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エッセイ:「コヘレトの言葉」とバシレイオスの『修道士大規定』について

旧約聖書の「コヘレトの言葉」は知恵文学の一つとして正典に採用され、古代社会の教育において役割を果たしてきた。文中で「すべてが空しい」「風のようなもの」であると厭世的な感情を反復させる「コヘレトの言葉」は聖書全体においても、とりわけ異色な存在である。こうした特色を有する「コヘレトの言葉」について特に関心を抱いた点は、その成立過程、当時の社会における知恵文学の役割、後世における受容形態についてである。このような関心のもと、ここでは、4世紀に書かれた聖大バシレイオスの『修道士大規定』を用いて、本文中でいかに「コヘレトの言葉」が引用され、解釈されているか検討したい。

1.「コヘレトの言葉」の成立[1]

 「コヘレトの言葉」は「ヨブ記」「箴言」とともに旧約聖書の「知恵文学」に属する一書物である。ローマ・カトリック正典では、これに「シラ書」と「ソロモンの知恵の書」が付加される。「知恵」(ヘブル語ハカム)の基本的な意味は手工業、統治能力、魔術や占い、策略や謀略などの能力を指すが、神からの要求を正しく解決する努力もまた、知恵に属する。知恵は古代の教育の基盤であり、エジプトなどではこれらの書物が教科書として用いられた。「知恵」の中心的な主題は「正しい行い」であり、日常生活の基本様式、慣例や因習などにもこの知恵が広く浸透していたと思われる。日常の習慣や様式、慣例に知恵が機能することにより、知恵は大局的に見て、「神の定めた世界秩序に人間を当てはめること」となる。従って、知恵文学は古代社会において、生活の指針を定める基本的かつ、重要な書物であったと見てよい。
 「コヘレトの言葉」が『聖書』の正典に採用されるまでの過程については不明であり、この内容が正典として相応しいか否かを巡る疑念も古くから見られた。ユダヤ教会においては、AD100年頃にその正当性が認められたとされており、ソロモンをその著者とする説が、その決定的な要因となったとされる。
 一方、キリスト教会においては、「コヘレトの言葉」の正当性については当初から認められており、新約聖書には「コヘレトの言葉」を想起させる記述が散見する。しかしながら、「コヘレトの言葉」を正典と見做すか否かについては近代以降も議論が展開されており、その結論は「コヘレトの言葉」をいかに解釈するかにかかっている。「コヘレトの言葉」の正当性を主張する見解は様々である。ローフィンクによると、「コヘレトの言葉」は「神の世界を人間の言語や常識のうちに閉じ込められるとする考えを覆すもの」として、また、「神が提供する未来に開かれた態度を取らせる知恵」として特徴づけられている。
 このように「コヘレトの言葉」については、正典としての正当性や解釈を巡って古来様々な議論が繰り返されてきた。しかし、知恵文学の一つとして、古代社会において教育や社会の諸制度の基盤形成に際し、その一端を担ってきたことは確かである。先に述べたとおり、知恵文学は教科書として用いられたとの説もあり、当時の識字率や知的水準の向上に貢献していたと考えられる。こうして他の知恵文学作品とともに「コヘレトの言葉」も伝承され、愛読され現代にいたる。

2.バシレイオスの『修道士大規定』の成立

「コヘレトの言葉」は市民生活における知恵をつかさどる書物の一つとして、古代社会で読み親しまれた。その模範的内容や文章の格調高さや、質の高さについては、この書物が時を超え、バシレイオスらによる修道院の規定などにも用いられていることに示されている。
バシレイオス(330-379)が修道院の『大規定』と『小規定』を著したのは、360年から70年頃であるとされる。これらの規定は修道士の内面的な精神の在り方と、生活様式を具体的に定めたものであり、東方の修道性の在り方を決定付けた規定として位置づけられる。バシレイオス以前の修道士の在り方は、砂漠や僻地に赴き、沈黙と禁欲の内に魂の救いを求めようと志した「隠修士」の存在に示されている。隠修士は福音のために清貧と独身を守り、不断の祈りに身を投じようと志す信者であり、彼らは互いの接触を断つことで内面の深い浄化に自己を導くことに努めた。この際、詩編が諳んじられるまで暗唱、反復された。その後、共同での修道生活が始まり、東方ではバシレイオスの『修道士大規定』と『小規定』が、修道制の基本的な形態を構築した。
 バシレイオスは隠修士の修行法を受け継ぎつつ、集団生活に欠かせない様々な規則を『修道士大規定』に取り入れている。共住の修道士の生活は「神への愛」と「隣人愛」という二つの掟を根本原則とし、上長に対する従順により我意を取り払い、兄弟愛としての共同生活を営むものである。
バシレイオスの『大規定』は修道士たちに対する55項目の質問とその回答という「問答形式」がとられている。ここでバシレイオスが目指しているものは、「主の命令の厳格な遵守を通じて神と一致すること」である。序文において、主に「命じられたことの何一つ見逃すことのないようにすること」とバシレイオス自身も記している通り、聖書からおよそ400箇所もの引用・言及がなされている。このことから、バシレイオスの修道制の基盤として、聖書が極めて重要な役割を果たしていたことが察せられる。バシレイオスが最も重視している主の命令の一つは、「神への愛と隣人愛を確認すること」であり、とりわけ共同生活の内において成就されると考えられた。バシレイオスが厳しく求める相互扶助と禁欲、従順と節制、労働と祈り――これらは修道生活における原則であり、修道士の日常生活の実態を示すものである。
 バシレイオスの『修道士大規定』は今日に至るまで西方・東方を問わず、共住修道制の指導原理をなすものとして受容されている。

