実親卿秘記

(20世紀末に、担当していた友人に機会を貰って『SFオンライン』用に書いた短編小説です。〆切オーバー&字数オーバーのため結局採用されませんでした。一応多少の評価はいただいて長編執筆を勧められましたが、そっちを書けずそのままになっています。ちょっと気恥ずかしいのですが、モチーフが研究テーマとも被るので公開)


  太一ノ章

「手をだしな」

 太一は、ぶっきらぼうにそう言った。照れ隠しだった。

 眩暈がするほどたくさんのセミが鳴いている。村の神社の森の中には、雲ひとつ無い夏の青空の下でも、涼しい風が吹いている。

 その木陰に、太一は、自分と同じ位の年恰好の少女と並んで腰掛けていた。この田舎の村では他に見かけることの無い、紅い仕立ての良い着物に、上品な顔立ち。色の白さが、畑仕事を手伝わされていないことがわかる。この村では、太一のような孤児でなくとも、六つにもなれば何かの仕事はしているものだが、少女はそれとは無縁なようだった。

 太一は、日に焼け、荒れた自分の手足を恥ずかしく感じた。親が無かったから、太一の仕事は、普通の村の子供たちと比べてもさらに厳しかった。

 少女が細い両手をそっと差し出すと、太一はその上に野イチゴを五つばかり、そっと乗せてやった。少女は大きな目を丸くして、そのうちの一個を自分の口に放り込む。

「甘い……」

「そうだろ。俺しか知らない、野イチゴの生えてる場所があるんだ」

 太一は、得意げに言った。少女はにっこりと笑い、ありがとう、と言った。

「お安いご用さ。いつでもとってきてやるぜ、野イチゴでもアケビでも」

 お前のためならな、と言いかけて、太一は口をつぐんだ。少女は、不意に黙り込んだ太一を不思議そうな顔で見ていた。

 綾乃、というのが、その少女の名だった。

 綾乃は、まるで姉のようにしか見えない若い母親に連れられて、人目を偲ぶように太一の住む滝内村にやってきた。三月ほども、前のことである。親子は、古くからの神官の家に入ると、そのまま、村にいついてしまった。

 谷筋の小さな集落である滝内村の住人たちは、この親子のことを遠巻きに眺めながら、様々に噂していた。その噂は、孤児で、村の雑用をひきうけるかわりに炭焼小屋で暮らしていた太一の耳にも入ってきた。いわく、御武家に勤めている間にできた子で、どなたかのご落胤だが、故あってこの村に身を隠しているのだと。

 村人達は、お家騒動にでも巻き込まれたら大変と、子供たちにもこの親子に近づかないよう命じ、自分たちも係わり合いにならないようにしていたが、好奇の視線だけはどうにも抑えきれないようだった。

 太一には親が無かったし、そもそも「お家騒動」なるものがどういうものなのかも知らなかったから、村人たちのようにそれを懼れる必要も無かった。

 村中が腫れ物に触るようにしてこの親子と付き合っている中、太一だけがこの親子と係わるようになっていた。

 太一は山でとれたアケビや野イチゴを綾乃に分けてやったりし、時には一緒に山に連れていったりした。太一は綾乃のただ一人の遊び相手になった。

 綾乃達親子を預かっている神官の老人はそれが気に入らないらしく、事あるごとに

「綾乃様は、お前のようなどこの馬の骨ともつかぬろくで無しは違う。身分違いをわきまえよ」

と言って、太一を追い散らしていた。そのたびに、綾乃は寂しそうな表情を浮かべて神官に手を引かれて屋敷に連れ戻される。

 だから、近頃では、綾乃は神官の目を盗んで屋敷を抜け出し、この森で太一と遊ぶ事が多くなっていた。太一が、綾乃の母親の方をみかけたことはほとんど無かった。

 野イチゴをたいらげた太一と綾乃が森を出て、社殿の下にある神官の屋敷に帰ってみると、様子がいつもと一変していた。

 見たことも無いような立派な馬が何頭も、神社の前にある屋敷の前に繋がれ、旅姿の若い侍たちが数人、その周りを固めている。村人達は、それをさらに遠巻きにして見守っていた。

