岳亭丘山研究はしがき(基礎史料紹介)


 (2002年頃のメモを再編集。もともとは1997年頃の研究カードを打ち込み直したもののようだ。ウェブサイトで少し触れたら浮世絵研究者から共同研究の声がかかった。当時本業が忙しすぎたのでスルーしてしまったのは惜しかったかも)

 近世の文化人として見た場合、岳亭丘山の活動には、際立った特色というものがない。

 あえて言うなら絵師としての仕事にある程度特筆するものがあるが、それにしても魚屋北渓門下の逸材、という位置付けでしかない。

 戯作者としては『俊傑神稲水滸伝』などの当たり作はあるものの、馬琴・京伝はおろか滝亭鯉丈にも評価面では及ばない。

 大坂での川柳紹介者として『画本柳樽』を大流行させたが、これにしても二番手の誹りは免れないし、後には二世北斎にその座を奪われてしまう。

 これら一つ一つをとってみると、岳亭の位置付けは常に水準以上二番手以下、といったところに落ち着いてしまう。

 しかし、近代以前の文化人の特質が幅広い活動領域にあるにしても、岳亭のようにすべての領域でプロフェッショナル、あるいはすべての領域を職業化した人物はさほどいないのである。

 岳亭についての研究は、彼の全体像を対象としたものがほとんどみられず、彼の活動の個別領域を対象としたものがほとんどである。浮世絵師としての、魚屋北渓門下の逸材という評価、川柳を上方で流行させる一要因となった『絵本柳樽』の編者・挿絵絵師としての評価、上方で大流行した長編読本『俊傑神稲水滸伝』の最初の著者としての評価、それらはほとんど相互に関係することなくなされてきたといっていいほどである。その結果が彼の文化史上の評価の不当といっていいほどの低さに反映されている面は否めない。江戸下りの戯作者・絵師としての彼の活動は、近世後期上方の江戸文化受容において間違いなく大きな役割を果たしたものであり、個別領域において第一人者ではないということは認めざるをえないにせよ、彼の評価はその全体状況においてむしろなされるべきなのである。

(ここでは、その研究の端緒を開く意味で、岳亭丘山の伝記に係る既知の資料を紹介しておく。)

『近世物之本江戸作者部類』(曲亭馬琴)

「岳亭丘山

原是小禄の御家人也といふ。退糧したるなるへけれともなほ帯刀す。画工にて戯作をかねたり。この作者の中本幾種の印行のものありといへとも一箇も記臆せす。世に聞えたるものなけれハ也。文政の初の比より人形町の表店に表札を掲けてありしか京浪華のかたに遊歴すとて両三年他郷にあり。近ころ江戸へかへりしといふ。そか中本の書名ハ知れるものに問ふて追録すへし。」


『馬琴日記』

文政十年丁亥三月十三日記事

「○夜に入、画工岳亭来ル。予、対面。近日上京のよしニて、扇面五本染筆たのまれ、燈下ニ認、遣之。且、去年中被頼候嶋の勘十郎の伝、認置候分、遣之。甚長談ニて、四時帰去。」

同三月廿一日記事

「○一昼後、画工岳亭来ル。上京、今日只今より発足のよし。過日約束之たんざく十五枚、認くれ候様、被申之。即座に染筆。奇応丸中包一、為餞別、遣之。早々帰去。」


『日本浮世絵類考』

「岳亭春信

八島氏 俗称 斧吉 号 定岡 江戸南青山の人  北渓の門人なり。狂歌摺物草双紙読本等画り、狂歌をよくし窓の村竹の門人なり。堀川太郎春信と云り(南伝馬町天王祭の時街の大あんどうを度々画きしを見たり)。」


『狂歌水滸伝』(文政五年)

「神歌堂、八島定岡

画人岳亭初め春信といひ後定岡と改む。東都霞ヶ関の産にて青山ひとゝなる。今日本橋阪本市中に閑居す。よく天文に通ず。又心たかく一たびハ義によつて死地に就く(ワリ伝出一書)。一たびハ孝によつて雷下に伏す」


『一老画譜』(文政六年、源光博序文)

