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サンカクシャ「若者向けの居場所に関する調査レポート」完成記念報告会メモと雑感

東京都豊島区を中心に若者支援をしているNPOサンカクシャが、若者向けの居場所に関する調査レポートの完成記念報告会を開催されたので行ってきました。

この調査は、サンカクシャが休眠預金事業の助成金を活用して行う活動の一環として提案していたもので、私は調査の実査に携わる方をご紹介したり、定期的に進捗を聞いたりする形でうっすら関わっていました。

調査段階から既にいいレポートになる予感はしてたんですが、先日報告会に先行してリリースされたレポートを読んでみて、見事予感的中!
イチNPOがリリースする報告書とするにはもったいない内容でした。

サンカクシャによる「若者向けの居場所調査レポート」

なお、このレポートはオンラインでDL可能。要チェック✅
調査に関するページとダウンロード先はこちら

2月23日に行われた報告会は、レポートの概要の紹介と、関係者&有識者のパネルトークだったのですが、これまたレポートの説明に終始せず、そこから未来への提言や課題提示がなされるリアルイベントの良さが感じられる場でした。
今日はその中でも、特に個人的にポイントだなと思った点を備忘録的にメモっておきたいと思います。

若者支援の中でも、特に居場所に関する議論や政策化は来年度以降本格化していくと思います。現在進行形で取り組んでいる方々、今後挑戦していきたいと思っている方々にとってご参考になれば幸い。

調査概要 by ソーシャルデザイン事務所toi 寺戸さん)

冒頭にサンカクシャ居場所事業マネージャーの早川さん(通称ハマー)から、サンカクシャの事業についての説明があった後、本調査の実査を担当された寺戸さんから調査内容と示唆についての説明がありました。

実は寺戸さんを本件の調査メンバーに推薦したのは私だったりするのですが、説明を聞いていて、ほんと寺戸さんにお願いしてよかったと思いました(寺戸さん忙しい中本当にありがとうございました)。

寺戸さん(toiウェブサイトより)

居場所のポイント①:誰にとっての居場所なのか

寺戸さんの説明で最初に前置きされたのは、このレポートが誰にとっての居場所を想定しているものなのか、という話でした。

今回のレポートの中で取り上げられている居場所の対象者の共通点を言語化するならば、”若者”が最も大きなくくり方になりますが、次に大きな公約数は”困難を抱えており社会に包摂されていない若者”になると思います

冒頭に居場所の利用者像についての話を提示することは、個人的には大事だと思っていて、
なぜならそれは、居場所という場が、その言葉の便利さゆえに、
よく言えば多様な
そうでない言い方でいえば曖昧な
悪く言えば「”居場所”っていっとけばいい」
という言葉だからです。

非常に多様な場を「居場所」という言葉にひっくるめてしまえるのは便利ですが、だからこそ「居場所」という言葉のみから議論を始めようとすると、みんな想定している居場所がバラバラなので、議論がカオスになる。

レポート内で紹介されている早稲田大学の阿比留先生の言葉を借りれば

居場所は「教育・福祉などあらゆるものが投げ入れられ、ほしいものを探し ても見つからない『おもちゃ箱』のようになっている」

若者向けの居場所 調査レポート p.22

 というのが実情です。

だからこそ、その場が「誰にとっての居場所」なのか、という問いとそれに対する答え(の仮説)を持っておくことが重要だと思います。

ただ、過度に受益者をセグメント化しすぎてしまうと、居場所の居場所らしさが失われてしまう。いろいろな人やものがあるからこそ溶け込める、違った自分がいてもいいんだという安心感といったものが無くなってしまうかもしれない。

居場所の利用者像をどの程度までイメージアップするべきか、そこに定義の明確性と”あそび”の両者が包含されていないと、”居心地の良さ”が発現しないのだと思います。

レポートの中では、福祉的な側面と余暇的な側面に分けられているけど、この整理は納得感のある整理の仕方で最も抽象度の高い切り口だと思う。
ただ、その切り口で見たとしても100%福祉的な機能を持った居場所というのも、余暇的な機能をもった居場所というのは成立しづらくて、結局は両者をそれぞれ多少なりと包含している居場所になるのが実情なのではないかと思う。

若者向けの居場所 調査レポート p.22

イメージとしては福祉100%なら、必要なのは場というよりはサービスだし、余暇100%ならその場に大人の存在なんて不要だろうと思う。
ただ、そこへ移行していくときに居場所という場所が重要なんだと思うんですよね。

居場所のポイント②:無意識的な居場所(づくり)と意識的な居場所(づくり)

パネルトークに登壇していたこども家庭庁の加賀さんが
「居場所」と「居場所づくり」は違う
ということを仰ってたのが印象に残っているんですよね。

こども家庭庁「こどもの居場所づくり指針 概要版」より抜粋

こども家庭庁から示されている指針の中でも、「こどもの居場所」と「こどもの居場所づくり」は明確的に分けられています

要は・・・
✅大人や社会の側が「良かれと思って」居場所を設置することと、それを等の子ども・若者(こども家庭庁は子どもと若者ひとくくりにして「こども」と定義する!って強弁してますけど無理があると思うんだよな!)本人が居場所と認識するかは別のこと
✅もしかしたら大人社会が思いもよらない場所を居場所と認識するかもしれないけどそれも立派な居場所だからそこんとこよろしく!

って感じです。

居場所の話でたまに引き合いに出される「ドラえもんの土管のある土地」は、同作の主要な登場人物にとっては間違いなく居場所だったと思う

そうそうこれこれ、これな!

