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Tristan und Isolde 徒然⑧ 前奏曲冒頭のヴァリエーション その4

今回は「薬」に関する場面に登場するヴァリエーションのご紹介。まずはいつものように前奏曲冒頭の楽譜を再掲します。

「トリスタンとイゾルデ」における「薬の交換」は劇における重要なファクターです。これはワーグナーの創作でありまして、原作にあるわけではありません。ブランゲーネがイゾルデに命令された「死の薬」を「媚薬」に取り替えたことで起こるドラマなのです。

ところで前奏曲冒頭動機は全体がひっくるめて「憧れの動機」とか「憧憬の動機」と呼ばれますが、今日見ていくように最初のチェロの導入を除いたトリスタン和音から進行するモチーフは「薬」に関する場面に登場することから「愛の薬の動機」と呼ぶこともあります。

まず1幕3場、ブランゲーネの以下の音楽に登場します。

(いわくありげな親密さでイゾルデに向かって)
ブランゲーネ「ご存知ありませんか、お母様の魔術を?
思い違いをなさっているのかしら、姫様は何でも利口にお考えなのに、ご忠告もなく見知らぬ国へお母様が姫様のお供に私を使わされたとでも?」

セクション1とセクション2が連続提示され、セクション3は独自の展開を見せ、Gに帰着します。

続くイゾルデの答えはこう。

(陰鬱な調子で) イゾルデ「お母様のご助言は私もよく覚えているわ。ありがたく思っています お母様の術を。 裏切りには復讐、悩みごとには心に安らぎを!」

このイゾルデの和音はどうなっているでしょう?
Cø → F₇(♭₉) となっており前回紹介したツーファイブ、つまりⅡ → Ⅴ のシンプルな進行になっています。終わりの音が短調の属9でもあり陰鬱さを含んだ響きですね。トロンボーンが演奏していることも影響しています。

続くトリスタン和音はブランゲーネのように短3度上がるのではなく、長2度上昇、Dø → G₇(♭₉) です。やはりツーファイブです。

そして3度目、普通なら配置の違うトリスタン和音が来るところですが、同じ配置で長2度上がった和音が鳴ります。つまりここまで長2度間隔のゼクエンツで3度トリスタン和音が提示されることになります。
Eø → A₇(♭₉) これもツーファイブ、しかしソプラノ声部は上昇を続け「死の動機」に接続します。

「あの櫃を持ってきて!」と命令されたブランゲーネは薬の詰まった櫃を持ってきて、薬の説明を始めます。

ブランゲーネ「痛みや傷にはこのバルサム、たちの悪い毒には解毒剤。 (1本の瓶を取り出して) いちばん尊いお薬はこれです」

ん?この最初の音はどんな和音でしょう?
「レラ♭ドファ#」という音で始まりますが、これはトリスタン和音ではありません。トリスタン和音なら上の音は「ファ」になるはずです。そして減7でもありません。あえて言うなら属7(D₇)の5音「ラ」が下方変位されたものです。ここでワーグナーは遊んでいるのです。「トリスタン和音ふう」の音で始め、行き着いた和音はG₇(₉)です。明るいんです!低音を見ると「レ」から「ソ」に進むので、異化されたとはいえ「ツーファイブ」の進行です。

ブランゲーネはメロディーが到達した第9音からさらに少し茶化した感じで半音階上昇を続け、スケルツァンドな楽想でバルザムを紹介します。このような軽妙な音楽はここまで出てきませんでした。同じようなアイディアで解毒剤も紹介。ここまでをあえて「異化したトリスタン和音」や軽めの音楽を使ってバルザムや解毒剤をサラッと扱いました。

そして最も大切な「媚薬」を紹介する際は、前奏曲冒頭でよく聞き慣れた最も印象的なトリスタン和音 Fø が鳴ります。1幕3場の最初のほうで聞かれた「愛のまなざしの動機」も演奏したヴィオラのソロで上昇していき、セクション3の「憧れの動機」の結尾につながります。「いちばん尊いお薬」の箇所は「媚薬の動機」(「愛の魔酒の動機」と呼ばれることも)になります。

1幕4場ではブランゲーネが歌った言葉をそのまま鸚鵡返しにする箇所があります。

イゾルデ「(激情して) おまえこそ私を大切にしなさい、不実な侍女! 知らないの、お母様の術を? おまえは思い違いをしているの、何でも賢く考えるおまえなのに? ご助言もなく見知らぬ国へお母様がおまえを供に私遣わされたとでも? 痛みや傷にはバルサムをくださり、たちの悪い毒には解毒剤。この上ない苦しみには、この上ない悲しみには、死の薬をくださったのよ。」

3場で出てきたブランゲーネの言葉をほぼそっくり返しているのがわかります。違うのは最後の「尊い薬」か「死の薬」の違いです。和音の進行もほぼ一緒ですが、若干の違いがあります。まず拍子が違うのは一目瞭然!ブランゲーネが6/8、イゾルデが4/4です。先程ブランゲーネが軽い調子でいなしたバルザムと解毒剤の紹介では、音色は軽いピチカートが当てられていますが落ち着いた言い回しで、むしろ茶化したブランゲーネを嗜めるような趣きです。

"Wunden"や"Gifte"の言葉頭に律儀にピチカートが添えられていて、裏拍で諧謔的に歌ったブランゲーネと対照をなす

これが「宿命の動機」「死の動機」へと繋がっていくのです。

さて最後に、3幕後半でブランゲーネがこのように歌う箇所があります。

ブランゲーネ「(腕の中のイゾルデに再び意識をとりもどさせ) 目覚めておられる!生きておられる! イゾルデ様!お聞きください、私の償いを受け入れてくださいませ! あの飲み物の秘密を王様に打ち明けました。王様はご心配の中大急ぎで船を出されました、姫様に会って、姫様をあきらめ、姫様をあの方とめあわせようと。」

自分がすり替えた薬の秘密を王に打ち明けた、と語る場面。ここでセクション1から3の音楽が繋がって聞こえてきます。セクション1の開始音は「ラ」ではなく「ラ♭」になっています。これまで見てきたようなゆったりした展開ではなく、早回しのようにセクションが連続して提示され、必死な思いを吐露するブランゲーネの状況を描き出しているのです。

4回にわたって前奏曲冒頭動機のヴァリエーションを見てきました。次回は「憧れの動機」が使われる他のいくつかの場面を紹介します。

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