3.『修道士大規定』における「コヘレトの言葉」

すでに述べたとおり、バシレイオスの『修道士大規定』において、聖書からの引用が多数行われているが、「コヘレトの言葉」からの引用は5箇所である。

① 『大規定』第7問「神を喜ばせるという目的のための同志たちと共同生活することの必要性と、孤独に生活することの困難と危険性について」

引用箇所1:コヘレト4-10
倒れれば、ひとりがその友を助け起こす。倒れても起こしてくれる友のない人は不幸だ。

従来、砂漠における隠修士の生活が修道生活の理想であるとされたが、バシレイオスは共住による修道士生活、すなわち志を共にする者が助け合いながら生活する場においてこそ、神の定めの本質を見出した。『大規定』においては先ず、孤独な隠遁生活について「各人がそれぞれ必要なものを意に用いることのみを目的とすること」として批判されている[2] 。バシレイオスによれば、これは使徒が実行した愛の法に反するものに他ならない。さらに、独居生活の中では、自分の欠点に気づかぬばかりか、それを指摘してくれる友の存在もないことが指摘される。それ故、独居生活を志す者に対する警告として、「コヘレトの言葉」4-10の一節が示されている[3]。共住する友なしに、いかに正しい生活を行うことが困難であるか、独居を貫くことの危険性がここで明かされている。
バシレイオスは、修道士は召命への一つの希望において一致すべきであり、キリストを頭と戴く一つの共同体を形成すべきであると強調している。聖霊による一致を退け、一人ひとりが独居生活を選ぶならば、それはもはや個人的な自己満足のための情熱をみたしていることにすぎず、神を満足させるべく共通の利益のために奉仕することではない、とバシレイオスは述べている。

② 『大規定』第17問「笑いも抑制されねばならぬか」

ここでは「コヘレトの言葉」より2つの箇所からの引用がみられる。

引用箇所2:コヘレト2-2
笑いに対しては、狂気だと言い 快楽に対しては、何になろうと言った。
引用箇所3:コヘレト7-7
賢者さえも、虐げられれば狂い 賄賂をもらえば理性を失う。

 「コヘレトの言葉」全体を通じて提示されているテーマは「この世で人間が引き起こす事象には、なんの意味があるのだろうか」という疑問であり、「すべては空しい」「風を追うようなもの」として結論付けられる。貫くべきことは神の教えを守り、それに従って生きることのみである。「コヘレトの言葉」2-2は人間の幸せが主題となっているが、ここでは笑いと喜びすらも否定的なものとしてとらえられ、結局は何ももたらすことのない風のようなものでしかないと述べられている。
 「コヘレトの言葉」7-7もまた快楽と関連する内容ではあるが、人の知性や理性の歪みやすさが示されている。賄賂という快楽によって容易に理性が失われること、知性の高い賢者でさえも外界からの圧力や影響によっていかに容易に愚者となるかが語られる。
 『大規定』第17問は修道士の日常生活における注意点として、笑いの危険性について述べられている。笑いにふけることは何の徳ももたらさないばかりか、「不節制の、また感情抑制の欠如の、そして確かな分別により魂の空しい動きを抑えることのできないしるし」であるとされる[4] 。特に、大声で笑ったり、こらえきれずに体を揺すったりすることは、自己支配力のある魂の表れではないため、「魂の安定性を損なうもの」として忌避されるべきもとされる。その根拠とされているのが「コヘレトの言葉」2-2と7-7である。
バシレイオスはまた、笑いの多義性についても触れている。例えば、ヨブ記8:21における「彼は笑いをもってあなたの口を満たし、喜びの声をもってあなたのくちびるを満たされる」などに示される笑いは快楽ではなく、「魂の喜び」を意味するものであるとされ、快楽による笑いとは厳密に区別されている。第17問で戒められているのは、快楽の喜びに浸る行為についてである。快楽は邪悪の大きな誘惑であり、罪の要因である。従って、快楽に興奮せず、有害な享楽に対して節制し、これに負けぬよう身を持する人は「完全に節制ある人」として正しい者とされる。「節制」は罪の破壊、情念の排除であり、霊的な生活の始まりであるとバシレイオスも述べ、修道士の生活において極めて重要な原則に位置づけられている。

