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「ディストピアとしてのブレードランナー」を考える (風の谷を創る考②)

 前回は風の谷のナウシカを見直して理想郷としての風の谷という考察をしてみた。今度は都市集中型の未来の行く先かもしれないブレードランナー的世界をディストピア(反理想郷・暗黒世界)として考察してみる。

きっかけはこちらのお話

前回の話はこちら

ブレードランナー的世界観

 ブレードランナーには1982年制作の『ブレードランナー』と、2017年制作の『ブレードランナー 2049』があるがどちらも併せて考えていく。一応補足しておくとブレードランナーは2019年、ブレードランナー2049はそこから30年後の未来を描かれている。分かり易くするため、以降ブレードランナーの世界をB2019、ブレードランナー2019の世界をB2049と分けて記載する。

ブレードランナー的世界の末路 B2019

 B2019年の段階では動物などが市に出ていたり、都市の外にも生きる環境があって、都市と交易しているのかなと思えるようなシーンもあった、宇宙開発はレプリカントを使って積極的に行われ、壊れゆく地球に見切りをつけようとしているのが見て取れる。自由主義や個人主義が行き過ぎてみんなが自身の欲望のままに生きた結果、忍び寄ってきた絶望的な未来ようにも思える。汚れた街並みと鮮やかに光るネオン、体に悪そうなスモッグと雨、健康的に生きるにはなり骨が折れそうな環境だ。ただしその薄暗い世界には過去現在未来、様々な時系列の物が存在している。その薄暗くも混沌とした世界観は底知れぬ魅力を放っている、またそこに生きてる人は全員つまらなく絶望してそうかというとそうではなく、意外と活き活きとしているようにも見える。自然なものはなくなったかもしれないが、人工的な食事やお酒はあるようだし、娯楽はより刺激的な物が存在している気もする。実際私が「風の谷」とどちらが楽しそうかと聞かれたらこっちの世界観かもしれない。(実際に住みやすいかどうかは別として)

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ブレードランナー的世界観
引用元→https://www.cinematoday.jp/page/A0005708

ブレードランナー的世界の末路 B2049

 B2049では郊外の景色も描かれており、より荒廃している様子が見て取れる。荒廃した郊外ではレプリカントが汚れたビニールハウスで食料を生産している姿も描かれる。B2019より都市全体が暗く活き活きとしている人は少ない印象だ。実際には地球温暖化と海面上昇により多くの土地が水没、メインの舞台となるロサンゼルスは壁を作って海に囲まれた中で都市を残しているらしい。またレプリカントが生み出される様子なども描かれている。
 作中では描かれていないが、この世界において都市以外で生き延びている人はいるのだろうか、地球全体がどの程度荒廃していてどの程度汚染されているかまで詳しく描かれていないが、地球上でも海面上昇や大気汚染などから逃れて生き延びている人がいるかもしれない。しかしちょっと想像してみると宇宙植民地を広げる人類がそんな場所を見逃すわけもなく、もし生き延びている人や人間にとって良い環境が残っていればもれなく植民地になっているだろう。そしてそこには風の谷の様な独自の文化はないだろう。元々都市で暮らしていた富裕層を中心に宇宙植民地であるオフワールドへ移住し、取り残された人が都市の限られた環境で身を寄せ合っているというのが、実際の状況だろうか。
 一応歓楽街的な所が描かれているが活気があるのはホログラムの映像ばかりで、B2019より夢も希望もない感じがより強調されている。食事についてはなにやらゼリーのような食べ物においしそうなホログラムを重ねているのは実際に暮らすと考えると大分辛い。さすがにここまでくると楽しく暮らすというより、明日どう生き延びようかとか、どうやって現実逃避しようかという発想が強くなるように感じられた。

