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ryuchell(りゅうちぇる)さんの死について、父親を自殺で亡くした私が思うこと

※はじめに
ここに書いてあることはすべて、ryuchellさんとは関係のない個人の意見です。
当事者には当事者にしか分からないことがあることを前提として書いています。
また、多少ショッキングな内容も含まれることをご承知おきください。


タレントのryuchellさん(27歳)が、7月12日に亡くなった。
わたしと1歳しか変わらない、とても若い、勇気のある素敵な人が。

世の中の多くのマイノリティの人びとが公に声に出せなかったことを自分らしく発信しつづけてくれた、憧れのインフルエンサーだった。

今回のryuchellさんの死を知り、とてもショックだった。同時に、家族を自殺で無くした、残された者の当事者として思いが溢れてきて、なぜか久しぶりに文章を綴る気分になった。

前述のように、わたしの父親は自殺で亡くなっている。死因は一酸化炭素中毒だった。酒に酔った勢いで母親と取っ組み合いの口論になり、身の危険を感じた母親とわたしはその夜、近所の人の助けも借りて自宅から避難した。

数時間後、小6で持ちたての携帯電話にかかってきた父親からの電話から聞こえたのは、か細く悲しそうな声だった。「いいお父さんになれなくてごめんな」。そのあと聞こえてきたのは「お父さん、おうちに火をつけちゃった」という言葉だった。そのあと電話はプツンと切れ、すぐにサイレンの音が鳴り響き、次の日の朝には父の死を知らされた。

当時は11歳で、なぜ父親が死んでしまったのか、考えても考えても分からなかった。昔から無鉄砲で、良くも悪くも人の想像に及ばないようなことをする不思議な人だった。
酒に酔うと暴力的になる一面もあったし、それでいて繊細で寂しがりやでもあったから、なにか父なりの苦しみがあったのだろうとは思う。
それでも、酒が入っていたとはいえ、口論の末に死を選び、自宅に火をつけたのは父特有の「派手さ」だったとしか捉えようがなかった。

父が亡くなってから早15年が過ぎ、結婚もして子どものことも考える年齢になった。15年前よりは少しだけ社会のことや大人の事情も理解できるようになった今、なぜ父が死を選んだのか、というより、父が何に苦しんでいたのかが少しずつ分かってきたような気がしている。

実は、父と母は22歳も離れた歳の差婚で、わたしは父が49歳のときに初めて出来た子どもだった。歳の差婚、または年齢がいってから初めての子どもを持つ人で、その社会的に”特別”と捉えられる状況に葛藤がなく、幸せに過ごしている人はたくさんいるだろう。
しかし父は48歳で結婚するまで、子どもが生まれるまで、自由気ままにその日暮らしをしてきた生粋の自由人だった。半世紀近い間貫いてきた自分の生き方を、結婚や子どもを契機に変えるのもそう容易ではない。

父の話が長くなってしまったが、ここでryuchellさんに話を戻すと、彼を死に追いやってしまった苦しみの一つには、父の最後の言葉からも感じられた「いい父親でいられているのかどうか。」「いいパートナーでいられているのか。」という葛藤があったのではないかと思う。

ryuchellさんは、パートナーのpecoさんと話し合った上で”新しい家族の形”を選んだ。そして、同じように葛藤を抱くパートナー同士や家族にとって、その道が社会的に当たり前の選択肢の一つとなることを願ったに違いない。

とはいえ、ある生き方を提起するインフルエンサーでなんであれ、誰に何を言われようともその生き方を全面的に信じて生きる、という強い信念を持って生きられる人は、意外と多くはないのかもしれない。

わたし自身も、学生国際結婚という日本では”普通”ではない結婚をした。新型コロナウイルス対策による入国制限が結婚のきっかけだ。

結婚をしていないと入国が許されない状況がどの程度続くか分からなかったので、ならば結婚した方がお互いのため、と当たり前の決断をしたつもりだった。
今はドイツ在住だが、そんな不可逆的な理由なしでも学生のうちに結婚するカップルや子どもを育てながら大学に通う学生、子どもができたからと休学する学生も少なくない。