「どうした? 」

 太一もその輪に加わると、村人の一人の肩を叩いて、尋ねた。

「綾乃の親父さまが、綾乃をむかえに来させたそうだ」

 冴えない表情の青年は、そう答えてから、相手が当の綾乃と太一であることに気づいて、気まずそうに頭を掻いた。

「何だって? 」

 思わず袖を捕まえた太一に、仕方なく青年が答える。

「なんでも都の公卿さんだってよ……あ、おい! 」

 とっさに太一は、綾乃の手を引いてその場から逃げ出そうとしていた。嫌な、予感がした。綾乃がどこか、手の届かないところに行ってしまうような。

 だが、そのときには、もう、遅かった。

 太一と綾乃の前には、数人の屈強な若い侍が立ちふさがっていた。思わず屋敷の方に後じさりすると、そちらには正装をした神官が待ちうけていて、さがることもできない。

 神官はずかずかと二人に歩み寄ると、肩膝をついて綾乃の前に頭を垂れた。

「姫様。お父上のお迎えが参りました」

 びく、と体を震わせて、綾乃が太一の影に隠れる。太一は、勇気を奮い起こして神官の前に立ちふさがった。

「ほお、刃向かうのか」

 神官は、片頬を吊り上げて、歪んだ笑いを浮かべた。その一瞬後、激しい怒りをあらわにして、太一を殴り飛ばす。

「この下賎の者めが、姫様をたぶらかすとはもってのほかじゃ! 」

 殴り飛ばされた小さな太一の体は、地面に叩き付けられた。火がついたように泣き出した綾乃が、神官に抱え上げられるのが見えた。太一はたちあがって綾乃に駆け寄ろうとしたが、若侍の一人にまるでずた袋のように吊り上げられて叶わなかった。

「この下賎めが」

 若侍は、太一を再び地面に叩きつけた。

 あとの事は、太一は良く覚えていない。顔の形がすっかり変わるほど殴られ、何人もの若侍に足蹴にされた。体中があざだらけになり、目も開かず、足腰が立たなくなるほどまで嬲られた。

「身分をわきまえることだな」

 若侍たちは、にやにや笑いながらそう吐き捨てると、半死半生の太一を河原に放り出して、去っていった。

「やめて! 」

 どこか遠くで綾乃の泣き叫ぶ声が聞こえたような気がした。

「太一を殺さないで! 」

 だが、もう太一には立ち上がる力が残っていなかった。

 とばっちりを懼れる村人達は誰も太一に手をかそうとはしなかった。河原で死にかけている孤児よりは、自分の身が大事だった。太一は、それから一昼夜の間、河原に転がされたままになっていた。

 その間、太一の腫れあがって塞がった両目からは、とめどなく涙が溢れ出し、頬を伝って、河原の石の上に落ちていた。あばらの突き出した幼い体のどこからか、涙だけはつきることなく溢れていた。

(俺には、親が無い。兄弟も無い。自分がいつ生まれたのかも知らず、身分とやらのことも知らない)

 太一の喉はとっくに潤いを失ってくっついてしまっており、叫ぶこともままならない。声にこそ出さないが、心は叫んでいた。

(綾乃を連れに来たのは、さぞかし立派な身分の方なのだろう)

 ぎり、と、最後の力が、太一に拳を握らせた。

(身分が違う、たったそれだけのことで、綾乃は連れ去られ、俺は殺されなければならぬ! )