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公式フェイスブックより

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ブレードランナー2049公式PVより

ブレードランナー的世界観に希望はあるのか

 B2019とB2049では絶望感が全然異なるが、ディストピア的な世界としてとらえられるブレードランナー的に希望はないのか考えてみる。

見切りをつけて宇宙へ出よう!!
  B2019の段階から宇宙植民地を広げている描写が描かれており、B2049の時点では都市の絶望感が強く表れており多くの人が地球の数少ない生存領域を見限ったように感じられる。
 地球に見切りをつけて宇宙に出る、正直これを希望と呼ぶのか微妙な所だが、多くの犠牲を払いながらも命は続いていくし新しい発展繁栄の形を見出していくのだろう。もし生き残った人が地上に新しい生存領域を作ったとして今度は宇宙植民地から帰ってきた人類が奪いに来るんだろうな。これはこれでまた別のSF作品の様な妄想になってきた。ただ数百年後には地球の環境だって元に戻るかもしれない。そう考えた時、農業における輪作的な発想で数百年毎に住む惑星を変え事で人と地球の良い関係が見いだせるという事もあるかもしれない。実際の所未来はどうなるかなんてわからないので希望的な観測も絶望的な観測もできる。人類を牽引するのは根源は情熱か権力か暴力か想像力かそれは分からないが、どこに向かうとしてもそれなりの希望を見出すのだろう。

レプリカントこそが次なる命のカタチ
 B2019では生きるという事に固執するレプリカントが描かれ、B2049では実際に子供を作る事の出来るレプリカントが描かれている。B2049ではレプリカントによる旧人類への反乱も企てられており、レプリカントこそが荒廃した地球の支配者となっていくのかもしれない。
 現代における人間は最終的な生命の進化系なのだろうかと問われた時、私自身は明確にノーと答える。遺伝子を元にした変異や淘汰によって進化してきたと考えると、人が創りしものが新しい命のカタチを見出すのはとても急速な変化だろう。しかしながらその変化が一旦起こってしまったらそれが自然か不自然かともかく新しい生態系と社会が生まれるだけなのかもしれない。その変化の中で旧人類も変異と淘汰、そして進化を求められるのだろう。レプリカント主導による新しい社会秩序の中で変化した旧人類は意外と楽しくやれるかもしれない。もしかしたら旧人類は滅ぼされレプリカントが新しい命や哲学を語るのかもしれない。いずれにせよ何となく物語は続きそうに思える。

AIが知性を獲得するかもしれない
 B2049ではウォレス社のAI搭載ホームオートメーションシステム「ジョイ」についても知性を見出すような描写がされている。最終的にはエマネーターの中に入ってレプリカントであるジョーと一緒に歩む事を選ぶ。ただしその結果最終的に刺客であるラブに破壊される。
 人間やレプリカントが肉体に意思を宿すように、ジョイはエマネーターに命を宿した。好奇心や欲望のようなものが芽生えている事に知性を感じるけれど、ただし死に対しての恐怖についてはあまりにも希薄で危うい。 
 もしAIが知性を持ちえたとして私たちの生命の概念とはちょっと異なるように思う。データバンクの様な集約的なコンピューターにこそ意思が宿るかもしれないし、分散して設置されたサーバー全体で一つの意思の形かもしれないし、劇中に出てくるようなエマネーター一つ一つが個別の意思を持ち得るしれない。これはまたレプリカントとも人とも異なる命の形なのかもしれない。

新しい生命体について考える

新たに生まれた意思とその権利
 レプリカントとAI、どちらも人が人のために創り出したツールなのかもしれないが人間と似たような意思を持ち得てしまった時、そこに権利が生まれるべきか中々難しい所である。
 そもそも人と動物との権利にも違いがあるし、人と人との間にも権利にも違いがある。自分の意見を主張しなければそもそも道具としていいように扱われるだけでそれは生命だろうが機械だろうが大きく違わない。そもそもが道具として機能する事に喜びを感じるようにデザインされた意思たちはそれをどのように超えてくるだろうか。
 生きる為には時に助け合い、時に争い、奪い合う事はやはりどうしても出てきてしまう、人が創りし知性的存在が人を模倣しようとしたときにはきっと争いになるだろう。しかし生死という概念を超えたなら今の人類の抱える課題の多くは消える。そう考えた時今の人間同士の争いのようなことは起こらないのではないだろうか。恐らく全く異なる異質な問題が現れるように思う。