でも、あの空間を「子ども・若者の居場所にしよう!」という思いをもってデザインした人はいない(あえて言えば藤子不二雄がそう)。
昔は、そういう「無意識な居場所づくり」が随所で行われていたのだと思う。

今はどうか。
工事現場は仕切りで分断されているし、子どもが入り込もうものなら近所の匿名のタレコミが入ってすぐさま管理会社が車で乗り付けてくるし。
(以前、近所の住宅が取り壊されて空き地になってたところに雪が積もったから子どもと一緒に雪合戦したら、どこからともなく黒い車が来て、物腰柔らかなこわもて紳士から注意されたことがあります)

街づくりはゾーニングとマーケティングやら〇〇工学の見地から、とても意識的にデザインされる。
素晴らしくてあまりに健全で、だからこそ窮屈なんだよな!

そこに複合的な困難を抱えた子ども・若者が身を寄せられる空間という視点はたぶんないんだ。
どこもかしこも、まあまあ前向きで、未来に対するキャリアビジョンも漠然と持っていて、家族はまあまあ普通に幸せで、コーヒーをシャレオツなカフェで買って芝生で飲むような人を想定した空間ばっかじゃないか!

それが平均値だとして、今の街づくりは、その平均値より上のヒトが生活しやすいようにできている。でも、そうじゃない人はどうする?

トーヨコやグリ下は無意識的な居場所づくりで生まれた
若者の居場所

自己責任論が跋扈する今の社会の中で、そこに目を向けるための視点は福祉的な眼差しなのは間違いない。
昔はそれが生活の中に、コミュニティの中に無意識にインストールされていた。けど、今はそれが希薄化しちゃっているのが問題だ。リターンが(見え)ないからそれにお金を投資する個人は稀だ。だから社会でそれを意識的な居場所づくりとして担って、実際に居場所になるようにメンテナンスしていくことが重要なのだと思う。

居場所づくりを意識的に行わなければならないという議論はそういう社会的背景をベースにしているという意味で、本当は空間を創る、という話よりもっと大きな広がりの課題提起や議論が必要だと思う。

居場所のポイント③:社会的な支出をどう見積もるか

以前は無意識的に行われていた居場所づくりを、意識的に行うとなると、見えなかったものが見えてくる。
それは「居場所づくりにどれだけの支出が必要なのか?」という点だと思う。

無意識に居場所づくりが行われていた時代にも、きっと支出はあった。でもそれは「何かのついで」だったのだ。
ついでだったから意識されない。居場所という見地からすれば支出ゼロ、ということが多かったのだろう。

でも今それを意識的にしなければならなくなった
この段階になって、居場所づくりは「ついで」でなくなる。
居場所をつくるという明確な主目的が据えられて、関わる人は居場所づくりのために活動する・・・となれば、それが仕事になって「対価は?」となるのも自然の流れだと思う。

その時、居場所の価値をどのように見積もり、事業支出として算出していくのか。その方法論はまだ確立されていない。

居場所に関する政策的な議論は始まったばかりだけど、恐らく近々に居場所の設置、維持を目的とした事業が開始されると思う。
居場所に関する取り組みを新規事業として見るのであれば、その居場所が機能するかどうかは確率論的な話で議論した方が良いと思う。つまり、全て成功例にはならない。
ただ、何を以て成功とするか、失敗とするかは、居場所というものが、誰にとってどのような価値があるのかが定義されていないと議論できない。無意識的な居場所づくりの時代にはそれは不要だったけど、ことここに至ってはその議論をスルーできない。

こども家庭庁の議論は必要な議論だと思うけど、どうしてもその内容は抽象的になる。いろいろなステークホルダーや受益者の視点を全部入れるのでそうなるのはわかる。
でも、政策制度として運用する場合にはもう一段具体的な議論をしないと、地域の居場所づくりが生半可な理解と”コウジレイ”の自動的なコピペによる粗製乱造状態になってしまうリスクがかなりあると思う。

過去から現在にかけての、無意識/意識的な居場所づくりの事例を掘り起こして、受益者を起点にして居場所を整理して、その価値を見極めていくことが大事だし、新規事業開発的な観点でみると、取組の過程で居場所づくり(支援)という活動の仮説検証を進めていくことも重要だ。

楽しいことが大事

報告会の終盤、居場所の活動に人が関わっていくために必要なこととは?という問いに対して、サンカクシャのハマーが「楽しいことが大事だと思います!」と言っていたのがすごく記憶に残っている

そう。楽しいことがすごく大事。
じゃないとそもそも子ども・若者は足を踏み入れてこない。
楽しくなさそうなスタッフがいればなおさら幻滅してこない。

困難を抱えた若者に対する関わり、その場としての居場所での活動が楽しい
文章にしても、結構難解なスタンスだと思うけど、このスタンスが基本ないと人も、リソースも集まらないんだよね。

個人的には、居場所の中で「楽しさ」を最も多くの人に感じてもらえるのは
メシと遊び
だと思ってる。

これを提供している居場所は本当に楽しそうだし、活性化している。
学びも大事、就労支援だって大事だけど、それは社会参画を視野にいれた活動で、それって大人の事情が混入しているけど、食べる事と遊ぶことはそれとは関係がない。だからこそ子ども・若者が安心して場に入ってこれるのだと思う。

日本における若者支援、なかでも居場所支援はまだまだこれからだ。
でも、これからだからこそ、やれることはたくさんあると思う。
こども家庭庁から自分が住んでいる町に至るまで、子ども・若者への眼差しや場がもっとソフトになっていくといいんだけどな。

っと、もう報告会の感想じゃなくなってきたけど、こんなことにまで思いを馳せる機会をくれたサンカクシャの一連の調査事業と報告会に感謝ってことで!

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