イラストレーター目黒雅也画集『挿絵道』2015年WEB版

イラストレーター目黒雅也の画集、「挿絵道」2015年版WEBバージョンです。

▽絵と文  目黒雅也

▽推薦文 枡野浩一(歌人 詩人歌人と植田マコト

▽解説 本田まさゆき(詩人 詩人歌人と植田マコト)  

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絵の先生 

絵の先生にめぐまれた少年時代でした。小学校の美術の先生は遠藤先生といい、「うまい下手より味のある絵」と繰り返しおっしゃる方でした。

中・高の伊澤完人先生(故人)はぼくの絵を気に入ってくださり、いつも好成績をつけてくださいました。校内の写生。色のついた砂で金閣時を描く課題。粘土細工で剣道の面を打っている姿を作ったときは特に良い成績で、石膏デッサンは苦手でした。ぼくの描きかたが珍しいのか覗きにくる学友もいて、「こういう風に塗るのか」などとつぶやきました。人数が多く文武両道の男子校でしたので美術の時間は医者を目指す秀才やラグビーや野球で鍛え上げられた豪傑な生徒にも一目おいてもらえる唯一の時間でした。高校の担任だった後藤億良先生(英語)は授業には厳しい方でしたがぼくが授業中に落書きをしているのを見ると「僕も絵が趣味でね。」「いい絵だね。」とほめてくださいました。今は故郷の佐渡で絵を描いて余生をおくられているかもしれません。

伊澤先生より「日大芸術学部には安西水丸がいるから」とのことで剣道部のぼくは週に一度美術室で受験用のデッサンの勉強をしました。先生は安西水丸師の日芸の学友だったそうです。安西先生はとても厳しいと評判の方でしたが、専攻を決める講評会でほとんど評価の無かったぼくに唯一声をかけてくださったので、ぼくにとっては一番やさしい先生です。ぼくの展示から教授たちが離れて次の学生の展示に移ったときに先生だけが長身の背をまるめて絵を覗き込むように見ながら「いいものを持っているからきみはイラストレーションを専攻しなさい。」と一言声をかけて下さったのです。授業後にお話をさせていただくようになり、ある日当時好意をもっていた女性について相談したところ、「君は花束を渡すようなことはしなくていいから才能を磨きなさい。」という言葉を頂戴しました。

大学では月に一度くらい学友の本田まさゆき(詩人)と二人で江古田にあった「唐変木」という居酒屋で先生(安西水丸先生)からお酒をご馳走になりました。授業後、先生は喫茶店か事務室で仕事をされて、ぼくたちはお迎えに行くか、江古田駅前の古本屋で待ち合わせをします。先生が入るのは住宅地にひっそりとある純喫茶というような趣のある喫茶店でした。また、事務室で中年の事務の女性の横の机で「ここが一番落ち着く」と原稿を書かれて教員室にはあまり近づかれませんでした。お酒の席は「先生、ヒッチコックを知っていますか?」などとおろかな質問をするようなぼくの無知を肴に一杯目のビールからスタートします。ぼくがビールのうまさをわかったのはつい最近で当時の一杯目はウーロンハイだったり、油っぽいおつまみばかり食べるのも「しょうがないなあ」と笑われます。先生はとても優しい目をして笑うので先生に笑われるのが好きでした。戦国時代の武将や江戸時代の剣客の話、現代の格闘家の話から、お酒が入るにつれて大学のあいつは嫌だとか、作家、文化人、芸能人の話におよび、日本酒が入りしばらくするとやがて女性うんぬんの話になるのが定番で、知識が浅く先生の話でわからなかった部分があると帰り道で本田に解説を求めました。

先生は話をされるときも作品を見るときもだいたいはじめの一瞬の表情で語られる方だったと思います。先生は厳しい毒舌と思われる言葉をやさしい目で言われたり、気遣いのある言葉を射抜くような目で発せられることがあります。はじめに好き、きらいの判別があり、その理由を酔眼で語られるのを聞くのは幸せなことでした。それは船出をするぼくたちにとって羅針盤のような言葉だったのです。そしてその羅針盤はぼくたちが経験をつみ大人になればなるほど鋭くその針を躍動させます。

目黒雅也


「目黒 雅也について」  本田  まさゆき(詩人)

目黒 雅也は僕の一番の親友であり、仕事仲間であり、師であり、恋人のようなものであり、おそらく、僕の生涯にもっとも影響を与え、これからも与え続けるであろう人である。大学4年で一緒にデザイン事務所を起こし、そのころ同居生活をはじめ、その生活は前世紀末から2014年春まで実に15年に及んだ。

ところがだ。近年、僕は1点大変困ったことに気がついてしまった。僕が彼の絵を褒めると、とたんに次に描く絵が何ランクか良くなくなる。必ずではないが、確率はかなり高い。安心して気が抜けるのか、慢心するのか、はたまた僕への挑戦か、いやがらせなのか。理由はわからないが、結果は散々目にして来た。この作品集の掲載作を描きはじめた年の春、我々はひさしぶりに別々の生活を始めた。顔を合わせることも減ったので絵に何か言う機会もなかった。仕事で描いた絵にはできるだけコメントをひかえた。その結果がここに掲載されている。僕には、目黒 雅也というイラストレーターの活躍を10数年遅らせたという負い目と、自負がある。彼はいい年齢だが、これからの人です。

