高野精密工業の話をしたい

本日、独立時計師の浅岡肇さんが彼の会社の東京時計精密からタカノを復活させるというポストをしておられました。

古い会社の財務分析を好み、時計業界を担当していたこともある私としましては、せっかくなのでこのタカノという時計を作っていた高野精密工業という会社の話をしておきたいと思います。

略歴

実はこのタカノを出していた高野精密工業、会社としてはリコーエレメックスとして存続しておりまして、リーマンショックより前から株をやっている方ならコード番号7765として上場していたことも記憶しているかと思います。
# ちなみにですが、コード番号は7761の服部時計店(8050になる前)、7762のシチズン時計、7763が欠番で、7764のオリエント時計の次、ということになります。7766は欠番、7767は東京時計製造、7768はジェコー(日本電気時計)、7769はリズム時計、となります。
# コード番号導入初期は取引所により異なるコード番号を使っていたこともあって欠番が出ることがありますが、7763は愛知時計電機あたりが入ってたんじゃないかなと思われます。

経緯としては、
・1895(明治28)年:高野小太郎、林時計店より販売店として独立
・1899(明治32)年:合資会社高野時計製造所設立、掛時計製造に参入
・1913(大正2)年:合資会社高野金属品製作所設立
・1924(大正13)年:高野時計製造所と高野金属品製作所を統合、合資会社高野時計金属品製作所に
・1938(昭和13)年:軍需部門を独立、高野精密工業株式会社設立
・1957(昭和32)年:タカノブランドで腕時計を発売
・1962(昭和37)年:リコー時計株式会社に商号変更
・1986(昭和61)年:リコーエレメックス株式会社に
となりますが(こんなのはリコーエレメックスのウィキペに出てますが)、特に腕時計としてのタカノとなると戦後のわずか4-5年の間しか生産されず、かつタカノ・シャトーなど高品質な時計を作っていたことで一部の国産ヴィンテージ時計コレクターにはそれなりに人気のある会社かと思います。

伊勢湾台風のせい?

リコーの救済を受けることになってタカノブランドが終焉した経緯としては「伊勢湾台風で壊滅的な被害を受けた」という話が一般的に言われていますが、そもそも腕時計に参入するまで何をやっていたのかとか、これ当時どういう数値の出方をしていたかというと(国会図書館まで行く余裕がないので四季報アーカイブとダイヤモンド会社産業総覧から数字拾いました)、以下のような感じで、
・1956年に一度大きなピークが来ている
・1962年に大きな損失を出してリコーの救済を受けている
・伊勢湾台風は1959年なんだけど・・・
というあたりがポイントかと思います。

『会社四季報』『ダイヤモンド会社産業総覧』より筆者作成
『会社四季報』『ダイヤモンド会社産業総覧』より筆者作成

年表を丁寧に見ていたコレクターなら気付いてたと思いますが、実は伊勢湾台風の被害(1959年9月)よりもシャトーの発売(1960年10月)の方が後で、売上も伊勢湾台風後の方が前よりも大きいことが見て取れます。台風で生産設備やられたんじゃなかったでしたっけ?的な話になりますよね。四季報1959年秋号にも台風の損害は「約八〇〇〇万円」とあって、リコーが救済に入った時(1962年11月期)に落とした損失約20億円からすれば数%の話にすぎず、おそらくは伊勢湾台風の被害は一因でしかなく本質的にはブランド力の弱さと販売力の弱さからくる収益体質の問題だったような感じですかね・・・後述する粉飾の話は抜きにしても業界三番手四番手の利益率の低さとそれに伴って経営体質がいつまでも改善されない、という割と普遍的に見られる事象だったように見受けられますし、粉飾もそれゆえという印象も受けます。
# 実際、『マネジメント』誌1963年5月号「根性で伸びるリコー時計」に、リコーの社長でもあった市村氏が「高野精密がつぶれかかったときのことを「根性がなかったことの一語につきる」とずばりいう」とまで言ってます
# 損失の出し方について有価証券報告書見に行けないとちゃんと説明できなくてもどかしい

実は粉飾決算だった

さて、伊勢湾台風も理由だったにしても、実は、競争環境が厳しいことから設備投資資金を十分にまかないきれず、売上や利益を嵩上げする粉飾を行って増資やタコ配当やっておりました。Hamiltonから技術導入した1958年から行われていて、要は設備投資や技術導入料のために増資するにあたって業績をよく見せるため、ということになりますが、売上も水増ししているので先に挙げた売上の推移もタカノシャトーやハミルトン型の販売本格化だけではないという感じでしょうか、費用も弄ってるので売上どのくらい水増ししているか訂正報告書で詳細確認したいところですが、ドタ勘で1割ちょっと弄ってる感じに見えます。

簡単な説明としては、日本公認会計士協会東京会『粉飾決算』や税経新人会全国協議会『税経新報 1965年6月号』に説明があります。なお、この事件は公認会計士懲戒処分第1号として知られてもいます。

