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『百年のお裾分け』(4):寛解

僕は父を苦しめて殺した。2020年、父が亡くなったあとも、どうしても口に出せなくて苦しんだ。酒が止まらず他人からは理解できない行動を取る(2016年の母の逝去の頃からであるが)。心療内科に行くようにすすめる奴らもいたが、自分の苦しみの原因は分かっていた。薬でごまかすならば、酒のほうが良いと思った。
父は2020年2月、「第一腰椎圧迫骨折」で倒れていた。救急搬送した大きな病院では経緯を見たいと言うので何度も連れて行った。そのたびに衰弱して一ヶ月後の最後の時には僕の絞ったジュースも飲めなくなった。足には壊死が始まっていた。何度か立ち上がれるようになるが転び起きれなくなっているところを見つけた。ぼくが悪い。隣で寝ていればよかったのだ。嫌がる父を病院などにつtれていかねばよかったのだ。回復できて、まだきっと元気で酒を飲んでいただろう。妻も家族もよく介護してくれた。感謝している。
僕は、自分が今年の終わりまで持たないと分かっていた。酒の量は増えて、妻との諍いも絶えなかった。些細なことで激高して手がつけられなかった。悪夢が睡眠時間を削っていた。家族には腫れもの扱いである。世間では統合失調症でホームレスになる人も多い。遠くにいる息子とももう合うことができないと思い始めていた。生きていても仕方がない。

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転機はおかしな所から来た

夏の始まりの頃、町内会で土地をかって駐車場を作る事になった。それによってお祭りをしたりして町内の親睦が図られ、老後も安心だという。僕は国体の仕事で忙しく、関わることができないままにきめられてしまった。役員の一人と大喧嘩になった。その時に、お前に代案はあるのかと言われた。自分が80歳になった時に安心して臨終を迎えられるかという事なのだ。皆不安だから、的はずれなことをするのだ。地域の人のつながりがあったから、町内の夏祭りは意味があったのだ。一日中離れた会社のオフィスで過ごす私たちに地域でのつながりなど出来るはずがない。

理屈ばっかり言っていないで行動しなければならないと気がついた。しかし何が出来るか全く分からなかった。

僕は母が亡くなってから5年間毎日父の食事を作った。その毎日の食事作りで、母が作っていた食事を考えていた。当たり前の家庭料理である。父が喜ぶ料理を素材から作っていた。大変な手間だが、僕の仕事は自宅を事務所にするものなので成り立ったのだ。

明らかに食事こそが私達生命とって大事なものだということは分かっていた。その食事とは素材から「生命=食べ物の内にあるタンパク・脂質の立体構造」を維持した食事である。しかし、それを作るには大変な時間と労力がかかる。私たちは忙しすぎるから作ることが出来ない。「政治的に正しい栄養学」が私達を辛い目に合わせて殺しているのだ。

「お裾分け」の思想

かつて(と言ってもほんの50年前)家庭というシェルターで食事が作られ家族が守られていた頃は、多く出来た食事を他所の家に分けてあげた。自分た食べるものだから「安心・安全」である。

母はいつも多く作って近所にいる親戚の家に持っていった。僕が小さい頃、近くの廃校となった高校の家庭科室で近所の人が集まり、独居の老人に弁当お作って持っていっった。小さなエリアで困っている人に持っていってあげて、ご飯を共有していたのだ。行政がこういった人と人とのつながり利を代行するようになってからおかしくなった。介護保険は当たり前だったヒトの繋がりを金で買うものとしてしまったのだ。そして政治家や上級役人は富を得るのだ。

公的な資金がこの分野にも投じられ、多くの企業が参入している。冷凍弁当もとってみた。市の補助金や寄付でつくる弁当屋もこれから林立するだろう。しかし企業は「利益」を求める。採算が取れなければならないから原価を抑え安く満腹を売るためにご飯ドッツリである。クレームがないように骨抜きの魚にソースをたっぷり掛けて魚中心の「政治的に正しくヘルシーな一皿」を作る。幾つか試食したが、そんな食事で80歳を迎えたくはない。

「百年のお裾分け」

過去から、そして未来へと続く「お裾分けの食事」を作ろうと思い立った。「利益」を得るためのものではなく、80歳の自分自身に届ける食事を作る「仕組み」を作るのだ。

父の家を改造して食事を作ろうと思った。物置となっている実家の掃除と整理を始めた。エリアの老人に食事を作って売りたいということを妻に話したら大反対であった。

そして、これビジネスではない。ビジネスとは誰かに働かせて「利」を得る経済活動である。食事を共にして失われた繋がりを見つける事なのだ。

誰が誰のために

この仕組は食事を食べる人と作る人が同じエリアに住んでいる事が前提である。売上(弁当をかっていただいたお金)から材料費と人件費・諸経費をひいた「利益」はその月に働いた仲間で分ける。100食までは時給800円になるが300食出たら時給は2000円になる試算ができた(これから変わります)。