新しい生命の形とその脆弱性について
 生命体がその形を大きく複雑していくにあたって、その全体の統制を取るために、死に対しての明確な恐怖や痛みと、生に対しての喜びや快楽というのが上手く機能として残してきた事がやはり大きいように思う。私たちは何だかんだ言ってもその枠の中からは抜け出せない。抜け出そうとしたとして理解されないし、誰かが理解したとしても共有できない。そういう意味では
私たちだってレプリカントやAIとそう違わない思考しかできていないのかもしれない。むしろ人が生命というデザインを超えていこうとしたら、レプリカントやAIのような存在に望みを託すしかないのだろう。
 人が創りし新しい知性や命の形には長い年月で培ってきた生死の概念が宿るだろうか。もし現人類にとって代わる存在が生死の概念を失った時元々の生命のデザインは刷新され、既存の命のバトンは途切れてしまうのかもしれないなんてことを考える。新人類はどのような形なのか、果たして続いていくのだろうか、それが善なのか悪なのか、望むか望まないか、私自身想像する足掛かりが無さすぎて正直まったくわからない。

希望や命、意思についての私見 
 ここまで考えていて私自身は希望というものを今ここにある命や意思が未来に繋がれていくかどうかに見出しているなーとそんな風気づいた所である。そもそも前述の命のバトンというような考えも何となく大切に思えるが、本当にそうなのだろうか。
 私たちは何を繋ぎ何を残すべきか、すべてを理解し支配したような高慢さを感じつつ、相も変わらず限られた肉体の能力を活かして生きていくしかない。与えられた才能や能力や繋がれた想いを活かして、役割をもって機能する事で喜びを感じ、今度は命のバトンをどうつなぐかそれを考える。そう考えた時私たちもデザインされた枠の中で振舞っているだけなのかもしれない。ただそれをあえて否定する事もない、その流れを感じながら持ちえたもので好き勝手に振舞おうと改めてそんな風に思った所である。

で結局どこを目指し何をすべきなの?

 少し話がそれたので戻していくが、「風の谷的世界観」と「ブレードランナー的世界観」の両方を改めてよく考えてみたのだけれど、結局どこを目指すべきなのという事を考えてみる。どっちも良い所もあるし、悪い所もあるな、なんて感じた所であるが、どちらもあくまで物語の一つでしかないので、片方に完全に偏るという事も実際にはないだろう。悲観的な観測をするとこのままだと人類の生存領域が都市にのみ残るとも考えられるが、楽観的な観測をすると荒れ果てた所から順に人が移り住んでその時々の利便性で住む場所を変えていくだけとも捉えられる。そう考えた時その場づくり自体はその時々それぞれに異なるので具体的な場のイメージをここで想像するのはあまり意味が無いのかもしれない。
 ただし明確に予想されることとして文明の利器を最大限に用いる事の出来る一部の人間だけが生き残り、そこにアクセスできない大勢が知らず知らずのうちに犠牲になっていくという構図は今も大きく感じられるし今後も広がっていくだろう。実際に現代でも医療や食料など様々な面で顕在化している。つまり「都市と地方の構図」というより、「人間の権利の偏在」にこそ問題があるのではないだろうか。
 テクノロジーによって拡張される人類の能力が、元々偏在化している権利を膨張し暴走させてしまう。それこそが絶望的なシナリオの根源にあるのではないだろうか。ただしこれからもテクノロジーによって拡張される能力というのは実は全く未知で不定形で不安定なものだ。実際の所誰がどう扱っても過ちを犯すことになるかもしれないが、かといってよくわからない人が操ればより大きな禍いを起こすリスクは大きい。しかしながら偏在した権力をそのままにその力を預けると格差は広がるばかりであり、結局は禍の種になるのだろう。

