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【コラム】日本の正解主義は"詰め込み教育"が原因ではないのかも

僕は受験勉強を筆頭とした「問題⇔答え」を反復学習で繰り返す日本の詰め込み教育が、正解主義な人間を生み出す原因だと考えていました。
だから「詰め込み教育は良くない!」と決めつけていたのですが、最近になって考え方が変わってきました。今回はそのお話をしたいと思います。

詰め込み教育に抱くネガティブなイメージ

詰め込み教育
詰め込み教育(つめこみきょういく、 英語: cramming)とは、もっぱら暗記による知識量の増大に比重を置く、あるいは知識の増大を目指す教育方法のこと。
(引用元:Wikipedia)

日本では、狭義の詰め込み教育というと1972~1981年に実施された教育を指しますが、広義に捉えた場合1970年以降はずっと詰め込み教育をしていると言えます。

そんな詰め込み教育ですがなんとなくネガティブなイメージがありますよね。

❝ 暗記するだけしてテストが終わったら忘れる ❞ とか
❝ 暗記ばかりで問題解決能力や思考力が付かない ❞ とか
❝ ググれば答えが出る時代に無駄な脳の使い方をさせている ❞ とか。

確かに自分の経験をもとにしてもいくつか当てはまることがあるし、「答えを早く出すトレーニング」とも取れる反復学習は正解主義に拍車をかけている感があります。

また西洋では、暗記は物事の解決に本質的に寄与しない旧式な学習法と捉えられてますし、暗記している姿を見ると物事を理解してない人と見られることからも、やっぱり良いイメージを抱く人は少ないように思えます。

かく言う僕もまさにそんな感じで、暗記中心の詰め込み教育に批判的な見方をしていました。次の言葉を知るまでは…。

反復学習の偉大さを知る

❝ The Paradox of the Chinese Learner ❞(中国人学習者のパラドックス)

みなさん上記の言葉をご存じでしょうか?僕は最近本で知りました。
これはオーストラリアの教育心理学者であるジョン・ビグスが1992年に提唱した言葉です。

中国人の子ども達(と言っても上海をはじめ都市部)は、日本の詰め込み型教育をさらにハードにした教育を受けています。
儒教思想により勉強し続け徳を積むのが偉いとされたり、高考(ガオカオ)と呼ばれる大学入試でマジで人生をかける必要がある等の文化的背景が大きく関わっています。
故に学校では徹底した詰め込み教育を行い、宿題の量は膨大、習い事もいくつもこなし、とにかく公私ともに勉強詰めの毎日を送っています。

そんな中国の子ども達が勉強することの何がパラドックスなのか?それはPISAの結果です。
詳しい方はご存知だと思いますが中国(上海)はPISAに2009年に参加して以降、順位は常にトップレベルを維持しています。(一時期戸籍を理由にPISAを受ける学生を選定するようなトリックもありましたが…)

PISA(Programme for International Student Assessment)
経済協力開発機構(OECD)による国際的な生徒の学習到達度調査のこと。日本では「国際学習到達度調査」とも言われるが、英語の原文は『国際生徒評価のためのプログラム』である。
  (引用元:Wikipedia)

PISAは「数学的リテラシー」「科学的リテラシー」「読解力」の基本3分野があり出題される問題は読解・知識・思考が試される内容ばかりです。つまり丸暗記が通用しません。
にもかかわらず暗記型教育の中国が、西洋の思考型教育を蹴散らしてぶっちぎりで結果を出してしまっているのです。

ジョン・ビグスはこの現象を研究調査した結果「丸暗記は確かに浅くて機械的な理解かもしれないが、意識的な反復学習においては内容の理解を深める学習法になり得る」と結論づけています。

つまり反復学習と暗記は別物であり、膨大な反復学習は暗記や理解を超えて基礎学力にまで落とし込む学習法であると新たに定義づけているのです。

まぁ言われてみると確かにその通りなのかもしれません。僕も九九や二桁の四則演算が暗算できるおかげで日々の生活でパッと答えを出せることは多く経験しています。
そう考えると反復学習を土台にした詰め込み教育は悪くはないように思えてきますよね。
むしろ反復学習って普通に苦行なので、忍耐力やレジリエンスといった力が備わる可能性すらあるかもしれません。

なので中国人学習者のパラドックスを知ってからは「あれ?詰め込み教育って悪くないんじゃない?」って思うようになりました。

正解主義は日本特有の教育システムにある?

でも詰め込み教育が悪くないのなら、なぜ日本人は正解主義に陥ってしまうんでしょうか?この疑問が僕の中で晴れたのはイギリスの教育研究者ルーシー・クレハンの言葉を目にした時でした。

日本の教育を見て驚くことは学校の役割だ。日本の学校では生活の仕方まで学校の中で教えている。そして ❝ 子ども達を集団の一員として生きるよう人格を形成している ❞ のだ。

例えば小学生の頃から班を作ったりクラスで集団行動を徹底して、言うことを聞かなければ子供同士で注意させたり集団単位で連帯責任を負わせること。
あるいは中学校に入るといきなり全員同じ学生服を来て髪型を強制しようとすることがそうだ。
個よりも集団であり、自分の行動が他者に影響を及ぼすこと徹底的に教え込んでいるのだ。

そうして日本人は誰しもが「他人に迷惑をかけない」「出る杭は打たれる」という感覚を持っている。しかしこれらは欧米人は持ち合わせていない考え方だ。

確かに小学校低学年の頃にはなかったであろう「出る杭は打たれる」とか「他人に迷惑をかけない」の考え方。
僕も中学に上がる頃にはこの感覚はバッチリ持ってしまっていました。というかこれがなかったら日本だと自己中呼ばわりされるまであります。

良く言えば「調和」、悪く言えば「同調圧力」ですが、もうこれが備わってしまうと批判的な意見(クリティカルシンキング)を唱えると否定的・連帯感に欠けると捉えられてしまうし、人と違った行動をすると変わった人だと思われてしまいます。

みんな一緒の考え、答えじゃないと怖いって感覚ー、僕はこれこそが日本人が正解主義に陥る原因に思えました。

正解主義の呪縛が解けるまで

しかしだからと言って僕は悲観的には思っていません。理由の1つが2020年からの教育改革です。今進行している教育行政は「英語改革」「高校改革」「入試改革」の3本が走っています。僕はこのうち高校改革に非常に注目しています。

高校改革は端的に言うと探求系授業やアクティブラーニングを増やす改革です。これがうまく機能すれば、

❝ 自身で思考し発言することで身につく主体性 ❞
❝ ブレストやディスカッション、ディベートを通して身につく対話性 ❞
❝ これらに紐づくように求められるクリティカルシンキングやレトリック ❞

などの能力向上が期待できます。

「主体性」「対話性」「クリティカルシンキング」「レトリック」

これらは正解を求めるどころか問いを生む力にこそ求められるスキルです。自身で問いが生めるのなら正解なんていくらでも作り出せます。
1つしかない正解に疑問を抱き、新たな視点で物事を考えることができるようにもなるでしょう。

なんとも取り留めのない話になってしまいましたが、日本の正解主義は僕はあと20年もすれば変わると信じています。
一方で「出る杭は打たれる」「他人に迷惑をかけない」という考え方はずっと残るとも思います。

これらがない日本人は…想像できない…

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