たっきーの自伝 15

大学4回生

この年に卒業出来ないのは分かっていた。ただ、大学は4年間と決めていたので過ぎ行く日々をただただ将来への不安とともに過ごしていた。
この年は私がやっていた当事者活動でも、いざこざがあった。
今後会をどういう指針で進めていくかで意見の相違が出ていた。
制度改善の為に各地の会に参加して、里子側の体験からくる意見を発表していく事を優先するか。それとも里子自体の絶対数が社会的養護の中でも少ないのでつながりが持てなく困っている子たちの居場所事業のようなものを画策していくか。
他の人がどう感じていたかは正直私にはわからないが、当時まだ社会的養護という括りをするのはあまり一般的でなかったように感じていた。施設のみの経験者と里親も経験した人に分ける傾向が今よりももっと強かったように感じていた。なので会の方針的にも集めるべきは里子経験のある人たちだった。ただでさえ少ない里子経験者たちだけのための会になっていこうとしているのに違和感は感じた。
キャンプなどの宿泊イベントは予算の都合上難しいとのことだったので、BBQなどのイベント、あとは里子サロンというのを月一回やろうという事になった。並行して体験発表はしていくが、オファーが来た場合は会を通じて受けて、自分たちの会の啓発もしてできればその場で募金も募るという形になった。
諍(いさか)いがとても多かったので、正直里子の当事者活動というものに嫌気がさした時もあった。ただ、周りを見ても活動している当事者を自分たちの会以外でほとんど見なかった。児童養護施設だけを出た子たちに向けた活動はいくつか散見できはしたが里子経験者を対象としているかはこちらからはよくわからなかった。
大学を卒業する前に中型バイクの免許を取っておきたかったので、近くの教習所で新しく始めたバイクの教習に通った。思いのほか、教習は簡単で車の免許を持っていたので2週間たたずに免許は取得できた。友人の弟が不動車の250ccのバイクを持っていていらないという事だったので、貰うことにした。自動車学校に通っていた友人とエンジンとキャブレターをオバーホールしたら、エンジンがかかるようになったので、しばらく乗っていた。大学の通学やバイトの通勤にもバイクを使っていた。
ある日バイトに向かうために幹線道路を走っていたところ、左折の車に巻き込まれて転倒。幸いけがはなかったものの、バイクの水冷が故障。そのまま廃車となった。
バイクの運転は疾走感があってよかったが、都内はバイクを置ける場所がそもそもとても少なくバイク向けの町ではないなと感じていた。
大学は休学という形にすることにした。5年以内であれば、入学金を払ったり入試をすることなく復学できるといわれた。
なんだかあっさりと大学生活が終わってしまった。就活なども何もしていなかったので3月ごろからハローワークに通い始めた。将来のことを全く設計していなかったので特にやりたい職業もなかったが、響きがかっこよかったので広告代理店の営業を何社か受けた。


週6日以上はアルバイトをしながら、3月が終わっていった。

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