 ぅおお、という、低いうめきが、太一の喉から沸きあがった。

 心底口惜しかった。体は次第に生き物の暖かさを失い、木石のごときなにものかに変わり果てようとしていたが、その最後の炎が業火のように太一の身を焦がしていた。

 ぅおおおおおお……。

 太一の怒りの声は、誰にも聞きとがめられること無く河原の石に染み込み、末代までも届く恨みの塊を生み出そうとしていた。

 じゃり。

 その生まれかけの恨みの塊を踏みにじるようにして、少年の傍に歩み寄る者がいた。

 擦り切れかけた草履履きの足。細く、白い指。海老茶の着流しに袈裟、帯には錦の笛袋。丸編笠を深く被ったその姿は、虚無僧そのものだった。

「やれやれ、情けないことだ」

 虚無僧は、太一を抱きあげた。水辺に歩み寄って再び河原におろし、上半身を抱き起こす。そのまま口をあけさせると、虚無僧は腰の印籠から丸薬を取り出し、押し込んだ。川の水をすくい、太一の鼻をつまんで、ふさがりかけた喉の奥に丸薬を流し込む。

 太一は、激しく咳き込んだ。が、不思議に、その咳ごとに、力が体に戻ってくるようだった。

「身分とはなにか。人が人を見分けるための記号に過ぎぬ。小僧、たかがその記号のため、永の執心を残すところであったぞ」

「……さい」

 太一は、咳き込みながら何かを口走った。

「なんじゃ、小僧」

「うるさい、と言うた! 」

 太一は、信じられないほどの力で、虚無僧を押しのけた。片膝をついていた虚無僧は思わず尻餅をつかされる。

「口惜しくてならぬ! そのたかが記号に過ぎぬ身分とやらのおかげで、俺は殺されかけた! 」

 太一は、まだ止まらぬ涙を拭おうともせず、虚無僧の襟首に掴み掛かった。

「俺に身分さえあれば、綾乃は連れ去られずに済んだものを! 」

 太一は、握った拳で、虚無僧の薄い胸を何度も叩いた。すべての怒りを込めて、何度も。叩く拳の力の無さに、太一はさらに怒りを募らせた。

「済まなかった」

 虚無僧は、太一の頭を撫でた。さびしげな声だった。

「……この早良源内、百年生きても人の心はわからぬと見える」

 言いながら、虚無僧は編笠をとる。細面の、宮人めいた上品な顔立ち。だが、そのどこかに、ひどく疲れた様子がうかがわれる。

「詫びの印に、小僧」

 雅やかな虚無僧は、やさしく太一を抱きかかえながら言った。

「お前にくれてやろう……身分、というものをな。それが本当にお前の望みをかなえてくれるものかどうか、確かめてみるが良い」

 雅やかな虚無僧が少年に与えたのは、金襴で飾られた、一巻の古い系図だった。その系図は室町時代の守護の血をひく、綾部という名家のもので、見慣れない漉き方の上質な紙に流麗な筆致で書かれていた。何度か継がれたらしく途中で紙の色や筆致が変わっている個所があったが、それはこの系図が何代も伝承されてきた様子を物語っているようで、かえって風格を醸し出していた。系図に書かれたそれぞれの人物名の横には、細い筆でごく短い略伝が記されている。それによれば、綾部氏は小さいながら一城の主であったが、隣国に攻められ、国を捨てて浪人したという。

「お前に、新しい名をやろう」

 と言って、虚無僧は矢立を取り出すと、その最後に、

「太一郎」

 という名を書き加えた。

 見事な筆だった。

 新しい名ができたと共に、太一には親ができたことになる。父は綾部家六代綾部天五郎定親、母は作州浪人大西丹波の娘。双方とも若くして夭折し、太一郎は乳母に育てられたが、その乳母とも死別した、という筋書きを、虚無僧は太一に吹き込んだ。

