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田舎と都市の地の利を考える

 これから先未知の世界や価値観を作り出すのはどんな生き方だろう。やはり最近はそんなことを考える。地域で暮らす事の可能性を探求するため今日も考えている。という事で今回は「田舎と都会の地の利」について考えてみる。

 暮らしの拠点は場所に地の利があったからこそ選ばれてきた。まずは稲作を中心とした食料供給を中心に農村の暮らしが発達したし、それを集約する場所として町が発展してきた。町は町同士と交流して今度はそれを集約する都市ができて、より集約性効率を上げるため都市で集まった物そして情報が整理されテクノロジーを生み、今度は都市から町へ、町から村への流れができて、暮らしの改善または支配が行われてきた。
 別の側面からみると新しい価値を創出できる場所に地の利がある。普遍的な価値観が蔓延したところでは新しい価値観は生まれにくくなる、そうした時別の場所に地の利が生まれる。地の利がある場所に暮らしが生まれ文化や思想が芽生えてくる。そういう意味ではもういちど田舎にと可能性感じる意味は分かる。しかし新しい価値を作るのは人であり沢山の人がそこに住み交流が盛んに行われる事が最重要だ。
 という事で「普遍的となってしまった価値に囚われない場所」かつ「人が住み交流が盛んに行われる場所」である事がまだ見ぬ発展を起こす条件かもしれない。でも結局それって雑居ビルの一画でもよくて地域に地の利がある事にはならない。テクノロジーが地域と都会の情報格差を減らしたと言っても新しい価値を生み出す上でやっぱり人の営みの総量には勝てない。都会と田舎の地の利をうまく活かす事を考えた時「田舎にも価値の源泉を作る」という発想と「都会と田舎の共存関係の作る」2つの発想ポイントに分かれのではないだろうか。

田舎にも価値の源泉を作る
 地域おこしに携わった人はほとんどここを目指して進んでいく様に思える。これまであまり見向きされなかったここにしかない価値、ここでしか出会えない体験、ここにしかない未知の世界。それは日本の地域の彩りを豊かにして、色んな可能性を示唆するとても人間らしく、とても平和的なモチベーションだと感じる。
 ただ一方で変わらぬ価値を提供し続けるという意味ではよいが、田舎では変化する価値を真っ先に提供し続けるのはやはり難しいと感じる。先進的な取り組みはすぐに陳腐化する、日々改良改良を重ねる事が必須だ。何か一つの分野で田舎が先陣を切ってそのまま最前列でいるためには、新しい知識がどんどんと出入りして、次々と新しいアイディアに挑戦できて、成功も失敗も取り上げられ、日々しのぎを削る戦いの感覚そういうのが必要と感じる。そう考えたときやはり勝ち負けというのが生まれてしまう生存競争を地域に持ち込む事になる。地域のリソースをそこに割き続ける事が出来るか、未知や未来への投資と考えて税金や民間のお金を引っ張り続ける事が出来るか、そう考えた時やはり地の利は弱いと感じる。特異点的に生まれ育った価値の奔流、これを続ける事を受け入れられる地域は生き残るが、そうではない地域は消えていくそんな気がしてならない。ただ人間の五感全てを共有できる、距離の概念を壊してしまうようなイノベーションがおきればまた別だけどそんな発想を使う事は出来ても生みだすのは田舎じゃないだろう。変われない人を排斥していけば社会全体が廃れていくのではないだろうか。

都市と田舎の共存関係を作る
 一方で勝ち負けというのを曖昧にして都市と田舎の役割分担をしようというのがこの発想、地方創生の元々のテーマも結局こっちの視点であり国視点で見たマクロなマネジメントの発想である。

地方創生は、東京圏への人口の過度の集中を是正し、それぞれの地域で住みよい環境を確保して、将来にわたって活力ある日本社会を維持することを目的としています。
内閣官房 内閣府 総合HP:https://www.kantei.go.jp/jp/singi/sousei/

 そんな上から見下ろした大きな論理的な発想をもとに、田舎は良いですよなんて小さな感情的に人に当てはめようとするからやっぱり大きな流れは生まれない、お金をかけて色々やったという論理的な理屈に、お金につられて人が動くという論理的な結果がついてきて、お金が無くなれば流れが止まるという結論まで大抵は同じだ。流れの中で行きついた種が芽吹く事もあるが、大きな奔流はすぐに止まる。論理的な発想を正しく理解して整理した上でそれを熱っぽく感情的に伝えて、その感情をお金の力で大きくして、論理的な発想を社会全体に実装してく。きれいごとを言えばこれが理想だろう。
生まれ持った自身の個性や由縁との向き合い方、毎日の食事から繰り返す事まで、人生の目標探しやパートナー探しまで人一人が人生において解決していかなきゃならない問題だって実は結構多い。そんな自分事を進めながら、家族からご近所、ネットの友人やフォロワー、仲間や隣人達とどう生きていくか。そう考えた時国という単位は感情的に寄り添うにはあまりに遠く大きい。
 「国破れて山河あり」そんな言葉があるが、日本という国がどんどん弱っていって他国に侵略されて滅びてもそれなりに暮らしは続いていくだろう、ただ少し先の未来や次の世代が自分の意思を持つ自由があるかどうかは別問題だけれど。そもそも牙を抜かれまくった日本自体が外からあれこれ言われるがままの楽さに慣れ親しみすぎて、牙を研ぐのを辞めて自由はいらないが安定をくれと選択し続けた結果が今かもしれない。一方で自由がどうとか言っても肉体を伴う範囲でしか人間は自由じゃない。人はどのくらいのサイズの檻と餌で暮らすのが理想的かそんな発想も浮かぶ。ただ自分の頭で思いついて体で表現できるものは作りだして今の僕らがあるだろう。それを否定したくはないと思う。
 という事でこの「都市と田舎の共存関係」を考える事が「地方創生」について考える事にもつながると思う。地方創生なんてのは今の所現実にはなく夢物語であり、これから誰かがイメージして具現化してくものでそれが宝探しみたいなもんなんだなと思う事が楽しい発想のはじまりかなとそんな風に考えている。そんなわけで次回は「地方創生」について考えてみようかなと思う。

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