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【読んだ】篠原雅武『「人間以後」の哲学 人新世を生きる』

思弁的実在論やオブジェクト指向存在論や人新世みたいな昨今の思想的潮流の話の再確認として読んだ。この手の話の中では、例えば「人とモノとのフラットネス」のようなアプローチが強調されるイメージがあったけど、本書では終始感覚や実存の問題にこだわって論じていたのが印象的だった。

本書ではまず「人間の世界」と「事物の世界」という区分けが導入される。近代的な科学や公共圏といった人間の認識の外側に存在するものを「事物の世界」とした上で、人間の世界がこの不可知のものとの関わり合いによって成立している事を示す。これは近代的な人間世界を支えていた思想的設定、即ち自然と人間の二項対立を失効させると。

無論、不可知のものをめぐる議論は古くから哲学で論じられてきたけども、特に近年それが取り沙汰されるのは、本書で「エコロジカルな危機」と呼ばれる事態によると。それは例えば大規模な気候変動や地震であり、それは人間の自然への介入が一定の閾値を超えた事により「事物の世界」を無視できなくなった状況だとする。しかし著者はここで「事物の世界」と人間の関わりを遮断するのではなく、あまつさえ人間不在の世界を論じるのでもなく、無論「持続可能性」のような下品な概念を持ち出す事もしない。むしろ、近代的な世界観が崩れたところで如何に新しい「人間の条件」を設定するかというのが本書のコンセプトかと。終始「脆さの感覚、壊れやすさの感覚」という言葉が出てくるけど、これは自分は鬱々としたトーンとして感じとった。

著者はアートや音楽に注目し、アーティストこそが「事物の世界」を敏感に感知するとする。その上で米田知子やチェルフィッチュ、シャーロット・プロジャーといったアーティストの作品を批評的に論じる。ただ率直に言って、個々の作品や作品評と本書で展開される哲学的論考がそこまで噛み合ってないように感じたし、寧ろ正直、作品も哲学的考察もやや矮小化されているようにも思う。ただ、今の表現者たちがこの問題に真剣に取り組んでいるのは間違いないし、批評言語もこの後成熟していってるように思う。その意味では、今のアートの批評軸の設定のひとつとして、とてもコンパクトで分かりやすい本なのかも。

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