 そして最後に、

「京の都でこの頃評判の歌学宗匠・春花堂をたずね、一言一句誤らずこの筋書きを述べよ。そうすれば高い身分というものを得る第一歩となろう」

と告げると、風に追われるようにして太一の前から立ち去っていった。

 時は既に夕刻となっていた。

 生まれてこの方文字など学んだこともない太一には、この系図の内容などわかるはずも無かったが、それが自分にもたらしてくれるものの匂いは、敏感に嗅ぎ分けていた。長く平和な日々の続いているこの頃、自分の才覚で高い身分に這い登ることなど夢にもならぬが、名家の血を引くものということになれば、わずかに門戸が開かれる機会はあろう。そうすれば、あるいは綾乃を取り戻すこともできるかもしれない……。

 太一は必死の思いで、虚無僧の語る「太一郎の来し方」を頭に叩き込むと、系図をおしいただくようにして懐に収めた。

   太一郎ノ章

 古びた床の間のある書院に、太一郎になりすました太一は、ひとり平伏していた。

 六畳ほどの、作りの良い書院。床の間には墨蹟。平伏する太一郎の前には、いかつい顔立ちの、袴姿の壮年の男が着座して、件の系図をじっと眺めている。髪は薄くなっているが黒々としており、男の精力が衰えていないことを示していた。それは、若侍に受けた傷と、京までの長い道のりとのために疲れ果てた、小児の太一郎とは対照的だった。

 この男の名は、五条家歌学の地下の宗匠(公家出身でない、公家の和歌の師匠)、春花堂五代・宇佐美守行。都の公卿たちの間を巧みに立ち振る舞い、本職の歌道以上に計略家として名高い男である。

 都の人々の口の端には、ろくな歌も詠めぬのに歌学宗匠として横暴をはたらく春花堂の悪口がよく登っていたから、太一郎もその名は知っていた。歌学上の好敵手に罪を着せて流罪にしただの、武家にも通じていて公卿たちからも懼れられているだのという噂は数知れず、そのうちのいくつかは本当らしかった。春花堂の初代は、主君の滅亡以後歌学の道に入ったが、もともとは勇猛をもって知られた武士、四代目の春花堂も乱暴者で、意に添わぬ茶坊主を闇討ちにしたことさえあるという。

 だから、はじめ岡崎の春花堂の前にたった時、太一郎は少し足が震えた。もしあの虚無僧の言っていることがすべて口からでまかせであったならば、春花堂は自分をどうするのだろうか、と。

 だが、ここで引き返したところで、遅かれ早かれのたれ死ぬ身である。もはや滝内村には帰れない。京を目指して、傷ついた体を一月あまりも引きずって歩いてきたのだ。立っているのも精一杯というほど、太一郎は疲れ果てていた。第一、それでは綾乃にもう一度会うわずかな望みも絶たれてしまう。

 太一郎は覚悟を決めて春花堂の門を叩き、虚無僧に教えられたとおりに口上を述べると、春花堂に系図を差し出し、運を天に任せてその場に平伏した。

 春花堂は口上を聞いている間は疑わたしげに鋭い目を細めただけだったが、系図を開いてみるなり、「うっ」とうめいて、それに見入ってしまった。 

 そのままの姿で、もう、半刻ほども時間が過ぎようとしていた。太一郎にとっては、日が暮れるほどの長さに感じられた。痩せて骨ばかりになった足が、慣れない正座のためにきしみ始めていたし、嘘がばれるのではないかと気が気ではなかった。

 やがて春花堂は、静かに系図を傍らに下ろすと、天井を見上げてながながと嘆息した。

 太一郎は、おそるおそる顔を上げた。そして、春花堂が流れる涙を拭おうともせずに腕組みしているのを見て、飛びあがりそうになった。

「小僧、……いやさ太一郎殿! 」

「ひ……」

 春花堂は座布団を放り出すと、その場にがば、と平伏した。太一郎はそれに驚いて、思わず尻餅をつき、そのまま背後の障子のところまで後じさる。逃げ出さなかったのは上首尾だったが、ただ腰が抜けただけのことである。

