見出し画像

小島烏水の相模野横断

茨木猪之吉《山上の烏水》1912

小島烏水(1873 - 1948)は明治初期の高松に生まれた。
横浜正金銀行に勤める一方、旅行家で登山家であり、文芸評論家でもあり、江戸期の地誌や浮世絵風景画などの芸術にも明るく、自らも紀行文や風景論という形で多くの著作を残した。
柳田国男、田山花袋など当時の多くの文化人とも交流があった。

生まれは高松だが烏水の一家は1878(明治11)年から1927(昭和2)年まで何度か転居しながらも横浜市西区西戸部(通称「山王山」)周辺で暮らした。

烏水が本格的に登山にのめり込むようになったのは明治30年代(本人20歳代後半)以降だ。
自宅の二階から「秩父、大山、富士の新雪に光輝を帯びた連山を仰いで、狂喜した」と本人の記述があるように、少年時代から遠く関東西部の山々を日常的に目にしており、それはつまり山々に「見られていた」人でもあった。

明治初期の横浜で大量に流れ込んでくる西洋文化にふれながらも、まだ人が気軽に訪れるのも難しかった時代の西方の山脈に意識を引かれ続けていたという事実は、彼の思想に相当な影響を与えたはずだ。

そんな烏水は1906(明治39)年に相模野(現在の神奈川県中北部の平野)の踏査を行った。
山王山の自宅を出発し、保土ヶ谷、町田、淵野辺を経由して当麻へ向かった。
実際歩いてみるとかなりの距離だ。登山家らしく相当な健脚だったことが分かる。

私の絵画では「相模野」にあたる平野部である町田から当麻までを描いている。

国木田独歩『武蔵野』(初出1898年)を日本における郊外誕生のエポックと仮定すれば、烏水の相模野踏査は明治後期の「郊外の果てへの旅」(小田光雄)だったと言える。
自宅から日常的に目にしていた西の山脈の麓へ徒歩で向かうという、ちょっとしたフロンティアへの旅だったのかもしれない。

その踏査の様子は『相模野』という紀行文として1907(明治40)年に発表された。
今読むと当然のものである書き手の感性を通過させた文体だ。

登山家らしい地理に関する経験と知識にもとづいた垂直の俯瞰的視座を持ち、
相模野を武蔵野と、さらには富士裾野や那須野(栃木県北部)と比較する。
さらに相模野は地理上で武蔵野とかなり重なるとすら指摘している。

また踏査行程における土地の歴史を掘り下げており、そこから出て来た僧や武人への言及(淵野辺伊賀守義博、一遍上人、高座郡の坂東武者など)もある。

踏査の目的地である当麻山無量光寺内の一遍上人像

一方で行程の植生の描写も行う。
相模野は一大養蚕地帯でもあったため、近代日本を支えた養蚕農家による桑畑が頻出する。
生糸を運ぶ「絹の道」であった八王子・横浜間に横浜鉄道(現在のJR横浜線)が開通したのは1908年で、踏査の直前だ。

余談だが横浜鉄道開通以前に八王子から横浜へ鉄道で物資を運ぶ場合は、
甲武鉄道=中央線、日本鉄道=山手線、官設鉄道(国鉄)=東海道線と、鉄道国有化前のそれぞれの路線に対して運賃が必要だったため、
生糸商の原善三郎ら横浜の有力者によって直通路線の開通が構想されていた。

話を『相模野』にもどす。
その他に印象的な場面は、やはり国木田独歩『武蔵野』でも描写されていた、明治時代の文化人であった烏水と地元農民たちとの微妙な話の噛み合わなさや意識のズレがあぶり出されていた点だろう(いくらか農民への侮蔑的とも取れる表現もあった)。
彼らの間には近代的自我という溝が走っていることが透けて見えてくる。

そしてなにより記憶に残ったのは時折現れる文学的表現だった。
たとえば現在では護岸工場されてかなり直線的になった相模原市と町田市の間を流れる境川を「子供がいたずらに白墨(チョーク)で引いたような、ひょろひょろ線」と描写する。

町田のあるカレー屋の店主が子供の頃(1960〜70年代前半?)は現在の相模原市南区鵜野森あたりの境川はまだ護岸前で蛇行しており頻繁に氾濫していたそうだ。
当時の航空写真よりも、現在の相模原市と町田市の自治体間の境界線にその名残りがはっきりと見てとれる。

町田市鵜野森付近の境川
「今昔マップon the web」より
相模原ゴルフクラブ付近
相模原沈殿池付近

また淵野辺から当麻の無量光寺へと至る「何でもいいから動くものに遇いたい」と言うほどの「水に渇している」「茫々とした原」を、「北海道辺の殖民地」と喩える。
現在は相模原ゴルフクラブを含む相模原市南区の緑地から工場地帯あたりだろう。

そこからさらに南へ向かえば、後に東京都心の郊外化に飲み込まれた市ヶ谷からの移転を余儀なくされた旧日本陸軍士官学校演習場となる「相武台」(1937年に昭和天皇が命名、現在のキャンプ座間)が目と鼻の先であり、
まさに「茫々とした相模原」といった様子だったろう。

これらの記述からは、ほんの110年程前は河川沿いなど水場の近くでないと人の気配がない、つまり生活が困難であったことがよく分かる。

『相模野』は短い文章だが、現在の相模野との大きな違いと少しだけ残っている共通点が見えてくる。

 《郊外の果てへの旅と帰還 #10(小島烏水の相模野横断)/
Journey and Return to the End of the Suburbs #10 (Kojima Usui's Sagamino Crossing)》
2023
パネル・紙・水彩・鉛筆・色鉛筆
watercolor, colored pencil, pencil on paper, panel
51.5 × 72.8 cm
同上 部分
同上 部分

【参考・引用】

▪︎ 寺田和雄編『ふるさと町田文学散歩 ー鶴見川・境川源流紀行-』2014 茗溪社 P.162-183/※『相模野』初出1907年

▪︎小島烏水 著・近藤信行 編『山岳紀行集 日本アルプス』1992 岩波書店

▪︎近藤信行『小島烏水 上 山の風流使者伝』2012 平凡社

▪︎横浜美術館『小島烏水版画コレクションー山と文学、そして美術ー』2007 大修館書店

▪︎屋根のない博物館ホームページ「資料 小島烏水 『相模野』から 相模野台地を横断した人」

http://yanenonaihakubutukan.net/4/sagaminodaitiwooudan.html

▪︎今昔マップon the web

https://ktgis.net/kjmapw/index.html

▪︎枝久保達也「生糸が結んだ「JR横浜線」、その113年の歴史とは」DAIYAMOND online

https://diamond.jp/articles/-/28354

▪︎茨木猪之吉《山上の烏水》1912

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?