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抽象化と詳細そして捨象に伴う考察

【はじめに】

筆者の一番好きな映画は宮崎駿監督の『ハウルの動く城』である(『紅の豚』『カリオストロの城』も捨て難い)。しかし、何度も何度も映画を見ているのにこの映画の内容が実はすっかり頭に入ってこない。ストーリーの筋が全然思い出せないのである。そこが好きな理由だが、果たしてなぜそのようなことが起こるのかと考えた時に、ふとこのエッセイの構想を頭に浮かべたので少々お付き合い願いたい。本稿の最後の方では、より実用的な思考方法に関する考察も含めようと思う。

【ジブリ作品に見られる都市伝説】

ジブリ作品には、都市伝説がつきもので、ある社会問題や裏設定をあたかもおとぎ話のような体裁で見せるというそれである。私の大好きな『ハウルの動く城』も、『魔法使いハウルと火の悪魔』という原作の設定が、本映画ではいくつか明確に述べられることなく使われることで、あたかもハウルとソフィーの恋愛物語のように見えるように作られているらしい。かくなる筆者も1恋愛映画として見た方が実際にはしっくりくるほどの何か不思議めいた映画である(尚、本作を見たことがない読者の皆さまにはぜひ一度ご覧になった後で、ネット上に無数存在している都市伝説のようなものを一度見ていただきたい)。

【詳細の抽象化と捨象】

『ハウルの動く城』のような映画には、高度な詳細の抽象化と捨象が行われているのではないかと私は考えて止まない。本作で作り込まれた設定や詳細にはいっその事目を瞑って、一度、Boy meets Girl の恋愛物語というメガネをかけて、この作品を見てみる。おそらく詳細を抜きにして、一つ一つのチャプター(章)をもっと抽象化して物語を漠然と俯瞰すると、尤もらしい恋愛物語の筋ができる。その筋に沿って、元々の原作から限りなく詳細を捨象して削っていく。でも宮崎駿監督の凄まじい才能は、その捨象の傷跡を残すかのように細部にヒントを残して、表面上は恋愛物語に仕上げるものの、原作の設定を「匂わせるような」多重構造化を成功させる。つまり、一度詳細を抜きにして、抽象化する中で物語の本質を捉え、ギリギリまで無駄な部分を捨象することであの素晴らしい作品を作っているのではないだろうか?

【抽象化と捨象は「含み」を持たせる】

翻って、日本の文学作品の中でも最もその文字数が少ない「俳句」にはいつも驚かされる。俳句は、合わせて17文字という限りなく洗練された文字数で読み手の世界を表現する世界一短い芸術だ。あの松尾芭蕉の「古池や…」で有名な俳句も実は、初めて考案されてからあの形になるまで10数年かかったというから驚きだ。この17字という制限は、表現者に限りなくエッセンスを凝縮させることを要求しておきながら、しかし細部の趣を損なわせることのない完全性をも同時に求める至高の芸術である。身の回りに蠢く詳細を捉え、限りなく捨象し、抽象化したところに必要な細部を付け足す。まさに、俳句とジブリ作品の「含み」はこの構造が生み出しているのではないだろうか。

【抽象化の利用 - 読書】

ここで脇道に逸れて、抽象化とインプットについて言及する。抽象化というのは前述の通り、捨象して必要な部分以外を削ぎ落としたものであるから、旨味が詰まっている。よく国語の授業で百字要約せよだの、英語では日本語のようにまどろっこしい言い方はしないだの、それは全てこの抽象化という作業の必要性を説いているのではないだろうか。さて、最も身近に抽象化が行われているのは、もちろんのこと本のタイトルであり見出しであり、何かに必要な名前をつけるときである(よってこのエッセイもそこに気を遣っている)。最もインプットを高速で済ませたい時は、読書というものに関していえば、目次を読むのに一番時間をかけるのがいいのかもしれない。筆者の言いたいことはそこに論理の展開方法とともに述べてあるのだから。

【詳細に物語が宿る】

しかし、詳細というのはとても大事である、特に個性を与えるのが詳細の役割だと考える。世にゴマンと溢れる自己啓発本、そして名言。実は抽象化してしまえば、結構同じことを言っているのではないか。しかし、それでも、この手の出版物がなくならないのは、表現者のバックボーンが違い、その結論に至るまでの詳細が違うからだ。読者に興味があるのも、その経緯であり、細かい部分であると推測される。詳細は、その抽象化したエッセンスまでの捨象のプロセスを描くことに他ならない。つまり、プレゼンテーションなどで、始めに行う個人的な話(narrative)は詳細であればあるほど個性が出てくるというわけだ。

【おわりに】

捨象は物語の簡素化及び多重構造化に寄与していることはすでに述べた通りだ。筆者は好んで村上春樹の小説を読むが、その中でも一風変わった作品がある。タイトルも風変わりだが、『色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年』という本だ。一部推理小説と呼ばれるほど、作り込まれた世界観と捨象によって生まれた多重構造ゆえに、読了後もう一度表紙を捲らせる動機付けをしてくれるなんとも謎めいた本である。詳細と抽象化、そしてその間に存在する捨象というプロセス。より含みがあり雄弁な表現方法が生まれるその構造についての考察というエッセイだが、筆者としては『ハウルの動く城』と『色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年』が如何に自分の好きな作品であるかということを伝えたかったに過ぎないのかもしれない。

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