 春花堂は、涙声で太一郎に告げた。

「面をお上げくだされ! 貴方様こそは、我ら春花堂が五代かけて捜し求めてまいった、綾部の御正嫡に間違い御座らぬ! 」

 太一郎は、口をぽかんと空けたまま、春花堂の姿を呆然と見ていた。

「この系図に書きこまれたわが初代宇佐美守春の筆こそ、その証左! このような下賎の姿に身をやつされていようとは! 」

 春花堂は感動に打ち震えた様子で家人を大声で呼ぶと、医者を呼び、湯と衣服を用意させた。太一郎が腹が減っていると告げると、早速に食べきれぬほどの料理を取り寄せさせもした。太一郎は生まれて始めて身体を湯で拭ってもらい、傷の治療を受け、破れのない着物を着、膳に載った飯を食うことができた。

 春花堂はその間ずっと太一郎に付き添っていた。

「もう大丈夫、なんの心配も御座らぬ」

 何度もそう繰り返しながら、春花堂は綾部家との因縁について、太一郎に語って聞かせたのだった。

「敵国に攻められていよいよ落城というとき、わが主、綾部義親公は、最後まで供をすることを望んでいたわが祖・宇佐美守春に、再興を期して逃れるよう命じられた。ご自分もまた後に続くといいながら、わが祖の逃亡を助けるため、義親公は単身敵陣に斬り込んでいって討ち死にされたのです。最後まで城に残っていた正室とお子様方は、落城のどさくさで生死不明となられました」

 このお方が義親様です、と、系図のある部分を指し示しながら、春花堂は言った。

「都に落ち延びたわが祖・守春は、主君の遺命に従い、綾部家を再興すべく、ながきにわたって縁者を捜し求めたが得られず、この上はほかに主君を持つべからずとして、歌学の宗匠として身を立てることとしたのです」

 春花堂は、先ほどよりも少し上の方に書かれた名前を指差し、その脇の略伝の文字を書いたのが守春であると、太一に教えた。春花堂に残された守春の筆跡と全く同じであるという。

「だがそれは表向きのこと」

 湯上りの太一郎の体を拭き取ってやりながら、春花堂は言った。

「まことの初代様の心は、たとえ何代かかろうともお家を再興せよ、怠ることなく備えよとのことでした。謀略家、歌の詠めぬ歌学宗匠と悪口を叩かれながら、綾部家再興のために公卿様とも内裏様ともお付き合いし、そのときに備えておったのです。五代二百年の悲願、貴方様を待ちわびておりました。今ここにこうして、のうのうと暮らして居れるのも、貴方様のご先祖・義親公のおかげなのですから」

 春花堂はまさに感極まった様子だった。

 そんな春花堂と、見たこともない豪勢な食膳を前にして、太一郎の心は妙に静まり返っていた。

 太一郎は、系図のご利益に感謝するというよりは、あまりの簡単さに吐き気さえ覚えていた。綾乃を奪い、自分を殺そうとしていた「身分」というものが、今度はなんの苦労も無く、自分の望むものを運んできてくれる。

 五代・二百年にもわたる春花堂の宿願を嘘で踏みにじる痛みもわずかにはあったが、それ以上に、「身分」に縛られた人間の無力さの方が心にしみた。たった一枚の紙切れで誤魔化せるようなものに、人はなんと振りまわされていることか、と思った。

 だがともかくも、その晩から太一郎は春花堂の食客となり、主君として下にも置かれぬ暮らしを始めることとなった。

 春花堂は、心から、すべての力を傾けて太一郎に尽くしているようだった。春花堂は太一郎に文字を教え、歌を教えた。春花堂が知らぬ漢籍などは、わざわざ儒者を頼んで教えさせたりもした。最も良いものを食わせ、最も良い服を着せた。

 太一郎もまた、春花堂に対して嘘をついている後ろめたさもあって、懸命に勉強し、せめて春花堂の期待を裏切らぬように努めた。いつのまにか太一郎は、綾乃のことも、自分が偽者であることも、ほとんど忘れ去っていた。

