ゴールは自ずと向こうからやってくるから。
僕は過去、苦しかった時期がある。
苦しかった過去なんてものは、誰だってあるかもしれない。
思い出したくなくて、向き合うのが怖くって、目をつぶって、逃げた。
あの日から、ずっと逃げ続けてきた。
そして、ここまで逃げてきた。
逃げてきたはずなのに…。
ツイートにある通り、自分の嫌いなまさまさがピロピロピーンって急に出てきて一瞬で追いつかれた。
また同じ過ちを繰り返すのか…と怖くなった。
鼓動は聞こえるし、胸は痛い。
手足は震えていたように記憶している。
ここまで逃げてきたのに…。
このままでは嫌だ。
痛くても辛くても、向き合おう。
そう思った。
向き合う時間をつくって、書くのがこのnoteだ。
このnoteを書くのも少し怖いけど、いいんだ。
人は、どうして嫉妬したり、不安になったりするのだろう。
不安からなのか、どうして勝手に妄想するんだろう。
妄想して、どうして自分を傷めつけるのだろう。
どうして行動にうつしてしまうんだろう。
人は、外傷性の痛みに対しては「鎮痛剤」を飲む。
不安から、行動にうつしてしまうことは一種の「鎮痛剤」だ。
一瞬の安心を求めた行動だ。
傷の根本の原因に向き合えないから「鎮痛剤」を飲み続けるのだろう。
これは、ある意味依存症だ。
その行動をしていないと、苦しみから逃れられないのだ。
不安とは、なんだろう。
どうして生じるのか。
・裏切られた経験
・相手をコントロールしているという実感を必要としている
・捨てられるかもしれないという妄想
など
あとは、自分と他者との境界線が曖昧で依存傾向にある場合も考えられるかもしれない…。
この記事面白かったよ。
傷をおった人たちは、一瞬でもいいから、苦しみ・痛みから逃れたい。
僕は、すごく攻撃的だ。
今も攻撃性は残っていて、最近も大事にしたい人を傷つけた。
そして、僕も傷ついた。
これも似たようなもんだ。
弱い自分を受け入れられない結果、相手を攻撃する。
そして、攻撃的な自分に落ち込む。
やればやるほど傷つく。
でも、抑制できない。
やっぱり、これは、ある意味依存症だ。
その行動をしていないと、苦しみから逃れられなかったのだ。
でも、過去の自分と比較して、攻撃性は軽減したように思う。
どうしてだろう…。
今出せる答えはこれだ。
どんな僕であっても、姿勢を変えない人が居た。
攻撃的な僕を受け入れ「まさまさって不器用だよね!」って笑って言ってくれる友。
傷つけられた当人でさえ「ほんまにあんたって人は。素直になりなさいや」っていって、傷つけられた部位をさすりながら、微笑んでいる。
どんな僕であっても、受け入れてくれる友が、僕には居た。
だから、この攻撃性は少しずつ軽減してきた。
攻撃性の裏にある弱みも少しずつさらけだし、受け入れてこれているのだと思う。
で、あるならば…。
今回の自分の嫌いなまさまさがピロピロピーンって出てきたときに、やる行為は、そんな嫌いな自分でさえも、受け入れてくれる人がいるはずだから、さらけだせばいいのかもしれない。
でも、受け入れられなかったら…。
怖い…。
誰にも受け入れられなかった僕を、僕自身が受け入れられるだろうか…。
怖くて、やっぱり今はできないな…。
ただ、ここまで書いてちょっとわかったことがある。
僕が傷ついたのは、学ぶためであって、誰かのせいではないのだ。
体験を重ねることが生きること。
痛みを学ぶことも大切なのかもしれない。
もがくことも見えないことも苦しみも、すべては回復の道筋。
苦しみは人を闇に突き落とす。
でも、それは回復への道筋なのだ。
そう思えなくなった時、登場するのが、いつも僕を支えてくれる友だ。
僕は、いつも近くで明かりを灯してくれる友に恵まれてきた。
「忘れるな!思い出せ!君は勇気を持って歩いてきたじゃないか!」
だから、今の僕がいる。
だから、今度は、僕があなたの明かりになりたい。
苦しくても、痛くても、ゆっくりでも歩き続けよう。
ゴールは自ずと向こうからやってくるから。
サポートありがとうございます。 あなたのそのお気持ちのおかげでnoteを続けてこれました。 去年は1年で120本…みなさんのおかげです。これからも誰かに届く文章をかいていきたいです。