見出し画像

ポスト・テクノ/ポスト・ロック論(2002年)

以下の文章は、Wordファイルの情報を見ると、2002年3月11日という日付を持っている(震災の10年前である)。レポートとして提出されたものだろう。関連するメモがあり、その日付が2001年11月なので、2001年冬学期の授業である。修士1年のとき、23歳。まだこのときには、修士論文をドゥルーズで書くことは決まっていなかっただろう。(なお、当時の文体は一段落が長かったので、読みやすくするために最小限の編集を行った。)

ポスト・テクノ/ポスト・ロック論

1990年代末から今日にかけて、いかにも〈新しさ〉を装ったカテゴリーがレコード店——のみならずインテリア・ショップまでも!——を彩っている。音響派、ポスト・ロック、エレクトロニカ、ポスト・テクノ、 テクノイズ(佐々木敦)などがそれだ。「音響派」ならばまだ意味作用も残っているだろうが、「ポスト・ロック」や「ポスト・テクノ」となると、要するに加速度的にミクスチャー化するポップに対しては、商品分類の技術もついに息切れ寸前なのかと思う。

拙稿の目的は、これら「最新」のジャンルに関する代表的な批評的言説を参照しながら、改めてその布置を整理することである。最近になってようやく、比較できるだけの量の言説が出回ってきており、さしあたりの整理には適当な時期だと思われるからだ。

1. 音響派とテクノイズ

私が知るところでは、最近の批評は、主としてテクノ・ミュージックの新しい展開に注目している。その嚆矢となったのが、佐々木敦による『テクノイズ・マテリアリズム』(2001)である。詳しい検討は後に送るが、ここで一つ、佐々木の立場を確認しておこう。

佐々木は、いわゆる「音響派」と、テクノの展開形である「テクノイズ」とに一定の区別を与えながら、大枠としては、「テクノイズ」もまた、現象としての「音響派」の一派に含まれうるという立場をとっている。「音響派」とは曖昧な商品的カテゴリーであり、批評的な機能に乏しい。これに対して佐々木の狙いは、これまで大雑把には「音響派」と呼ばれ、あるいはもう少々絞って、技術的な意味合いを含めつつ「エレクトロニカ」や「ポスト・テクノ」等と呼ばれた音楽の核心を、商品分類の言葉ではなく音楽構築の〈形式〉的問題として、「テクノイズ」と呼び直すことであった。したがって「テクノイズ」とは「形式概念」であり、ジャンルではない。

要するに「テクノイズ」とは、この「ひとつの音」に、可能な限り直裁に対峙しようとする「音楽」の「形式」である、と言ってみてもよいかもしれない。

佐々木敦『テクノイズ・マテリアリズム』青土社、2001年、85頁。

ところで他方の「音響派」というキーワードの前提として佐々木が述べているのは、「『音』の『響き』への意識的なこだわりと、音を『発すること/奏でること』から『聴くこと/耳を澄ますこと』への重心の移動もしくは転回」(同書、221頁)であり、一見したところ「テクノイズ」の定義と大差ないように思える。しかしこれは必要条件でしかない。「ひとつの音」への対峙が、ある技術史を動かす動因として表面化してきたところにテクノイズが成立するのである。それは電子音楽、ミニマル・ミュージックそしてテクノ・ミュージックである。この特殊な歴史的コンテクストから外れたものは、仮に「ひとつの音」の聴取に執着していたとしても、テクノイズとは呼ばれないだろう。「音響派には含まれうるがテクノイズではないもの」、といった音楽が存在する余地が残っているのである。『テクノイズ・マテリアリズム』が明言していないのはこの余地であり、私が強く興味を持っているのはむしろこちらの方だ。先走って言えば、この余地に関わるキーワードが「ポスト・テクノ」であり、また「ポスト・ロック」なのだと考えられる。これらは形式概念ではなく、歴史概念だと理解されることになる。

a. テクノの「可能性の中心」とミニマル・テクノ


さて、ここから『テクノイズ・マテリアリズム』第一章の議論を検討していく。一見すると平易な論旨に思えるのだが、注意深く読むとかなり困難な問題を抱えており、佐々木自身そのことに気づいている。この「亀裂」の場所をはっきりさせなければならない。実のところ、佐々木はテクノイズそれ自体については説明していないに等しい。むしろ示されているのは、それを語ることの不可能性なのである。

