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ほんのうに点々つけたらぼんのう -玄性寺

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「お寺に行く」というと多くの人は「修行に行く」というイメージを持つらしい。実家の玄関口で、そもそも浄土真宗においては修行がないと、母への説明責任を果たしたつもりでいた。では、何をしに行くのかという当然の疑問が投げられる前にエレベーターに乗ってしまった。事実、わたし自身、わざわざお寺に行く確固たる理由など良くわかっていない。

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事の発端は、仲良くさせてもらってる坊さんからの誘いからだった。彼の好きな人を呼んで合宿のようなものをしたいという趣旨の提案を受けた。年に数回はやっているらしく、今回は三連休で関東・関西から学生・社会人が何時間もかけて福井の寺まで集まるとのことだった。新幹線の切符を買い、博多駅の改札をくぐったときには、仲良くしてる坊さんとその友達と談笑している姿が頭にぼんやりと浮かんできて、心が小さく踊った。

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どうも坊さんと仲が良いというのは珍しいのだろう。特に、都市に住んでる若者にとっては殊更だ。ひょっとすると冠婚葬祭に際してしか真面目に関わることもないのかもしれない。実家を出る間際に見せた母の奇妙な面持ちも理解できる。ぼくもひょんなことから出会って仲良くなった。確か、その時は女性関係で苦しんでいて、その話を彼は自分ゴトのように黙って聞いてくれた。これが、ぼくの坊さんの概念を壊す体験だった。良くも悪くも彼からは全く坊さんの匂いがしない。ふつう説法で聴くような聖典のはなしも無ければ、煩悩から完全に解放されている様子もない。新鮮だった。

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彼の宗派である浄土真宗を開いた親鸞さんは、素人目から見れば生臭坊主だ。当時、タブーとされていた妻帯も飲酒も自らがやっていた。ある意味それが人間臭い。その人間臭さがすごく煩悩まみれである自分を安心させるのも本当である。

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玄性寺という特別な空間は何か非日常だった。夜中に、縁側でハイボールを飲みながら住職の美声に酔いしれると言った感じの非日常だ。現代風に言えばエモい空間だった。非言語的な部分でしか語り得ぬ部分が非常に多く、改めて振り返りこの体験を筆を執り書こうとしても、寺から帰って来てはや2ヶ月経とうとしているのにもかかわらず1%も書けない。

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1つ、いや2つほど印象に残っている言葉がある。ふと人間の煩悩という話になったときに、「ほんのうに点々つけたらぼんのう」だという言葉をいただいた。なんせ、ハイボール片手に聴いた住職のありがたい言葉だけに全く文脈や解釈はわすれてしまったが、今ではなんとなく、自分が必死に煩悩を消そうと奮闘しているのは実は最も愚かなことで、向き合って上手く付き合っていくしかないのだ、なぜなら人間と人間以外を分かつと言われている理性というものですら、たかだか「点々」くらいの違いなのだからというように理解している。あくまで個人的な理解だ。

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こんな非日常的な環境があったからこそ、一緒に行ったみんなとは何気なく普通の出会いよりも強い紐帯で結ばれている気がする。そう言えば、先日、東京でそのうちの1人に会ったときに、住職の別れ際の言葉の「この非日常を日常に持ち込んでみてください」という言葉に感銘を受けたと言っている子がいた。なるほど、なにか玄性寺に行くという行為は日常にも連続性のある行為に見えて来た。

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結局、玄性寺に行く理由なんてこの数ヶ月考えても言語化できず、すっかり参ってしまった。しかし更に参るのは、また行きたいと思ってしまうことだ。心の底から。


7月に縁あって玄性寺というお寺に行ったときに思ったことをつらつらと書いてみました。写真はお寺からちょっと歩いたところにあった普通の道です。

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