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第3の目はあなたの人生にどう関与してくるか?

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『意義か、快楽か?』

人が快楽で気を紛らわせようとするのは、自らの人生に意義を感じられないときだ」

心理学者でホロコースト生還者のV・Eフランクルは「人間の主な欲求は快楽ではなく、意義のある人生だ」と述べ、同じく心理学者のフロイトに異議を唱えました。

では、人が意義のある人生を生きるために必要な要素は何でしょうか?ここに十牛図といわれる10枚の絵があります。

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十牛図

この十牛図は人間の意識の発達段階を10段階で示しているといわれています。

今回はあくまで「人生の意義と物語性とは?」というテーマ。

ですので十牛図の10段階は、段階が進み人間の意識が発達するに従って、その人物が感じる人生の味わいも深くなっていくはず、という考えを前提にして、3枚目と4枚目の象徴図を考えてみます。

まず3枚目:「見牛(けんぎゅう)」

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3枚目 見牛

十牛図において牛は叡智、もしくは本人の進むべき道の象徴として描かれています。

1、2枚目ではそもそも右も左もわかっていない段階ですが、3枚目において人はようやく“それらしきもの気配”(道)を見つけることができます。

しかし、意義という観点からは、本人はまだ無自覚。牛が自分の人生にとってどれほど本質的に重要なものか、その自己理解度はほぼ皆無な状態です。

でもこれまでの日常とは明らかに異なる、えもいわれぬ異質感を放つ牛の後ろ姿を何とか追いかけ始める。

「もしかしたらここに探していたものがあるかもしれない。。でも、そうじゃなかったら、、」

道を知らない人間にとっては不安がよぎります。

ここで牛を追わなかった人間はフロイトが言うように「快楽と嫌いなこと」の間を右往左往するだけで生涯を終えることになるでしょう。

※この意味でフロイトの心理学は十牛図の3枚目未満の段階の人間にとっては適合する体系といえるかもしれません。

生きる意味の薄いステージに決別できるか、否かを問われているのがこの3枚目ということです。そして次の4枚目の段階は…

4枚目:得牛(とくぎゅう)道との格闘

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4枚目 得牛

4枚目の得牛において、人はついに牛を見つけます。ここが自分にとっての自分自身の道の入り口。

その最初の段階で何とか、牛を手懐け、その道を会得しようとストラグル(もがく)している様子が伺えるのがこの4枚目の図。

この己との戦いこそ、生きる意義を強烈に実感しはじめる瞬間です。

ところが、ここで逃げ出す人も大勢います。

なぜなら、まだまだその意義が形になるにはほと遠いから。何らかの成果が手に入る段階に対し、一方で快楽はあまりにも手の届きやすいところにあります。

では、この格闘の中でどうしたら確実に“牛を得る”ことができるのでしょうか?

先週のインスタに紹介した内容ですが、あなたの命の3つのレイヤーを統一すること。

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思考・感情・肉体の3つのレイヤー

牛は手強い。これまでの「怠惰と快楽にかまけていたあなた」では到底太刀打ちできません…。

あなたの全身はまだ、牛のエネルギーを扱うだけの準備ができていないのです。心理的にも、身体的にも。

あなたの3層:思考は疑い、感情はビビり、肉体はすぐにバテてしまいます。
 
だからここ4枚目の得牛の段階において、あなたは全身全霊を統一する必要性を必然的に痛感することになるでしょう。

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得牛では中庸な軸を形成が求められる
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統合から統一へ

つまり、4枚目の得牛は別の見方をすれば、イニシエーション(通過儀礼)。ここをクリアーするためには、あなた自身が根本から変容することが求められます。

そして『道(牛)』という概念と、『意義』という概念もここで対になります。

人は快楽を節制し、節約した余剰エネルギーを、より濃度の高い意義化する行為へ向けて注いでいく必要があります。

そんな日々を生きることで、人は道それ自体になっていきます。あなた独自の物語性が練られていく過程はこうして段階的に育っていくのです。

…ところが、今の日本社会を見ていると、まずこの十牛図3枚目の見牛、つまり「これが私の道だ」と牛を認識できない人々があまりにも多いようです。

なぜでしょうか?

第3の目:サードアイが閉じているから

参加する心、参加しない心
非物理的なサードアイの知覚力

はい、やっと出てきましたね、第3の目。

そうです、サードアイが閉じているから牛がわからないのです。

日常生活に埋没し、社会の一般性に同一化している人々。彼ら彼女らが見つめているのは、プロパガンダによって敷かれた常識や他人の動向。

こういった世俗的な世界を認識するには2つの物理的な目で十分です。

しかし、自分にとっての道を認識することは、物理的な2つの目では不可能な話です。

道とは自分自身のど真ん中を生き抜くこと。道とはあなたの中枢にある自発性と、外的な活動が完全に同期している状態のことです。

左右に分割された目ではなく、中心にある第3の目だけが、あなたがど真ん中を生きる道を見つける、発見する中庸の視力を有しているのです。

見牛を見分けるのはサードアイの中庸視点

3枚目の見牛は見事に、「牛を見る」と表現されています。あなたは果たして牛を見つけるだけの中心化・中庸化されたサードアイを持っているでしょうか?

ここまでで、前提として、3枚目未満の段階の方には多くのプロパガンダ的な認知機能が埋め込まれていることを思い出してください。

この内部因子の結果、人は疑うもの、躊躇するもの、そして現状維持という名の衰退に甘んじてしまう生き物に成り下がっています。

だから、そんな自分の弱さを認めつつも「これが私にとっての牛(道)かもしれない、、」そう感じはじめていたら、まずはその牛らしきものを追いかけ始めてみることです。

この見牛、映画「マトリックス」ではネオが最初にモーフィアス達を疑っていたシーンもその一つですね。皆、それまでの世界に染まっており、抜け出すにはまず疑い、次に牛と格闘するプロセスが必要になります。

話を最初に戻しましょう。

あなたはどんな人生物語を紡ぎたいか?


あなたが意義を生きれば、「類は友を呼ぶ」という観点によって、同様に意義を深く生きている、粋な人々との出会いが訪れます。

しかし結局のところ、最後には時間の問題が生じてきます。

刻一刻と歳を取っていく人生、あっという間に5年、10年と経ってしまいます。あなたはこの長いような、短いような不思議な時間感覚の中、どんな方向に舵を切っていきたいですか?

快楽を生きるとラクですが、なぜかその後にどうしようもない焦燥感が押し寄せてきます。

反対に、意義を深めていこうとすると、自分自身との闘いが起きることは避けようがないことを十牛図は教えてくれています。

「快楽に流されて生きるか、意義を深めていくか」

その中であなたは、あなたの残りの人生物語をどんな内容にしたいか、それが次の行動を決めていくことになりますね。

私はこれからも、あなたが牛を見つけ、次に牛と格闘するプロセスのすべてを、独自の瞑想を通じて応援・サポートしていきます。
 
いっしょに意義のある人生を生きましょう。

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