信じるという点においての科学と宗教
※本ブログは3度繰り返して読んでいただくと情報が有益なレベルにまで浸透します。
「それは科学的に証明されている」
という文言に対して現代人は非常に狂人的で、それ故に「それは科学的にまだ証明されていない」という対象にはどこまでも懐疑的である。
そして思考の中では常に科学VS宗教という構図を作り出している。
ところが、いつの時代もそうであったのだが、真の科学者は皆宗教的であり、真の宗教者は皆科学的であったのである。
彼らには彼らなりのロジックが宗教的であり、科学的でありしっかりとお互いにあって、そのロジックの先に真理や、法則や、神を見つけ出し、皆一様に「美しい」と述べてきた。
自分の中にもし科学VS宗教というような対立構造が根付いており、それによって判断をしているような場合があるときは、それだけで世界観が非常に限定されてしまうので注意しなければならない。
では何を用いて“真の”といえるのかというと、それは自分で自主的に、体験的に調べていく他ない。
怪しい宗教もあれば、エセ科学もあり、人を幸せにする宗教もあれば、人を豊かにする科学もある。
これらは対立などしておらず、お互いに良いところが混ざり合って進化してきたのが現代。
そしてこの2つはこれからますます調和していくことになる。しかし、その一方でいつまでも対立構造が大好きな層がいることも事実なのだ。
国家間の関係性だけみても、世界中で隣国同士が揉めている。ところがその一方で実に中の良い関係性を作っている側面も確かにあるもの。
要はどちらの現象に自分がよりフォーカスしていくかである。そしてそのフォーカスした世界によって、あなたがあなたなりに見つけ出す証拠や根拠となる出来事が現れてくることだろう。
その時に証拠をふりかざして、「だから私たち側が正しい」という主張はしないことだ。その主張は決してあなたが特定している、あなたと反対側にいる人々には届かない。
彼らは彼らなりの、あなたには到底証拠や根拠と認められないようなも、を根拠に据えて自分たちの世界観を生きているからだ。
そこに介入することはできないのである。であるからして、“説得という概念”をここで放棄しなければいけない。
何人たりとも説得することはできないのである。人は自らが「これが私の人生の支えとなる」と信じ切れたものだけを抱きしめて、そうでないものを受け入れることは決してできない。
それだけ人の内部構造は頑固であり、融通が利くようにはできていない。それを自分自身が悟ることができるか、ということだけだ。
誰がなんと言おうと、この世から科学も、宗教もなくなることはないだろう。そしてニセ科学も、ニセ宗教もなくなることはない。それはそれでいいのである。
自分の内部にある対立構造が統合化されることで、それらに出会わなくなる。それが現実を自分自身が創造しているという意味である。
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