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あの日の記憶〜お父さん、ありがとう。そして、ごめんなさい。

※この記事は、都内在住の私個人が経験した
 東日本大震災の話を含みます。


2019年7月8日スタート以来、
毎週『監察医朝顔』を欠かさずに見ている。

どんな内容か知らずに、
ただ上野樹里さんの演技が好きで見始めた。
初回から衝撃的で、涙が止まらず、嗚咽した。

たまたまその翌日から
仙台に越した友人を訪ねることになっていた。
私は仙台を訪れるのは初めてだったが、
有名観光地ではなく、
東松島市にある空の駅に行きたいと申し出た。

そこには復興を願って生まれたキャラクター
"おのくん"を今なお手作りし続ける
お母さんたちの笑顔があった。

「駅の辺りも全部家が立ってたんだよ」

そう教えてくれた場所に立ち、
写真を撮った。

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どこまでも広がる綺麗な緑の地は
当たり前のように建ち並んでいた家々の存在を感じさせない。

それがどこか物悲しく、
前日に受けたドラマの衝撃と私の当時の記憶、
そして父との思い出をまざまざと蘇らせた。


***

2011年3月11日

私は渋谷のアパートの一室で、
スキースノボ専門の旅行会社で
電話受付のアルバイトをしていた。

3月ということもあり、
大学生、家族、カップル、外国人からの予約で
小さな会社でも大忙しの日々だった。

その日はたまたま、
社長と社員さん1名と私だけが出勤で、
パソコンに向き合いながらも、
和気藹々と仕事をしながら談笑していた。


同日14時46分18秒

震源地よりも離れているため誤差もある。
しかし間違いなく、それは起きた。

東北地方太平洋沖地震


渋谷のアパートは古く、
かなり大きな揺れを感じた。

何が起きたのか分からず、
社長が「とにかく机の下に!」と
大きな声で叫んだ気がする。

揺れが収まるまで、
パソコンや書類が山積みの机の下で、
その脚にしがみついた。

揺れが収まっても尚、
身体が揺れているのか、視界が揺れているのか、感覚は不安定だった。

身体を起こすと、
卓上はぐちゃぐちゃになり、棚は倒れかけ、
渋谷の中心地には若者の悲鳴がまだ響いていた。

急いで一旦社長と外に出て、様子を見た。

揺れは外にいる時にも起きた。

代々木公園へと続く道には、
自然と多くの若者たちがぞろぞろと歩き出していた。

どうしたらいいのか、全く分からなかった。

そんな時に部屋から煙が出てると
社員さんが慌てて飛び出してきた。

古いアパート故に、
ちょうど私たちの部屋の箇所で配管が折れ、
煙がうっすらと立ち込めていた。

「帰った方がいいよ。
 ここも古いし、どうなるか分からない。
 もう仕事なんて今日は全部キャンセルだから。
 でも電車はきっと停まってるよね。
 居てもらってもいいけど、どうする?」

