Moses Sumney「Black In Deep Red, 2014」



 カリフォルニア生まれのシンガー・ソングライター、モーゼス・サムニーのデビュー・アルバム『Aromanticism』は、愛することの難しさと真摯に向きあう作品だった。“Don't Bother Calling”など、他者への目線を描いた歌でさえ、他者と交わらない。交わることの大切さは身に沁みてるのに、それをすることの難しさが、作品全体を通して歌われているからだ。そこに見いだせるのは、愛を知ること以上に、知ったうえで誰かにあたえることは難しいという現実である。そうしたサムニーの聡明な表現は、多くの人々を酸鼻な姿に変えてしまう憎しみという感情と、それに伴う分断が暗い影を落とす現在において、切実な響きを持つものだった。

 このようなアルバムを生みだしたサムニーが、新たなEP「Black In Deep Red, 2014」を完成させた。『Aromanticism』に収録された“Make Out In My Car”の別ヴァージョンを4曲収めたEP「Make Out in My Car(Chameleon Suite)」から数えると、約3ヶ月ぶりとなる作品だ。
 そんな本作が生まれたキッカケは、2014年に起こったマイケル・ブラウン射殺事件の大陪審で、白人警官が不起訴になったことだという。そうした背景もあり、哀しみと怒りが横溢する内容に仕上がっており、サムニーのストレートな感情が聴き手に襲いかかる。

 たとえば1曲目の“Power?”では、マイケル・ブラウン射殺事件に対する抗議行動でのコールをサンプリングしている。サムニー自身、抗議活動に参加してから作られたというそれは、連帯による希望も見せつつ、〈Do we have power?(私たちは力を持っているのか?)〉という疑問も紡ぐことで、長年戦ってきた多くの黒人たちの徒労感を滲ませるという、諦念すれすれの想いをちらつかせる。こうして率直にネガティヴな心情も見せるところは、『Aromanticism』でもうかがえる姿だ。そういう意味では、サムニーの作家性ともいうべきものが刻まれた曲と言える。

 続く“Call-To-Arms”も強烈な曲だ。タイトルは〝軍隊への召集〟を意味するそれは、シャバカ・ハッチングスのエキサイティングなサックスと、ジャマイア・ウィリアムスによる精密かつダイナミックなドラムが耳に残る。そこにマイナーコードでダークな雰囲気を演出するギターも交わるアレンジや、ジャズやブルースの要素が色濃いところもふまえると、『Amnesiac』期のレディオヘッドを連想させるサウンドだ。サムニーは、ライヴでレディオヘッド“Daydreaming”のカヴァーを披露していたりもする。こうした嗜好が自然と反映されたのかもしれない。

 もっとも明確に怒りを表現しているのは、ラストの“Rank & File”だ。不気味なコーラスワークを際立たせたプロダクションはシンプルで、サムニーの中性的な歌声も堪能できるという意味では親しみやすい曲かもしれない。とはいえ、白人警官たちの横暴を暴く歌詞はどこまでも鋭利で、不安まじりの緊張感が終始漂っている。それはまるで、抑圧や差別を受けてきた者たちのプレッシャーにも感じられ、血の気がなくなるまで聴き手の心臓をわし掴みにするかのような迫力を醸す。

 全3曲で10分にも満たない本作だが、圧迫的な密度はその他大勢の凡作アルバムとは比べ物にならないほど濃い。ここまで書いてきたプロテスト性はもちろんのこと、フォーク、ソウル、R&B、ジャズ、ヒップホップといった要素が混交していた『Aromanticism』における折衷性の深化も含め、サムニーの表現力がレベルアップしているのがわかる。“Rank & File”で聞こえるフラメンコのパルマ的なリズムなどは、そのことを示す好例だろう。
 作品全体としては、ノー・ウェイヴのフリーキーな実験精神を感じる瞬間もあるが、随所でキャッチーなメロディー・センスが顔を覗かせるエリート主義的でない点もふまえれば、2000年代のNYポスト・パンク的要素のほうが強い。具体的に言うと、ストイックなハードコアからハウスやダブといった快楽的側面もある音楽へ接近していった、〈DFA〉周辺の感性だ。このあたりは、サムニーも2000年代以降の流れを汲みとるアーティストなのだなと実感させられる。

 本作においては、ジャケットも重要なメッセージを持っている。不気味な赤黒さが印象的なこのジャケットは、マーク・ロスコの絵を彷彿させる(EPのタイトルもロスコの絵が由来だそうだ)。アメリカの画家であるロスコは、ロシアで過ごした幼少期は差別に苦しんだことでも知られている。さらにエール大学へ通っていた時期には、大学のエリート主義かつ人種差別主義的な雰囲気を皮肉る風刺雑誌を作るなど、いわゆるブルジョワジーにありがちな傲慢さを批判する姿勢もロスコの特徴だった。
 そんなロスコの絵に、サムニーは自身の気持ちを重ねたのかもしれない。今年7月、サムニーはモントリオール・ジャズ・フェスティバルに出演予定だったが、フェス内で舞台『SLAV』が上演されると知り、出演をキャンセルした。この舞台は、黒人奴隷によって生みだされた楽曲のほとんどが、白人のキャストに歌われることを問題視する声も多く出ていた。そうした収奪性に無頓着な姿勢に、サムニーは出演キャンセルという形で抗議したのだ。タイミング的にも本作は、その姿勢がいつまで経っても改善されない憤りに駆られ、リリースされた側面もあるだろう。この勢い任せとも言える心情に、心を寄せる者は少なくないはずだ。「ブラウン事件判決は50年代。俺が渋滞で“ニガー”と怒鳴られたのは先週の水曜」とデイヴ・シャペルも皮肉るように、長い時を経ても私たちは変わることができていないのだから。





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