「一老画譜者八島先生所筆也。八島先生何人乎。平田氏之遺子也。文雷四方、画以鳴宇内矣。蓋以文與畫、使衆人為悦目感肺者、皆斯畫譜焉。開之則如自入山林双幽人矣。其體亳不襲古人、出一家機軸、而有為嚆矢後学。」


『狂歌現在奇人譚』後編(文政七年、源光博序文)

「先生八島氏、姓菅原、名定岡、字鳳郷、岳亭其號也。又號神歌堂一老。平田氏之遺児、而産東武霞関。其母為側室時、 内妬毒酷、仍避身於西郊青山里知音之方、後携先生嫁邑之八島氏、遂長其地。先生天資好画、六歳始解後素意、七歳学書及剣。斯歳秋患湿眼、薬餌亡功、引延蝋年。 八年。十有五之春、遇一良醫之金箆、再得視天日、爾来双親禁一切費眼力之事、頗似懲羹吹韲。其重護亦甚。十有九歳、養夫嬰不遂疾、在褥三年、継其母亦臥同疾七年、晝汲々生産、夜侍枕席扶病。得 暇就燈下、聊閲諸書而己。遭斯困厄家資殆蕩盡、百術為之所妨、不果其志、双親千秋之後、随其嗜好、終以画為業也云。而近来都下所謂狂歌者行**與其徒唱和、斯著狂歌奇人譚。抑先生其幼也窘眼疾、其長也遭双親疾苦、一日无開口笑日、習為性、終嫌一切佚遊戯楽之事、耳不喜鄭声淫曲、口不甘煙酒肥濃、唯画及著作以為任、無他嗜好、是亦宜為一奇人乎。謹作傳以換序。

文政七年歳次閼逢 灘閏八月 源朝臣光博撰 臣直方謹書」

「我したしうむつひかはせる岳亭のぬしは、はやうより繪の道をすきてあしたゆうべに筆とりて物しけるが、實にすきこそものゝ上手なれといふことわざのごとく、かきうつす繪ごとに大よそ人の類にあらねば、世の人々のぬしの繪をめてつゝ春ごとのすりものなどいふものは、此人にあつらひつけてたれも物すめり。此ぬしたゞ繪をよくするのみならず、から國のふみはさらなり、やまとふみのかたもかしこくまねびとりて、かりそめのされことなどかけるも、をさ~昔の人に恥ず、いと~うるせくそつくりなすめる。されどゑかくかたもふみかきのわざもことさらに師をとりてまなびたるにはあらず、ただ、みずからの心を師となして、よしあしをもおきてさだめられけるとぞ、京極黄門が和歌に師なしとのたまへるなど、げにとおもひあはせられて、ぬけいでたる人のしわざやんごとなきものぞと思ひしられぬる」


『無名翁随筆』(天保四年、渓斎英泉)

「岳亭春信

俗称 斧吉 江戸青山ノ人(狂歌ヲヨクス、窓村竹ノ門人也。堀川太郎春信ト云リ)號 八島定岡ト云」

 

『戯作者小伝』(安政三年、岩本活東子)

「初め青山辺に居て後大伝馬町に住し、今浪花に在り」


『今治土産福寿草』

『吾師八島の翁はとしころミやひの道をたくみて」われにハゆるせと咏にけん慈鎮和尚か心をおもひ」圓位上人のむかしをしのび旅行事を好まれける」むかし能因が雨くらひしゝ伊与の三しまにとほからぬ」今治のあがたにをしへ子乃有てそのまねき(欠損)」かたく去年の春より都をさかすみ(欠損)」にのひきあからさまぞとおもひつるもはやひと(欠損)」まつはまた三月キになん成にけること(欠損)」(改頁)かへり玉ひ彼地にての有けん事とも哥にまれ発句にまれざうはいといへるものまてものこりなく」あづさゑりて事ゞに画をまじへてひとつのとぢ」まきとハせられたるおのれにその事わりをせよと」ありけるをおのれまた彼僧正かくせにならひ此道の」好ものなれバいなミもやらでいなみ野のすきまに似たる」禿筆とりて此はしつかたをかいよごしぬ」

「弘化三とせのはるのすゑよりいよの国今治といへるところにゆきてあそひ」けるにひと日門人棟郷子にいざなはれて三くるハの内にまうのぼりぬ」

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