③ 『大規定』第37問「祈りと詩編朗誦は仕事を怠る口実となるべきものなのか。どの時間が祈りにふさわしく、また、第一に労働は必要であるのか」

第37問の主題は一日における「定められた時」に関する記述であり、「コヘレトの言葉」からは3-1が引用されている。

引用箇所4:コヘレト3-1
何事にも時があり 天の下の出来事にはすべて定められた時がある。

「コヘレトの言葉」3-1のテーマは神から与えられた「時」についてであり、続く3-2からは人の生涯における日々の出来事について記されている。それは人が生まれてから死ぬまでを一つの大きなくくりとして、その内で起こる出来事や人間の感情が合計28の項目として著されている。その上で「人が労苦してみたところで何になろう」(3-9)との問いが反復される。その問いに対し、すべてを神が、その時に、完全な仕方で行われ、すべての中に神は永遠を置いたと述べられる(3-11)。すなわち、すべての時は神によって作られ、それらは不変であるということである。人は神の定めたこの永遠の時の刻みの内で生きるのであり、それらは過去から未来に及んで永遠に繰り返されるものである。
『大規定』第37問において問題とされていることは、時間の使い方についてである。先ず、労働の必要性が説かれ、「敬虔という目的を無為徒食の口実や労苦からの逃避と考えてはならない」と記されている。労働はまた「さらに多くの労苦、苦難への忍耐のための前提をなすべきもの」と考えられるべきであるとされる[5] 。ここで問題とされていることは、祈りや詩編の朗誦を口実に仕事を免れようとする者がいることである。こうした者に対する戒めとして「コヘレトの言葉」3-1が引用され[6] 、「他の仕事のためにもそれぞれの時があるということを心得るべきである」と主張される[7」 。すなわち人は、神の定めた時に従って生きるべきであり、一つのことのために他のなすべきことを蔑ろにしてはならない。祈りや詩編朗誦にはすべての時が適しているとされるが、「私たちは昼夜働き続けた」(Ⅱテサ3-8)との言葉を常に調和させる必要があるとバシレイオスは述べている。

④ 『大規定』第55問「医術の使用は敬虔の目的と調和するか」

引用箇所5:コヘレト7-29
ただし見よ、見いだしたことがある。神は人間をまっすぐに造られたが 人間は複雑な考え方をしたがる、ということ。

 『大規定』第55問は医術の使用の目的についてである。バシレイオスは人間の身体は様々な害悪を蒙りがちであると指摘している。そのため、人の身体から過剰なものを取り除き、必要なものを加えるよう医術が必要とされる。この医術は元来、魂の癒しの雛形として、神が私たちに贈ったものである。病や死は堕罪によってもたらされたものであるが、神は人に農耕の技術や、ある程度まで病人を助ける医術を贈った。神の意志により薬草が栽培され、同様に、果実、金属、海産物から肉体のために良い効能を得ることが可能となったのである。
 さらに「コヘレトの言葉」7-29「神は人間をまっすぐに作った」を根拠として、神は人間が善き業の中を歩むように、善き業のために私たちを作られた、とバシレイオスは主張する[8」 。そのため、病気に対して物質的な治療法が必要なのと同様、私たちの魂に関しても、魂に相容れないものを取り除き、魂の本質に適するものを摂取する必要があると指摘される。こうした魂に対する癒しはまた、肉体的な病と医術とによってもたらしうる。癒しが長引くことによって、私たちは受けた恵みを長く記憶にとどめることとなる。医術は魂の癒しの雛形であり、肉体の癒しは魂の癒しに直結するものとして位置づけられる。

 以上、バシレイオスの『修道士大規定』を用いて、「コヘレトの言葉」がいかに解釈され、修道院の規定の中に盛り込まれているか検討した。『修道士大規定』は55問におよび、ここで扱ったテーマはごく一部でしかない。「コヘレトの言葉」における引用箇所も聖書の他の箇所と比べて多いとは言い難い。しかし、修道士の日常生活の基本をなす部分(友について、笑い、労働、医術)に「コヘレトの言葉」からの引用が見られることは興味深いものである。「コヘレトの言葉」を通じて、知恵文学が後世の社会にいかに生かされているか、今後さらに考察を深めていきたい。

文・大嶋かず路

                         

[1] 第一章「コヘレトの言葉」の成立については、授業時に配布されたプリントを参考とした。第二章バシレイオスの『修道士大規定』の成立については、上智大学中世思想研究所編『中世思想原典集成2――盛期ギリシア教父』東京:平凡社、1992年、クラウス・リーゼンフーバー『中世思想原典集成「栞」中世思想史3』村井則夫訳、(上記書籍の附属する栞)を参考とした。

[2]上智大学中世思想研究所編『中世思想原典集成2――盛期ギリシア教父』東京:平凡社、1992年、204頁。

[3]同書、204頁。

[4]同書、223頁。

[5]同書、253頁。

[6]同書、244頁。

[7]同書、254頁。

[8」同書、275頁。



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