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人新世の資本論 書評と感想

 少し前数人の識者に勧められて「人新世の資本論」を読んだ。これまでの当たり前の日常を覆すような話が多くあり、非常に示唆に富む内容だと感じた。この本で語られるような社会になったらいいとは思うが、現実的にどこまで現在の社会を変革できるのだろうと実際には思ったところだった。そんなわけで読んで考えた事を書いてみる。書いてみたが最近ようやくまとめる気になったのでアップしている今は読んでから2カ月くらいたっている。

資本主義社会の欺瞞

 資本主義社会は問題や犠牲を外部化する事で潔癖の社会を作ってきた。我々が当たり前に享受している食べ物や製品、それらは多くの環境破壊や人権問題を外部に転嫁する事で成り立っている。更に資本主義の外部化は未来にも及んでおり、次世代に負の遺産を残すものでもあるだろうと語っている。
 外部化の流れが世界中に覆いつくされた時には、問題や犠牲を追いやる先がなくなり資本主義社会は致命的な欠陥を露呈する。特にCO2の問題をはじめとした環境問題については顕在化してきており、このままいくと現在の地球環境を破壊しつくし、その割を喰うのは特に私腹を凝らして生きているわけでは無い99%の人だろうと本誌では語られる。
 確かに日常において現れるゴミが多すぎやしないかと普段からいつも思っている。例えば私自身も最近レジ袋有料化に伴い、エコバックで買い物をするようになったが、レジ袋は無くなったけれど、エコバックの中に入っている商品、これらに容器や包装に使われているプラスチックはレジ袋何枚分だろうなんて想像をする。ただやらないよりはきっといいはずだし、他の誰かが考えるだろうと少し経ったら忘れてしまう。
 SDGsやカーボンニュートラル等は現状の社会のままブレーキをかける事で何とかしようとしているが、現状の社会のままちょっとしたブレーキをかけるくらいでは気候変動は止まらず、また技術革新が解決できる問題の規模についても希望的観測が過ぎるという話にはとても納得できた。

そうはいってもどうすればいいのか

 このままいくと「権力による管理社会」か「資本による独占社会」かどちらかが主流になり、それすら立ち行かなくなると社会が崩壊し「野蛮状態」となるだろうという観測をしていた。そうならないためにも「脱・成長コミュニズム」という事が必要だと論じていた。資本主義の欺瞞についてもっと明らかにして今の生活や暮らしを根本的に変えていく必要がある、それを実現するには個人個人の意識を変える事、市民運動を通じて広げていくことも大切だ。そして「潤沢なコモンズ」を持つ事によって欲求に振り回される事ない社会を実現しようという様に解釈した所だ。

人は森羅万象に対してフェアになれるか

 ここからはどちらかというと私個人の意見になるが、資本主義社会や新自由主義の欺瞞や犠牲を伴う豊かさについてはおかしいなと思う所である。なので世の中がそのおかしさを正そうという変化の兆しを見せた時私自身も賛同すると思う。しかし問題を積み重ね続け、どうしようも無くなってからパニックや狂乱、生き死にを伴う混沌とした社会を経た後でしか本当の意味での変革は起こらないのではないだろうかと冷めて見ている所もある。人間社会は人間が作っている、いかに自然に寄り添ったとしても人間中心の論理から抜け出す事は出来ない。そもそも自然を理解し克服する事で人類はその数を増やし、生存領域をひろげてきた。ならば自然を自在に操り支配し使えるだけ使って人間を豊かにしようという発想は人類にとって共通善であったはずだ。そんな過程も考えながら、やっぱり既存の自然をこれからも破壊し続けるであろうと考える。これは途中ブレイクスルーインスティチュートの悲観的な観測として例示されているが、「適応」を考える方が現実的という考えに個人的に近い。その理由は大きく2つある。1つ目は心地の良い欺瞞の中に生きる気楽さ、2つ目は人間の感知能力の限界があると考えている。

欺瞞の中に生きる心地よさ

 実の所みんなわかっている、自分が生きている事に対して見えない所の何かを犠牲にしているかもしれないし、不幸な出来事を押し付けているだけかもしれないなんてこと、どんなに賢い人でも自分の日常にある物がどういう工程でどうやって今自分の下にあるかなんて分かりやしない。物を通じて結ばれているのは「売る人」と「買う人」の関係性だけであってその他の事は実際の所どうでもいい。ほとんどの人にとってはそうなのだから「売る人」がお互いにとって不都合な事実を隠せばいい、買う方も隠された事実なんて敢えて聞かなければいい。欺瞞の中に生きる心地よさに慣れている。物言わぬ自然環境や目に見えぬ人助けより、自分や身近な誰かの心にささる「キャッチコピー」の方がはるかに重要なのだ。それは一人一人が個体として生きている以上抜け出せないのだろう。

人間の感知能力の限界

 人間の感知能力の限界がやはりあるだろうという事、より分かり易く書くと「本当の意味では他人の痛みや苦しみなどわからない」という事だ。目の前で血を流して倒れている人がいたとして、共感して気分が悪くなるかもしれないが倒れている人が感じている本来の痛みはわからないだろう。
 情報テクノロジーが発達したおかげで全世界のニュースをなんとなく知る事が出来るようになったが、感じる事は実の所人それぞれだろう。口伝や絵で情報を伝えていた時代と比べて正確さは上がったかもしれないが、目や耳で体験を想像するという事には変わりがなく、前後関係や何を想って行動したかについては共有されにくい。現状進歩した情報伝達の速さや正確さは実際問題をややこしくしている側面もあると思っている。