僕は旗振り役で、この厨房(父の家)と土地の所有者だから家賃と改装費、初期費用は負担するし、その分は頂くがそれ以上のものは求めない。何よりも80歳になったときの自分がこの食事を受け取ることだ。誰かを働かせて「利」を求めては続くことはない。

誰かが金持ちになるために働かせられるのではなく、自分自身の80歳になった時のために働くのである。

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伸一さんのこと

2000年の頃、父が総務部長で行き場のない僕を雇ってくれた鉄工所は親会社に潰された。その時、労働組合は労働争議で1億3千円を得る。委員長だった僕には次の就職先がなかった。

そこで父の実家の惣菜屋(平野屋)の軒先でソフト会社を始めた。その惣菜屋さんの社長が従兄弟の伸一さんだ。100年近く前に創業した海産物問屋だ。父も小さい頃のことをよく話してくれた。

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伸一さんのお母さんはまだスーパーがない頃惣菜を売りはじめ皆に笑われたと言うが、今の時代の先駆者であった。

伸一さんは県内の大きなスーパーに手作りの美味しい『ごま豆腐・胡桃豆腐』を売り年収1千万円を上げていた。僕は一緒に色々なことを試みた。しかし,時代は「食のグローバリズム」の進行の真っ只中であった。大手のスーパーは「利」の多い商品を多売するようになり工場での大量生産の商品に入れ替えられっる。地元資本のスーパーや商店は次々と姿を消していく。豆腐屋・肉屋・八百屋は消えていく。決して消費者が悪いわけではない。安い時給で誰かのためにこき使われていたのだ。共働きの家庭は生活のために食事を作ることもできず安いスーパーで買うほかがないのだ。

伸一さんはぼくより10歳年上だ。今は時給の安い仕事(その年齢でもできる仕事)で働いている。この話をしたら、「平野屋」の厨房にある鍋釜を快く貸していただけることになった。おまけに技術指導付きである。

あの美味しい『ごま豆腐・胡桃豆腐』を食べてもらえる。料亭でも仕入れていた位のものである。伸一さんは若い頃、福島まで作った天ぷらや惣菜を卸しに行ったという。決してグローバリズムは悪ではない。自分の商品を多く売ることは企業の当たり前の生態である。しかし、度をすぎると自分で食えないようなものを海外で安く作らせて広く売るようになる。そして自殺者が出るような製造工程は働き手の意欲を失わせ商品に悪意をぶつける。ダンボール入りの餃子が流通して、店舗での食テロがSNSを賑あわせるのは、企業の経営者の貪欲が原因だ。

Sさんのこと

Sさんは母の友人である。6つ年下で上品な佇まいの方だ。ときおり家の前を通っていて話をしたことがあった。暫く見ていないと思いご自宅にお伺いしたらとても喜んでくれた。僕の食事がお年寄りに喜ばれるかどうか不安であった。サンプルを配り始めたところだった。長期のモニターをお願いしたら、娘さんにも快諾頂けた。

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そこで毎日夕食時間位食事をお持ちすることにした。少しずつ色々なことを話し始めて、介護のことに話が及び、誰にも言えなかった父の最期の話を初めてしたのだ。話している内に涙が出てきて、ぼくは誰かに聞いてもらいたかったのだと悟った。

母は僕が本格的に食事を作リ始める前になくなった。前日に喧嘩して謝ろうと思っていた。その日の昼にこたつで横になって、夕方にはなくなっていた。父をしっかりこの家でピンピンコロリに逝ってもらうと約束したのに出来なかった。
Sさんには毎日お持ちして皿にもり、一品一品の感想を聞き、作り方に反映させる。家族の食事は常に変化しながらやがて自分を守るのだ。人に食事を作るのは難しい。口はぞれぞれだし「身体の海の代謝系」は違いすぎる。しかし、その困難に向き合うことで私達は「食」を維持してきたのだ。Sさんの笑顔は失われた人と人との絆を「お裾分け」が作ってくれると信じさせてくれる。

何よりもぼくの心が癒やされていく。話をするたびに、母にしてあげたかったこと、父のことを詫びる気持ちがぼくを苦しめなくなってきている。

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寛解、父の表札

父が亡くなって実家を掃除することがどうしても出来なかった。表札も外し物置となっていた。

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しかし、キレイにしようという気持ちになった。何せここで365日300食を作るのだ(目論見ですが)。そしてようやく片付いた。

当初、猛反対していた妻もお裾分けを初めてからあんたの料理は美味しくなったと言ってくれる。酒もピッタリとやめられた。些細なことで激高することも悪夢に眠りを妨げられることもなくなった。

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寛解:今の自分の未来を見つけること。

生命有るものはいずれ死ぬ。葉が枯れておち、蜘蛛が卵に自分を写して消えるようにである。ヒトは長く生きる。そして老人はいかに生きるべきかを教えてくれる。死の恐怖から「政治的に正しい医学」は老人を施設に隠して不老不死を標榜する。しかし皆通る道である。