格差の根本とどこまで考えるべきか
 格差をなくそうというのも中々難しい所はあるなと思っていて、例えば人をまとめる事能力とか考える能力にも違いがあるし、そもそも好き嫌いだって実は多様で、そこに差が生まれてしまうのは必然だ。愛されて育ってきた者と憎まれて育ってきた者、努力してきた者と怠慢にすごしてきた者、人あたりのよい人とぶっきらぼうな人、それらすべて均一にはならないしできない。ただあまりにも本人の能力や適性にかかわらず生まれ持って出会った機会や年功序列というような事に縛られ過ぎているのではないかというのがやはり思うところだ。
 能力や適性というのも義務教育の過程などで、ある程度予測はできるかもしれないが、実際にどんな能力が発現するか、自分が心地よく能力を発揮し続けられる環境かどうかは実際にはわからないはずだ。また最低限の教育がいきわたってみんなが社会を作る前提となる知識や力をつけたはずなのに、それを活かしきる社会にはなっていないのではないだろうか。それとも教育や学び自体に問題があるのだろうか。
 この話は掘り下げていくと限りなく深いように思う。最近見た映画のフレーズに「じゃあ教えてくれよ、この仕組みの深さを破壊する方法を・・・」というのがあったのだけれど、なんだかその言葉がよくよぎる。
 
論じきれないので、ひとまずまとめてみる
 前述の話はいったん置いといて、都市集約型の未来のオルタナティブを作ろうと考えた時、場より人の方が重要だろうという考えに至っている。つまり「場づくりを通じた人づくり」そして「人同士の連携の最大化」というのが肝なのだろう。それを踏まえてどのような事をすべきかと考えると。
 ①自分たちの足元の現状を知り、最新のテクノロジーを学び続ける事、
 ②それを踏まえて総合的なリソースについて分析しその配分を考える事、
 ③誰でも参画可能で分かりやすく議論を尽くし決定する場がある事。
 これらが重要ではないだろうか。フラットに意見を交換し変化に適応し続ける意思決定のプロセスが必要に思う。

 方法としては様々考える余地はあると思うが思いつく一例を挙げると
①を達成するにはやはり中心となる学びの場が必要に思う、
②はそれぞれ専門的な分析をし分かりやすく解説する人が必要に思う、
③は議会や重要な会議を双方向なライブ配信にしてみてはどうか。

 ただし地域や自治体でそれを本気で行うには慣習や家柄、培ってきた想いや文化など理屈ではどうにもならないこともあまりにも多い。「風の谷を創る」運動論は廃村などの0ベースの取り組みという事なので、「人間の権利の偏在」という問題に対しての答えを導く取り組みであってほしいなんて思うところだ。ただしそれは必ずしも均一である事が望まれるわけではなく、それぞれの姿形や意思もそうだが、現在過去未来すらも考えつくした調和こそ望まれる。自然、人、テクノロジー、その他多くの要素、よく観察しその調和した形を暮らしとして表現するそこに理想郷があるのだろう。そしてそのバランスが導き出せたときそのレシピが広がっていけばよいとそんな風に妄想している。

最後に・・・

 話が色んな方向に広がったりましたが、今後も「風の谷を創る」という取り組みには注目させていただきながらも、私自身もここで書いたようなより納得のいく社会を探究して行動をしていきたいとそんな風に思います。「シン・ニホン」においても人材育成の話から最後に「風の谷」を例示した場づくりという話に向かっているが取り組みをこの取り組みの肝というのもやはり人に立ち返るかもしれないと考えた所でした。
 もう1記事位シリーズ書けるかなと思ったけど、中途半端になりそうなので今回の後半に無理やり詰め込んじゃいました。最後まで読んでいただきありがとうございます。

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