『会社四季報』『ダイヤモンド会社産業総覧』『粉飾決算』より筆者作成

時限信管

売上の推移からは腕時計発売前の業績強いのなんだ、という話にもなりますが、これは1938年に株式会社として設立された当初から手掛けている砲弾用の信管(時限信管)の事業で、戦後は朝鮮戦争からスターリン死後のソ連の政争にかけての国際情勢から、1953年に中部工業を合併しつつ、1954年には小松製作所と神戸製鋼とJPA(Japan Procurement Agency)から26億円の受注を受けておりました。
この辺の米軍からの発注は詳細は日本兵器工業会会誌などにちまちま出ていますが、まとまったものとなると角丸証券が『証券時報』1954年8月10日号に、日興リサーチセンターが『投資月報』1953年6月号にあげていて、こういうのはセルサイドのリサーチの典型的な仕事だなあ、という感じがいたします。
これによると高野精密はコマツの下請で4.2インチ迫撃砲弾(買収する中部工業の方)、神戸製鋼の下請で105ミリ榴弾、あと日本冶金他から100万燭光投下照明弾(これも中部工業の方で)の信管を請けていますね。
この辺の仕事をやるのに増資をしてスイスから機械を買って30億の設備投資やってるので、特需終わるとROAやROICがめっちゃ下がっただろうことが(そして粉飾やるほど悪化しただろうことが)推測されます。
# 有価証券報告書見に行けないとこういうところももどかしい

余談:時計メーカーと信管の話

ついでなので、時計メーカーと信管という話をすると、そもそも時計という産業を論ずる場合、クォーツ以降の機械式時計の復権はファッションの文脈という例外であるにしても、基本的には計時機器という計測機器に含まれるテクノロジーとして見做して論ずるべきだという話は常々しているところですが、容易に軍事と結びつきやすいところでもあり、時計の仕組みで時限装置を作るのはごく普通の発想であったわけで、アメリカではHamiltonだけでなくBenrusやElginも時限信管のベンダーとして出てくるほか、Timexはベトナム戦争の頃までUS Time Corpという社名でミサイル関連の部品を提供していましたし、日本でも高野に限らずシチズンは戦時中は大日本時計として信管を製造していたりしました。このへんはもっとちゃんと調べたいと思っていますが、そういう側面があったことも紹介しておきたいと思います。

タカノの腕時計

で、高野の時計の方の話をすると、軍需が終わるのが見えた段階で民需転換を図ったわけですけど、30億の設備投資で設置したスイスの工作機械を使って事業を、ということで、当時は大手3社(セイコー、シチズン、オリエント)で供給が追いつかなかった腕時計事業への参入を決めたという話のようです。他にもカメラシャッターとか精密機器メーカーがその頃やってたあたりに一通り手を出している形跡が四季報等の記載からは見られます。リコーとの関係も四季報1956年新春号に「理研光学とシャッター生産の契約」とあり、いきなり1962年に救済で出てきたのではなく、この時期から既に関係していたことがうかがえますね。
# やはり有価証券報告書見に行けないとこういうところがもどかしい

腕時計は1957年当初はドイツのLaco(ラコー)というかLacoのムーブメント部門のDurowe (Deutsche Uhren Roh Werke)の機械を使っていたは詳しい時計コレクターなら知っているところだと思うんですが、しかしなぜDuroweだったんでしょうね、四季報の1957年新春号(つまり1956年の情報)に「当初はスイスから部品を輸入、組み立てるが十月頃までに全部自家製に移す計画」とあり、そこからなぜドイツ製に切り替えることになったのか、そもそも四季報の情報は間違ってたということはないか(単に工作機械買った時のスイスの同じ業者を経由しただけではないか)とか謎は深まります。その年にHamiltonの技術を導入することとし、1958年にはHamiltonの技術を用いた女性用を発売、さらに伊勢湾台風の被害を受けた翌月1959年10月に有名なシャトーを発売した、という経緯になります。

リコー時計

で、間もなく1962年にリコーの支援を受けることになるわけですけど、軍需から民需への転換はアメリカではWalthamなども第2次世界大戦~朝鮮戦争期にほぼ100%軍需になって戦後に民需転換する際にかなり苦労したりしてますが、同様に高野も成功しそうに見えてあと一歩上手く行かなかった感があり、これはやはり当時の有価証券報告書で詳細を確認したいところですね。

1962年7月にリコー傘下に入りリコー時計となって、その2ヶ月後にはHamiltonとの合弁でハミルトンリコー時計を設立、ゼンマイの代わりに電池で歯車を動かす電磁テンプ時計(クォーツになる前の過渡期的な製品で実に愛らしい)を手掛けることになりますが、ここで面白いのが、リコー傘下に入る前に高野精密工業で既に電磁テンプ時計を発売することが決まりかけていたという話があるのと(つまりハミルトンリコーは高野とハミルトンの提携の延長線上にすぎない)、という話があるのと、ハミルトンリコー時計の設立に三井物産が出資しているけど、そもそも高野精密工業の救済にリコーが入る前に三井物産も高野精密工業の株を取得していたこと、がありますかね。

ハミルトンリコーの電磁テンプ時計(筆者私物)

また数ヶ月後にはダイナミックオート33とかも出してますけど、これタカノシャトーに自動巻機構を加えたものなので、実質タカノと言ってしまっても良いような気もします。

というわけで十分調べたわけでもなく、雑駁な内容ですが、タカノという時代の徒花的な、にもかかわらず製品としては際立つものがあった時計メーカーについてちょっとでも知っていただければと思い、記事を公開しておきます。

文献とか

生まれ出ずる悩み(4) 高級腕時計に進出 高野精密工業」『商工経済』経済通信社、p32-33、1959/04
創立80周年記念腕時計を発売』リコーエレメックス(株)、2018
名古屋時計業界沿革史』吉田浅一 編、商工界、1953
証券時報 (148);昭和30年4月10日』角丸証券調査部、p24、1955/04


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