社長は旅行の運行やバスの手配、予約客の対応を慌てながらも急ピッチで判断しつつ、
アルバイトの私にも気を遣ってくれた。

私は両親に連絡を取ってから判断することとした。しかしなかなかメールも電話も繋がらなかった。


その日は最悪な状況でもあった。


自宅には父しか居なかった。

母は地方の実家から帰省する新幹線の中。
次男は出張帰りの羽田空港で足止め。
長男は四ツ谷のマンションにいるようだったが連絡はすぐにはつかなかった。

どうするか決めかねている間に、
時間は刻々と過ぎ、夕暮れが迫っていた。

父とだけ連絡が取れた。
「車で迎えに行くけど、大渋滞だろうから
 (長男のいる)四ツ谷方面に向かって
 歩いてきてほしい」

渋谷から自宅まで15km
四ツ谷駅までは4.6km

私はどこか父の言葉に縋る思いで、
社長にどっちの方面に向かって歩けばいいのか
教えてもらい、別れを告げた。


自動車免許も持たず、
普段から道の名前や方角を気にしていなかった私は、東京を彷徨った。


知っている道をなるべく歩くようにしよう。
それだけを心掛けた。

それでも道が分からない不安さと
未だに家族とほぼ連絡が取れない寂しさが
早くも募っていた頃、
既に暗くなった表参道に
パン屋さんが出てきて、パンを配っていた。

「今日は閉店したので、
 皆さん少しずつですが持って行ってください。
 帰り道、気をつけてください。」

東京のど真ん中でも、
こんな温かいことがあるんだと、
パンがいくつか入った袋を受け取り、
私はまた歩き始めた。


どこの道をどんな風に歩いていたかは覚えていないが、瞬間瞬間で覚えていることがある。

周りを歩くスーツにコート姿の人たち。
スーパーで自転車と靴がどんどん売れていた。
東京なのに暗い道。


途中で何度か交番に立ち寄り、道を聞いた。

母とも連絡は取れたが、新幹線に缶詰状態。
長男とはまだ連絡が取れない。

携帯の充電が切れそうなことが
私の不安をさらに煽った。

あまり携帯を開かないように…開かないように…

やっと辿り着いた四ツ谷駅周辺で、
それでも充電は切れた。

私は焦って数店のコンビニに駆け込んだが、
時は既に遅かった。
コンビニには簡易充電器を含め、
食べ物も、飲み物も、何も無くなっていた。


我慢していた涙が溢れて、道の隅で泣いた。


どうしたらいいのか。
どこにいたらいいのか。
父は今どこにいるのか。

パニックになりながら、
私は明かりの灯っていた銀行のシャッター前、
唯一入れる空間に座り込んだ。

私はもう一台の携帯を鞄から取り出した。
当時の彼氏の番号だけが1つ登録された、
お揃いの簡易的な小さな携帯。

彼氏に母の携帯番号だけは伝えてあったことを思い出し、繋がって…と祈るように電話した。

彼氏は電話口に出ると、
とにかく落ち着くようにと宥めてくれ、
母の携帯番号をゆっくり教えてくれた。

私はそれをやっとの思いでメモに取り、
母にも教えていなかったその携帯から電話をし、
父の携帯番号を急いで聞いた。

普段あまり使わないその携帯の充電も
もう残りわずかだったからだ。

父に電話がやっと繋がった時、
泣きそうになりながらも早口で伝えた。

「今四ツ谷の駅前にいる。お父さんどこ?」

「渋滞にはまってる。市ヶ谷」

ここで充電が切れてしまった。


私はまた涙が溢れそうになり、
歯を食いしばった。

父はなんて伝えたかったのか?

隣駅の市ヶ谷にいるということなのか。

市ヶ谷駅まで歩いてきてほしいのか。

どっちなのか分からず、
もう電源の入らない携帯を鞄にしまい、
とにかく駅前の公衆電話に向かって
歩くことにした。

4台ほど並んだ公衆電話にはズラッと
多くの人たちが並んでいた。

その後ろの四ツ谷駅では
駅のシャッターを閉じる作業が行われていた。

私が市ヶ谷駅に向かって歩いていると思い、
そちらに父が向かっていたらどうしよう。

お兄ちゃんとはどうして連絡がつかないんだろう。部屋で物が落ちてきて、倒れているんじゃないか。

色んな不安が立ち込めて、
公衆電話の列でまた泣きそうになっていた。

そんな時だった。


「ましろ!!!」


その大声と同時に、
誰かが私の肩をぐいと引っ張った。

父だった。


私はぐいと引っ張られたことに驚き
一瞬思考が止まったが、
父と分かった瞬間にわーーんと大声で泣いた。

「良かった、良かった。」
そう父に宥められた気がする。

周囲にいた人たちも、
どこか温かな空気だったように感じた。


父はあまりの渋滞に痺れを切らし、
電話が切れてしまった後すぐ車を路肩に停め、
四ツ谷駅まで走ってきたらしかった。

無事父と会えたことの安堵の中、
分からない道を迷いながら歩いた疲れと
泣き疲れたということもあり、
車に乗っても父と多くは話さなかった。

表参道でもらったパンを一つ食べた。

車の中の時計は23時過ぎを回っていた。


いつの間にか寝てしまい、
家に着いたのは翌朝4時頃だった。

普段なら車で20分程で到着する距離を、
4時間以上かかって
父は黙って運転してくれていた。


2011年3月12日

母は昼過ぎにやっと帰宅。
新幹線車内でも乗客達がそれぞれの土産物を分け合っていたそうだ。

長男はまさかの地震に気づかず寝ていたらしい。

次男は羽田空港で同じく足止めを食らった見知らぬサラリーマン達と、
それぞれの土産物を分け合いながら楽しい一夜だったそうだ。


家族それぞれが、別々の場所で無事だった。
良かった。

私は前日の疲れを引きずったまま、
温かいベッドで眠った。


***

『監察医朝顔』は
この東北での地震もテーマであると共に、
"父と娘"の関係も1つのテーマだと思う。

このドラマを見ていると、
この当時の記憶を思い出し、
さらに様々な感情が込み上げて、
涙が止まらなくなる。


これまで多くの会話をしてこず、
きちんとお礼を言えていない父に、
「ありがとう」と心で伝える。

そしてそれと同時に「ごめんなさい」と言う。


結婚に反対されたことで家を飛び出した私。

父とは4年ほど連絡を取っていない。

「縁を切る」と言われている。


両親に認められないまま結婚した私は、
ずっと心の内に秘めていた思いを
やっと今年に入って友人に話した。


「お父さんやお母さんに認められないで
 結婚をしたこと、後悔している」


お父さん、

あの日、
大変な中迎えにきてくれて、
そして私を見つけてくれて、

ありがとう。


そして、

ごめんなさい。


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