この作品集を手にしたみなさん、ぜひ、ご刮目を。僕がおだてるとまた悪い方に行く気がするので、最後に、大学卒業時に安西水丸先生が目黒について語った言葉を引用させていただく。「日本大学芸術学部の写真学科は、篠山(紀信)さん、文芸学科は林 真理子さん、それぞれを正当に評価して、世に送り出した。デザイン学科は今、目黒雅也をちゃんと評価して世に出さなければ、あとではずかしい思いをすることになる」自分のゼミの学生である目黒を首席で卒業させるべきだと考えた安西先生が、他の教授や講師に告げたという言葉である。僕はこの言葉を安西先生ご本人からうかがった。

次に目黒 雅也について何かを書くのは彼の葬式のときだと思いたいが、僕の方が先に逝くような気がするので、そのときは、メグ、頼みます。

2015年3月7日 荻窪の仕事場にて




「目黒さんは大丈夫」枡野浩一(歌人)  

歌人として二十年以上執筆活動をしてきた私は最近、短歌をより広い層へアピールするためのお笑い芸人活動に最も力をいれている。二年しかないお笑い芸人としてのキャリアの中で、人生二度目に組んだコンビ「詩人歌人」の相方が「詩人」こと本田まさゆきである。

 本田まさゆきとは十年以上前に一度会っている。コンビを組む直前、久々に再会した夜はファミレスで夜を徹して話し続けたくらい、面白くて魅力的な男だと思った。でもそれは最初だけ。十歳年上の私に対しても常にタメ口をきくし、詩人とは思えないほど日本語能力がないし、そもそも詩をまるで書かないし、「なんでこんな男とコンビを組んでしまったのか」と嘆きながら、一年半が過ぎてしまった。今は所属事務所SMAの先輩、植田マコトさんが加わり、「詩人歌人と植田マコト」というトリオでもっぱらライブ活動をしている。

 その性根の悪さを私が指摘すると、「そうだよ、だから僕は友達いないよ、安心してよ」と、ひらきなおる本田まさゆき。奴の唯一の友達が目黒雅也さんである。奴が本書に寄せた一文を読むと、ほかにも友達がいるかのような書きぶりではあるが、目黒さん以外の友達には会ったことがない。しかも奴は目黒さんのことを話そうとして、うっかり「旦那が」と言ってしまったこともある。目黒さんのほうはどう思っているか知らないが、奴のほうは目黒さんに対して恋愛してきたのだと思う。

 目黒さんは胸板の分厚い、笑顔のさわやかなスポーツマンで、現在も子供たちに剣道を教えているそうだ。『挿絵道』という無骨なタイトルも、剣道をやってきた彼ならではの生真面目さのあらわれと思えば、合点がいく。  

 絵の実直さと本人のキャラクターにギャップがない。あの本田まさゆきと十数年、夫婦めいた暮らしができたというのは、どれほど屈強な精神の持ち主なのか。聞けば、この作品集にまとめられたような作風は、本田と別れてから誕生したものだという。祝福したい。心の底から。目黒さんはもう、大丈夫です。

 今より積極的に書籍を出していたころに出会っていたら、目黒さんと私の共著がすでに世に出ていたかもしれないけれど、目黒さんの絵に似合うような作品をいつか書くことができたら、そのときは奴をぬかして仕事しましょう。どうぞよろしくお願いいたします。

2015年3月10日 阿佐ヶ谷 「枡野書店」にて



おわりに

この画集は2014年に安西水丸師が亡くなって数ヶ月が過ぎたときに制作を思い立ちました。

ぼくは17年前に先生に出会ってからはずっと「線」のイラストレーションを志してきました。その中でもっとも難しく悩み続けてきたことは、じぶんの画風を確立することでした。いちばん自分らしく、自分にしかかけない描き方はどういうものなのか、画材、画法、モチーフ、気分のもちかた。先生(安西水丸)の線は決してラフでもヘタウマでもありません(一般にそのような呼称で呼ばれることについてはあまりこだわることではないと思っています)。モチーフの選び方、構図、配色、呼吸、すべて周到に計画された唯一の名人芸です。しかしこれがいかに確立された究極の技術であるかということは見るものに感じさせることはありません。それでも確かにそこには一ミリの隙のない立会いの間と呼吸があるのです。そのことに気がついたのもつい最近のことです。

ぼくはこの17年のあいだに画材や画法を幾度も変えたりもどしたりしながら、2014年から2015年にかけてようやく確立することができました。一番たいせつなことは「自分にしかできないものの見かた」ということでした。何と向き合って生きていくか、これからも絵を描き続けていくために自分の目は何をみているのかを自問自答しながら続けていく心が大切だったのです。

これまでのイラストレーションのお仕事やコンペを通して、ぼくはたくさんの方々の力をお借りして自分の絵をみつけてきました。この画集の絵のほとんどはこれまでのお仕事やコンペで発見したものです。イラストレーターはお仕事、クライアントあってのものです。みなさま、どうかぼくに絵を描くチャンスをあたえてください。


この画集を安西水丸師にささげます。

2015年 4月2日 目黒雅也  







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