人生の中で100kgは上げられるようになりたい。)
それでも周りのレベルに追いつけるように、必死だった。体力テストでは筋力系はダメだったが、持久力系などは上位に入っていたので、平均よりも上位の方に入っていた。氷上練習でも周りのレベルに追いつくために、色んな事も試してみた。

それでも公式戦には出れなかった。

大学4年生の当時、プレーヤー35人、GK4人の大所帯に。
お気付きの方もいるだろうが、丸々7セットできるのだ。FWは、小学生よりも前からホッケーをしていた経験者ですら、4セット目に入れないほど厳しいものだった。それ故に、FWからDFに転向した選手も少なくはなかった。
そんな中、僕はFWとして、その競争の中で戦う事を選んだ。

アスレティックトレーナーを目指した時もあった

時は遡ること、大学1年の夏合宿。
自分の実力と大学のレベルに差を感じていた当時の僕は、苫小牧合宿の際にアスレティックトレーナーに転向しようと考え、主将・副将との個人面談の際に転向の意思を申し出た。
だが、当時副将だった小茂鳥さんに、こう言われた。

「まだ高校で3年しかホッケーやっていないんだし、まだトレーナーに転向するのは早いんじゃないか?まず1年、人より少しでも多く氷上に乗ってみてごらん。
仮に1週間の中で、他の人よりも1時間氷上練習に多く乗ってみたとしよう。1年で約52時間、4年間で200時間を超える練習量を他の人よりもこなしているんだ。それは小さな一歩かもしれないが、4年生の時には大きく変わっていると思う。
もしも、4年になってもトレーナーをやりたいと思ったら、その時に決めれば良いさ。」

理工学部の先輩でもあった小茂鳥さんらしい、非常に理論的な考え方だった。他の例えも混ぜて話してくれたので、心の中にスーッと入っていったのを今でも覚えている。
この個人面談が無ければ、僕はアイスホッケー選手をやめて、アスレティックトレーナーになっていたかもしれない。
もしそうなっていたら、僕はドイツにいなかっただろう。

掴みかけたチャンス

個人面談後から迷いは無くなった。競争率の激しいFWの中で、「自分らしさとは何か」「どうしたらこの中で抜け出せるか」を考えながら、練習に取り組んだ。
大学3年の春、早慶戦のメンバーの選考会という名目で、紅白戦が行われた。この時に人生で初めてハットトリックをした。紅白戦とはいえ、1試合で3点なんて初めてだし、めちゃくちゃ嬉しかった。仲間のお膳立てのゴールばかりだったが、それでも嬉しくて、セットを組んだ仲間と喜んだ。
驚いたのはその次の練習だった。紅白戦の選考結果、2セット目のロースターに自分の名前が入っていたのだ。元々6セット目だった事を考えれば、大躍進と言えるだろう。

だが、そのチャンスを上手く活かせなかった。

練習を重ねる度に、ミスをしてはいけないというプレッシャーから、プレーに勢いが無くなっていった。正直、ホッケーが楽しいとは言えないぐらい追い込まれていた。
3セット目、4セット目と落ちていき、早慶戦直前の練習で試合メンバーから落ちた。ショックはあったが、自分の実力も分かっていたので、納得もしていた。やっぱりレベル高いところでやるのは難しいんだって…

それでも悔しかった。負けたくなかった。試合に出たかった。
早慶戦の、あの独特な雰囲気の中でプレーしたかった。

それからも試合に出るつもりの準備で、練習に取り組んだ。
たとえ練習試合や紅白戦だったとしても、ゴールした瞬間に仲間と喜び合える一瞬を味わうために。

だが、結局その後公式戦のメンバーに選ばれることは無く、大学4年間の部活は終わってしまった。悔いが無いと言えば嘘になるが、それでもこの4年間で学んだ事はとてつもなく多かった。人として大きく成長できたのは、この4年間が大きな影響を与えていたのは間違いない。

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それでもプレーを続けた理由

4年間で3回しか公式戦でユニフォームを着れなかった。
あえてFWという競争の激しい中でプレーし続けた。
一時はアスレティックトレーナーになろうとも考えたのに、なぜプレーヤーを続けたのか。その気持ちを代弁してくれるような漫画に最近出会えたのだ。そして、当時の僕と同じような考えを表現してくれた言葉が綴られていた。

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「その一本で『俺の時代キタ!』くらいの気分だったね!!
-“その瞬間”が有るか、無いかだ
将来がどうだとか、次の試合で勝てるかどうかとか、一先ずどうでもいい。目の前の奴ブッ潰すことと、自分の力が120%発揮された時の快感が全て。
…(中略)…
-ただ、もしも、その瞬間が来たら、それが、お前がバレーにハマる瞬間だ。」(木兎光太郎)
古舘春一作 ハイキュー!!(集英社):第89話『理由』より引用

そう、“その瞬間”の為に、練習に必死で取り組んでいたんだ。

ゴールして、仲間と喜び合える瞬間の為に。
強豪を倒して、勝利を喜び合える瞬間の為に。


時間はかかったが、ドイツでその瞬間は幾多もあった。

最初のシーズンに1対20で負けた相手に、3年で勝ち越せたこと
隣町の強豪に6年ぶりに勝ったこと
元4部リーグのチームに延長戦で勝ったこと
試合数が少ないのに、リーグで4位になれたこと
反撃の狼煙を上げたゴールとシュートブロックで勝ったアウェイ戦

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人生の中でほんのわずかな時間かもしれない。
でも、“その瞬間”を味わいたくて、ずっと続けているのかもしれない。
一度味わったら、やめられなくなる。そんなワクワクした瞬間は、きっと自分の生き方さえも変えてしまったと思う。

最後に

「ハイキュー!!」を知ったのは、実はここ最近の話。Netflixにあったこともあり、おうち時間でシーズン1~3を観てみた。スポーツ漫画の王道でもある「SLAM DUNK(スラムダンク)」を観ていた頃のように、スポーツへ熱い情熱を注ぎ込むようなアニメだった。特に、このシーンは印象的で、その後この言葉をかけられた月島蛍は、春高予選決勝の白鳥沢戦で“その瞬間”に出会っている。

今回、僕が大学時代、そして今も持っているメンタルの維持の一つについて書きましたが、試合に出れないことはやっぱり辛いものですし、どんなにメンタルが凹まないようにしようとしても限界があります。
ドイツに来て2シーズン目。相手と拮抗した試合をしていたが、試合終盤で逆転され負けてしまった時、外国人助っ人としてチーム内でプレーしているのに、その状況を打破出来なかったことが悔しくて、試合後の控え室で号泣してしまった。僕のことをよく知っている相手チームのコーチからも心配されるほど、しばらく立ち直れず泣き崩れていた。

でも、次の週末には試合が控えていたし、いつまでも引き摺っていてはチームの雰囲気も変えられないことも分かっていた。なので、すぐに気持ちをリセットして、次に向けて準備をするように切り替えた。
多分、チームメイトと喜び合える瞬間を味わうために、今以上に強くなることに情熱が注がれていったのだと思う。やっぱり“その瞬間”を味わうために、一歩、また一歩と進もうとしているのだろう。

いつか皆さんも自分の中で芽生えた、“その瞬間”に出会えることを僕は楽しみにしております。

Stuttgartから情熱を込めて
込山優

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