しかしドイツに移住する前、日本で「学生のうちに結婚なんて」「相手はなんの仕事をしているの?稼ぎはあるの?」という声を、特に歳のいった方からちらほら聞いた。日本とドイツの社会構造の違いも無視できないし、事情が分からないから、心配で言ってくれているのは分かる。だが、わたしもそんな周囲の声を聞いているうちに段々と「結婚したから二人の経済的なことはやっぱり考えた方がいいのかもしれない」「パートナーは学生生活も仕事探しものんびりしているけど、これでこの先大丈夫なのか」と徐々に社会の目を気にするようになってしまったのだ。

今思うのは、父やryuchellさんにも同じようなことが起きたのかもしれない、ということだ。自分が選んだ生き方に自信をもっていたつもりが、周囲の声や社会的プレッシャーによって自分自身の決断を疑うようになってしまう。

特に、ryuchellさんがSNSなどで発信した”新しい家族の形”の報告には、多くの言葉が殺到し、その中には応援の声もあったが、いわれのない誹謗中傷も散見された。

インスタグラムでその報告をする前、結婚を決めたとき、芸能界に入るずっと前から、ryuchellさんの心の中にはすでに、数え切れない葛藤と、隠しごとをしているという罪悪感があったはずだ。
そこに念を押すように、SNS上のコメントや事務所に送られた手紙などの心無い言葉が、彼の在り方や愛する家族までを否定したことが彼の心を疲弊させてしまったのかもしれない。

父が自殺で亡くなってからこの15年間、父の死を受け入れるために私や母が出来たことは、今の幸せな環境があるのは「父の死があったからこそ」と”過去”の悲しみに対しても感謝することだった。

たしかに、父の死があったからこそ得られたものはたくさんある。
今、わたしは心から愛する人や、家族、友人に恵まれ、幸せな人生を送っている。その一つ一つが、父の死無しには存在しなかったのかもしれないと思うこともある。

だが実際に、身近な人の死は、特にそれが自殺だった場合、そんな綺麗ごとや精神論で片づけられる話ではない。

父の死から15年経ち、ようやく最近になって、この出来事が自分自身にトラウマとして与えている負の側面に気がつくようになった。

残された人たちは、大切な人を自殺から救えなかった罪悪感に苛まれ、周囲からは夫を自殺で亡くした未亡人、父親を自殺で亡くした子ども、という憐れみの目で見られることもある。

身近な人や親が自殺で死んだ、という事実は何十年にもわたって、残された人に自己認識や人間関係など各方面で影響し続ける。

ときには母と、父の生前の話で笑い涙を流すときもある。
と思えば、急に一人で父の死を思い出し嗚咽することもある。
そんな波のような感情を延々と持ちながら、残された人はこれからも生きていかなければならないのだ。

残された人が経験する苦しみは人それぞれで、それだけに、pecoさんや息子さんが今置かれている状況は誰にも分からない。
ただ、今回だけは憶測や根拠のない批判が彼らに届かないことを祈っている。特にryuchellさんに向けた批判的なコメントは誰にも、絶対にしてほしくない。残された人に対する慰めが目的だとしても、その言葉は彼女たちをさらにただ傷つけるだけで、なんの助けにもならないからだ。

わたしが切に願うのは、これからのことだ。

誰かを傷つけていないのに、自分と違うからといって匿名性を利用して人を誹謗中傷することに何の生産性があるのか。

当人たちが話し合った結果に対して、実際に会ったこともない人たちが他の信憑性もないコメントや情報だけを見て判断し、無意味な想像を膨らませて知ったかぶったコメントをすることになんの意味があるのか。

そんなことに時間を使う代わりに、いつ目の前からいなくなってしまうか分からない、大切な家族、友人あるいは自分との時間を大切にしてほしい。

わたしはそうするつもりだ。

さいごに

ryuchellさんが天国で、自然体で幸せに過ごせていますように。
pecoさんや息子さん、心を痛めている人びとに早く安らぎが訪れますように。
違うところも同じところも認め合える、すべてのひとが自分らしくいられる世界になりますように。





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