歳を取ると今まで出来たことができなくなる。機能を失い記憶が消えていきそれまで見えていた人生の未来が思うようでないことを知る。しかし、新たな身体でこれからの生き方を見つけようとする。前に戻ろうとするのではなく、失ったものを嘆くことでもなく、『新たな人生の海図』を見つけるのだ。これを「寛解」という。言葉では知っていたが、ようやくどういうことか分かった。

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やがて、何もできなくなるであろう。そのときは安らかに生きる事が出来るだろうか。寛解とは昨日を忘れることなのかもしれない。

亡くなったあとで外しておいた父の表札を実家に戻した。誰が何と言っても父母が僕を育ててくれた家だ。家族が健やかに人生を生きることを望んでいた家なのだ。

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これからの一年

とにかくやることが満載である。自分が得てきたものを全て費やし未来を予測して人の言葉に耳を傾けて、食事の価値を信じていく。

食事を待っている人を見つけること、受け入れてもらえる食事作り、一緒に働いてくれる仲間さがし、半径一キロを一軒一軒おためしのお裾分けをを持って歩く。

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保健所の認可、ガス水道、造作・冷蔵庫の工事の見積もり、スタートアップまでの工程の管理。コンセプトの明確化と文書化。労務管理や契約の明文化、法的に必要な処理。NPOになるものと思われるので税務上の処理もいるだろう。

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何よりも食事のメニュー作り。これは一年をかけてSさんに教えてもらう。300食(最初は1/10位から)を作る段取りや原価の計算。仕入れ筋の開拓。事務処理を軽減化するソフトの開発、僕の本職はwebアプリの開発者(笑)。

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未来は予想できない。果してこの試みが始められるかどうかわからない。もっと違ったものになるかもしれない。何せ改装にはカネがかかるし、ヒトの口はみな違う。困難は多く、共感してくれる仲間も見つかるかわからない。しかし、始める前から諦めることはない。

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この文章を妻に読んでもらった。公にしてもいいと了解を頂いた。色々なことは有ったが、一緒に介護した一番の仲間だから。

僕の四千万歩はようやく始まったところだ。

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臨床の医師・介護の担当者はベストを尽くしてくれた

僕は臨床の医師に腹を立ててはいない。彼等はマニュアル通りに業務を遂行しているだけなのだ。教科書に書かれているとおりに患者は治る信じているのだ。最初の搬送したときのCTで腎臓に結石が見つかりよく日はそれを検査してもらったが昔からのものだから緊急の問題ではないと言われた。整形外科で第1腰腰椎圧迫骨折と診断されて、コルセットを作るように勧められ、採寸して数日後に行った。コルセットを父は嫌がりすぐに付けなくなった。もそもそしてむずがるのである。僕もつけてみて分かった。背骨の圧迫骨折は老人には当たり前に見られる問題である。多くの老人が小さな老人になっていく当たり前のプロセスなのだ。医師は毎日一人は診察すると言っていた。
背骨の圧迫骨折にはそして安静にして食事をしっかりと食べることが一番の治療だ。若い人向けにはセメントを注入するような治療も有ると聞くが、僕にはそんな選択はしたくない。医師も提案しなかった。父は何度も自分で起きれるようにまで回復するがトイレに行く時に転倒してしまう。僕に老人の介護の経験があったならば、ポータブルトイレをベッドのそばに置いて隣で寝て負担をかけないようにアドバイスしただろう。

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父は病院に行きたくないと言っていたのに経緯を見たいという医師の言葉を鵜呑みにしてしまったのだ。都合6回位連れて行って、長い時間待合ロビーでで待ってCTをとる。特に何をされるわけでも痛み止めが有るわけでもなく診察は終わる。また車まで連れていき、帰宅する。帰ってくると父は動けなくなっていった。最後には立てなくなりオシメをするようになり、毎日交換した。それでも汚いと思い訪問入浴を頼んでしまったのだ。訪問入浴のスタッフはは、血圧が低く入れるかどうか不安がっていたのだ。キレイにしてあげたいと思い無理にお願いした。それが決定打だった。ぬるいお湯なのに父は熱い熱いという。ぼくが殺したのだ。
亡くなったのはそのよく日であった。キレイなんぞにならなくていいから、そのまま体を拭いてやっていばよかった。介護の人たちや臨床の医師、訪問入浴の皆さんには大変に世話になった。何も悪くはない。恨みもしていない。ひとえに父の言葉を聞いて傍に寄り添っていなかった僕が悪い。
父と交わした最後の言葉が忘れられない。足には硬貨大の壊死が見られた。大きな音でフイゴのような息をする父が目を開けたので庭を見せて「お父さんの大好きだった三作さんの作ってくれた庭だよと話しかけた」もう長くはないことが父にも僕にも分かっていた。頷きながら「うん」と父は答えた。また瞳を閉じて大きな鼾をかき始めた。
亡くなったのはその数時間後である。ひとしきり家で泣いて日が暮れた頃に訪れたら実家の中はしんと静まり返っていた。静寂であった。皆ぼくが悪い。あのときの自分を助けたい。

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厨房研究に使います。世界の人々の食事の価値を変えたいのです。