佐々木はまず、テクノイズの兆候としてパナソニックの《VAKIO》、ピタの《SEVEN TONS FOR FREE》、池田亮司の《+/−》という三つのディスクを挙げている。これらはほとんどビートを失った、実験的な電子音響であるという共通点を持つ。かつてのテクノの特徴であった(バスドラムの)「四つ打ち」のリズムさえ、放棄に向かっている。ではなぜ、そのような音楽が生まれるに至ったのか。問いはこれである。これらはもはや、ダンス音楽としてのテクノではないだろう。しかし電子音響のみの使用へと自らを限定している点では、優れて「テクノロジー」・ミュージックだと言える。そこで佐々木は、まず「ミニマル・テクノ」と呼ばれる一種の前衛テクノへと主題を移し、そこからの進展として、しかも亀裂・断絶を孕んだ進展として、テクノイズを捉えようとする。

ミニマル・テクノとは、テクノの本質的構造をダイレクトに音響化するために、余分な装飾を削っていった音楽である。佐々木はリッチー・ホウティンを代表例として、この「減算」過程を説明していた。テクノの本質的構造は、後の部分では次のように整理されている。

1)「テクノ」とはそれ自体、音楽をめぐる種々の「テクノ(ロジー)」にアプリオリに依存し、またそれらに(なかば積極的に?)逆措定された音楽である。
2)任意のパルスを、特定のオーダーによって継起的に配列すると、それは「テクノ」になる 。

同書、53頁。

「俗にいう『ミニマル・テクノ』は、この二点を発展/展開したものというより、むしろこれら二つの条件を、シンプルかつソリッドに際立たせていくプロセスの果て、にあるものだと言える」(同書、同頁)。この二点の構造がまさに裸形のままに提示された時には、もはやそれ以上の追求は不可能になるだろう。これ以上のラディカルさで減算されたテクノは、「テクノ未満」へと向かうしかないと佐々木は述べている。「ミニマル・テクノ」からさらに削ることができる要素とは、まず、定義2)に見られる、「特定のオーダー」による「継起的」な「配列」だろう。リズムを維持する最後の砦が崩れることになる。

「テクノ未満」への自己解体にまで向かう純粋形式化は、歴史的に見れば、既に初期の「電子音楽」と「ミニマル・ミュージック」のなかに懐胎されていた方向性だった。だが両者は、途中でこれを放棄し、いわば「マクシマリズム」の方へ、オペラ化の方へと向かった。いわゆるシリアスな音楽は、形式化を中途で投げ出してしまったのである。サイン波の合成過程にまで作曲家の権力支配=コントロールを確立しようとしたシュトックハウゼンは、近年では大規模なオペラ作品《光》へと作曲帝国主義を敷衍しているし、またライヒやグラスの「転回」あるいは「転向」も、《ザ・ケイヴ》や《浜辺のアインシュタイン》といったオペラ作品によって象徴されることになる。ところが逆に、見捨てられた=抑圧されたテクノの「可能性の中心」は、むしろポップ音楽の系譜において——〈幽霊(ルヴナン)=戻るもの〉として——戻ってくる。佐々木はメルクマールとして1974年を挙げている。《ピアノ・フェイズ》や《クラッピング・ミュージック》といった、二人の人間の干渉を基軸としていたライヒが、ついに大編成による《18人の音楽家のための音楽》に「転回」した年であり、また翌年75年にはグラスの《浜辺のアインシュタイン》が着手されている。

ところで、いささか興味深いことには、グラスとライヒが「転回」を開始した七四年に、あのクラフトワークが、アルバム『アウトバーン』を発表しているということである。奇しくもライヒは自分にとってミニマル・ミュージックは七四年に終わったと語っている。ある者にとって「ミニマル」が終わった年に、ある者らによって「テクノ」がはじまりを告げられる……