共存すると共に競争させられる難しさ 

 僕ら一人一人が少しでも戦略的にその贅沢を捨てる事が出来れば、地球規模で抱えている問題の多くは解決に向かうだろう。一人一人が贅沢を捨ててより持続可能性の高い暮らしを実現しようとしたとき、なるべくならみんなが自給自足に近い生活を目指していくのがいいだろう。そんな事を考えて私自身も、実際に田舎に住んで近隣で手に入るだけの食べ物や資源を用いて生活しているが、現代社会におけるババ抜きあるいは人狼ゲームの様な騙しあいの構図がある事が見えてくる。
 例えば個人の能力を発揮するという事について考えてみよう、頭を使った仕事をしようと思った時には甘いものが欲しくなるし、コーヒーやお茶などがあるとより効率よく機能させられる。健康な体で生きていれば適度に動物性のたんぱく質も欲しくなるだろう、いつでも頭や体が欲しているものを食べられる環境というのは自給自足の生活がベースだとしたら中々難しい。手近の物で代替する事ができても自分にとって最高のパフォーマンスを出せるかというとそうはいかない。またとても暑い日にエアコンが無かったらどうだろう、水浴びしたりうちわであおいだりしてしのぐ事は出来ても、その間生産的な活動はあまりできないだろう。そうした贅沢を減らしていく暮らしにはある程度「耐える」とか「我慢する」と言った事が必要になる。自然環境を過度に支配せず、恵みをいただきながら生きていく事を考えると、欲しいときに欲しいものが手に入るわけでは無いし、困難な事をいつでも迅速に解消できるわけでもない。
 一方で受験から始まり就活そして社会の中でも自分の地位を確立しようと人間同士での競争がある。自然を大事にしようとするあまり自分の能力のパフォーマンスが下がる結果社会的地位を失う。そう考えた時なりふり構わず自分の命を輝かせようとした方が世の中を形作る事が多いだろう。地域間や国家間でだって同様だ、共存のために動かなければならない一方で競争に勝たなければ一方的に奪われる。人類と簡単にひとくくりにすると皆協力して一つしかない地球を守っていかねばとそういう発想になるが、一方でみんながみんな一つの命や意思みたいなものを持ち得ているので、人同士での争いにも勝たねば自分達の命を守り繋ぐ事が出来ない。本音と建前このバランスは実は釣り合って今の社会があるように思う。

一人一人のよりよく生きる

 ほんの少し「耐える」とか「我慢する」という事は人類全体にとって必要なことかもしれないが、個人個人の命のあり方からすれば全く道理に合わない。「耐える」とか「我慢する」という事をなるべくなら除外して、好きな物を食らい、思うままに行動して、自分の内から出る感情を表現して、パートナーと出会い、子供が出来たら自分と同じように自身の生を謳歌してもらう。こういう事こそが生命が持つ個々の「よりよく生きる(wellbeing)」という事ではないかと考える。よくわからない事を学んだり嫌な事を挑戦するという事はあるかもしれないが、誰かを過度に支配したり、搾取したりし過ぎないための忍耐では無く、自分自身のより大きな欲求の為の忍耐でしかないのではないだろうか。
 ただ僕らも子供の頃から言われてて今はむしろより強い語調で語られている事だが、環境問題に取り組まなければ僕らの日常がヤバイというのはみんなわかっている事だ。だからこそ今もなお紳士協定のような形で抽象的であまり実態の見えないルールを作ったり、ルール自体を変えたり破ったりするわけだ。それすらなければもっと加速度的に人間の生きやすい環境は破壊されていくだろうからある意味ブレーキにはなっているのだろう。グリーンニューディール政策やSDGsなどは「地球環境」と「個々の幸せ」というのをどちらも追及できる理想の可能性に力を入れようという事かもしれないが、そうそうすべてが理想の通りには行くわけでは無い。人類の総数は世界全体でみれば未だ増え続けているのだから。

人新世のサバイバル論

 あれこれと書いて考えてみると、個人的にはやっぱり人類は既存の自然を破壊し続けるのだろうと思っています。自然と共に生きるなんて言葉があるけれど、人間一人一人が抱く思いとそれによって形作られる社会ですら「自然」であるのではないか、そして私自身もその一部として想いを抱き関与できるけれど、思い通りになるはずがないとそんな風に考えています。なので僕自身はその破壊しつくされた世界でどうやって生き延びようかとか、どんな命のふるまいが出来るだろうかという発想を元に「人新世のサバイバル論」といった事を考えていきたいな、なんて思った所でした。具体的な動きとして最近は近くの米農家さんが本書で語られる「コモンズ」の重要性を考え、農作業を手伝った分だけお米を貰える「コモンズの喜劇」なるチームを作って活動していて、私も参画しながらそこで何か社会実験的に仕掛けをできないかなど考えています。この話はまた別途書いてみようと思います。
 賛否や実現可否については様々あると思いますが、「人新世の資本論」はとても素晴らしい着眼点で論じられた本でとてもおススメでした。まだ読んでいない方は是非読んでみてください。


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