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生意気だった大学2年生の頃の雑記

2年半の振り返りと、将来について

【はじめに】

 この度、たいそう時期外れではありますが、年長者(まだ20歳ですが)ともなると、いや正確に言うと「生意気な大学生」にでもなると自分の表現したいことが多く、しかもこの表現が10年前には考えられない程、スピーディーにしかも多くの人に拡散されるようになったので、読み手がどのような反応を示すのかということに興味を持ちつつ、少しでも影響があればいいなぁと生意気にも思いながら書いてみようかという趣旨です。趣旨だけでこんな長くなるんだから本文はもっと長い(笑)。人に伝えることを必ずしも意図していないため、自己満足的に、そして自省的に書いている面も多くある文章です。以下、私の述べることについて項目立てしますので、興味のあるところだけでも是非読んで反応していただけるだけでも書き手としてこれ以上ない幸せです。

〈目次〉
① 海外に行く意義
② 学生団体の意義
③ 大学での学問の意義
④ 読書の意義
⑤ 飲み会の意義
⑥ 褒めることの意義

【① 海外に行く意義】
 大学に入ってからの2年間半の最も大きな功績は、日本という国を離れることへの恐怖感が失せたことだと思います。それに伴い、かの有名人が残した“Stay Hungry, Stay Foolish”の意味が自分なりに肚の底に落ちてきていることも大きな成長です。数えること、この2年半という期間で8回も日本を飛び出し、一部では「行方不明」と揶揄される程、海外に行ってきました。実は(記憶に残っていないものをカウントしないと)国外に飛び出したのは、大学が初めてで、良いのか悪いのか、「渋谷のハチ公を見る前にピサの斜塔を見る」という貴重?な経験をしました。最初は「井の中の蛙大海を知らず」という言葉に触発され、恐る恐る蛙よりも「強い」或いは「弱い」生物を見るために、井戸を登ってきましたが、今は淡水で生きてきた環境から海水で生きられるように進化しようとしてる訳だから、強い蛙になってるのかなぁとか勝手に思っています。


 よく「なぜ、海外に行くの?」という問いを立てられます。ぶっちゃけて言うと最初はその問いに対する解答は、全く分からず、日本に帰ってきた後にその短期留学での経験を「さも最初から予測していたかの如く」援用することによって答えてきました。しかし、何回か海外に行くうちに、個別具体的な訪問国毎の目的が見えてくるようにもなり、また概論的に海外に行く理由を個人的に見つめ直すこともできるようになったと思います。今、この問いに対する答えはシンプルです。さっきの井の中の蛙の比喩を基に答えると「井戸と外界の『境界』を知るため」だと思います。つまり日本と海外という地理的・文化的・政治的・その他諸々もの観点における「境界」を見ることにあります。最初は「違い」ばかりが目につきました。「日本はこうなのに、アメリカはこう、欧州はこう」といった違いです。


 しかし、回を重ねるごとに、共通点が見えてきました。それは決して日本と他国といった二国間のものだけではなく、多国間のものでもありました。それはとても簡単な理由です。もともと、人間という本来の性質はどこの世界でも変わらず、また、地域のアイデンティティーはあれどグローバル化による「画一化」「同化」が進んできているからだと思います。しかし、これは何も多様性を否定する価値観ではなく、むしろ「同化」という言葉を積極的に捉え、「相互理解により元の『ひとつ』の人間」として、互いを認め合う風潮が強まったのではないかという意味で理解しています。次第に、海外に行くことは境界を見定め、そしてそれを場合によっては「壊す」ために何がてきるかという使命感を満たすための、フィールドワーク的な学びを得る場となりました。国境というボーダーはもちろん、その他の文化を始めとするボーダーへの根源的な懐疑意識獲得と、ボーダー自身への暫定的理解を深めるための日常を超えた経験が私の将来に一筋の光を照射する海外経験に他なりません。


 もちろん、前述した「違い」を認識することによる良さも多くあります。これはある意味、反グローバリゼーションと呼ぶべき現象なのか、日本に対しての愛国心や地域に対しての地域愛が湧くということです。これは国粋主義を絶対的に意味するのではないのですが、違いが目につくことで、グローバリゼーションに埋没した地縁的なアイデンティティーを取り戻すことができます。普段、近すぎて見えない慣習であり文化は、一旦その距離を取ると今までよりもはっきりとした像を描き、そして時にその像の形を変えて五感に訴えます。もちろん、これは先に述べた同化を肯定的に見る立場とは矛盾しかねない感覚ではありますが、しかし、人間が「世界の中で見た人間(最広義には生物学的ヒト)」と「国・地域で見た人間」といった二面性を持つ限り共存可能な概念であり、その折り合いをどこでつけていくかは信条や経験に委ねられることでしょう。ここではそのバランスについては、議論を避けるものの、この地縁的なアイデンティティーの突如とした喚起により、ある意味で実はそのアイデンティティー自体を深く把握できていないことに気がつくことが多分にあることを指摘しておきます。そのことを認識するためにはやはり海外経験、少なくとも異文化経験は必須であり、このような経験が今一度世界の情勢や文化、もちろん身の回りのそれについて決して浅はかでない考察を与えます。


 結論として、海水で生きることのできる蛙になることが、如何に楽しいかはその本人の主観に依存するものはあるものの、充実という言葉に収束される感情を持つことになります。そこに、まさに海外に行く意味があるのであり、この進化を希求する行動こそ “Stay Hungry, Stay Foolish” の嚆矢なのだと思います。


【② 学生団体の意義】

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