同書、47頁。

ではなぜ、テクノの「可能性の中心」は一度見捨てられたのか? 佐々木の説明を要約しよう。電子音楽の担い手たちは、いったん音の最小単位であるサイン波に戻ったとしても、それはより大きな音楽的構築の素材に過ぎないと考えていた。電子音響の利用は、作曲の範囲を音素材にまで「拡張」することだった。他方のミニマリストについては、ひとことで言えば、彼らは〈反復〉の非人間性に耐えきれなくなり、より人間化された〈反復〉の応用に向かったのだと言える。ライヒにしてもグラスにしても、重要だったのは、永久に繰り返される正確無比な〈反復〉ではなく、〈反復〉が内に孕む微少な〈差異〉を聴き取ることだった。機械による機械的な〈反復〉には、こうした〈差異〉はない(いや、ほとんどないと言うべきだろう)。ライヒは「こういうことは明らかに人間にはできない」と言っている(同書、40頁)。彼が最初期のテープ音楽から二人の演奏者による器楽曲へと移ったのは、不完全な〈反復〉が生み出す、偶然性・出来事性としての〈差異〉を主題化するためであった。私の考えでは、この態度変更において注目すべきことは、〈出来事の人間化〉である。偶然の出来事は、人間の「有限性」においてしか到来しないという信頼が、ここには隠れているのではないか。

佐々木によれば、ミニマル・ミュージックの最初のコンセプト、〈反復〉による音楽構造そのものの露呈という方法を、非人間性のままに、「『機械』の側で、ひたすら純化させていく方向性」(同書、同頁)がテクノを生み出した。そして、この純化が徹底した結果がミニマル・テクノなのである。

b. テクノイズのモダニズムから〈痕跡の物質性〉へ

あらかじめ指摘しておいたように、ミニマル・テクノからテクノイズへの変容には、「切断」がある。まず佐々木は、ピタや池田らの発言から、彼らは必ずしもテクノの乗り越えを意識していなかったという事実を指摘する。テクノイズの出現は、少なくとも単純な発展史によっては理解できないのである。しかし佐々木はなおも「形式」の発展史に拘っている。

 繰り返すが、われわれはそれでもなお、これらの作品の出現は、「テクノ」という「形式」がはらみ持つ論理的帰結と歴史的必然に拠るものであり、極論すれば、パナソニック、ピタ、池田亮司という固有名詞が仮に存在しなかったとしても、同様のベクトルを持った音響作品は、いずれ誰かの手によって、必ず生まれてくることになった筈だと考えられる。

同書、83頁。

そうかもしれない。しかしこれでは、テクノイズとミニマル・テクノをほとんど区別できないのではないか。ここには、『テクノイズ・マテリアリズム』が常に陥りかけていたモダニスト的な進化論の危険性が際だって現れているように思える。

「切断」があると認めながら、しかし電子音楽/ミニマル・ミュージックからミニマル・テクノへと至る発展史の連続性もまた放棄できない。ここまで私たちが追ってきたミニマル・テクノの成立史は、一見したところ、まさに厳密な意味でのモダニズム芸術の展開に従っていた。すなわち、神話的・物語的な美的規範を表象‐代理するのではなく、ある芸術ジャンルの表象形式そのものを自己目的的に純粋化するという営為である。ミニマル・テクノは、このような意味での「前衛」であり、「可能性の中心」を明らかにしていると佐々木は見る。しかしここで決定的に軽視されているのは、このモダニズムが、まさにモダニズムの正統であるはずの音楽アカデミズムにおいていったん諦められた後、ポップ・マーケットのなかで幽霊的に回帰しているという時間の「ねじれ」である。なぜ、「可能性の中心」は回帰したのか? いまだ十分に開発されていない論理的可能性が、一時的な休眠状態を経て、ある日突然、ロジックの遂行を再開しただけなのか?

ここから先は

7,342字

¥ 200

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?