 春花堂が尽くした甲斐があったのか、その罪の意識に後押しされたのか、十年も経つ頃には、太一郎は見違えるような若侍に生まれ変わっていた。春花堂は期が熟したと考え、太一郎を元服させ、「正親」と名づけた。めくるめく毎日の中での、やや遅い元服だった。

    正親ノ章

 元服したその晩の真夜中、太一郎……正親は、ふと妙な気配を感じて目を覚ました。眠い目を擦ろうとするが、体が石にでもなったようで、身動きができず、声も出すことができなかった。

 わずかに動かせる眼球をぐるりと巡らせた正親は、障子の月明かりの中に立つ影に気づいて、思わず身をこわ張らせた。編笠に袈裟懸けの虚無僧姿の影。それは間違い無く、十年前に自分に系図を渡した男だった。顔など見なくとも、正親にはすぐにそれと分かった。最近では、すっかり忘れていたというのに。

「久しぶりだな、太一郎……いや、今は元服して正親というのだったな」

 あの時そのままの声で、男が言った。

「どうだ、身分とやらに囲われた暮らしは」

 虚無僧の、ため息混じりの問いだった。正親は、心底恐ろしくて震え上がった。

「何の用だ」

 震える声で、正親は問うた。虚無僧に懼れたのでは無い。この虚無僧が誰かに見咎められて系図の嘘がばれ、今まで得てきたものを失うことを懼れて、である。自分にあの系図をくれた男。系図の秘密を知るただ一人の男。今更何の用だろうか。まさか、やはりあの系図を返せとでも言うのか。

「案ずるな、様子を見にきただけだ」

 十年前と寸分変わらぬ声で、虚無僧が答えた。そして、再び正親に問い返す。

「それなりの身分のある暮らしはどうか、と尋ねておるのだ」

 正親は、一瞬口ごもった。虚無僧の問いの意図が分からなかったからだ。正親は、少し、考えた。考えているうちに、初めに感じた恐れや動悸がおさまって、静かに答えられるようになった。

「夢の、ようだ」

 噛み締めるように言葉を切りながら、正親は答えた。文字通りの意味の答えだった。まるでなにもかもが嘘のようにさえ思える。河原の死骸になりかけていた太一と、立派な若侍・綾部正親との間には、どれほど深い溝があることか。

 だが、その天国と地獄のあいだにはうすっぺらな偽物の系図がはさまっているきりだった。そう思うと、正親はぞっとした。虚無僧は、そんな正親の心を知ってか知らずか、低く含むように笑いながら、言った。

「これから、もっと夢のようになる」

 ひどく虚しい感じの笑いだった。

「そのまま系図上の人物を演じつづけるならば、な。どうだ太一、やってみるか」

「……」

 少し、正親は迷った。しかしそれは、ほんの少しだった。なぜなら、虚無僧が、忘れていた「太一の望み」を、思い起こさせたからだった。

「いずれあの小娘……綾乃、とか言ったな……を手に入れることもできよう」

 そう、虚無僧は言った。その言葉を耳にした正親は、小さく、しかし、力強く頷いた。

 綾部正親になりすまし、人並み以上の身分になってはいたが、太一は満たされていなかったのだ。それは、あのときの綾乃の「やめて」という声が、はっきりと耳に残っていたからだ。

 虚無僧は小さく頷くと、さらに正親に問う。

「だが、そのかわりお前は本当に太一ではなくなり、系図に書かれた身分の人間そのものになる……つまり主人は系図で、お前はその下僕となるのだ。それでも良いか」

「か……」

 正親は、一瞬、口ごもった。が、その次の瞬間には、自分にも想像も出来ないほどの、激しい怒りが込み上げてきた。

「かまわぬ! 」

 気が付くと、怒りに震えながら、怒鳴り声をあげていた。正親は、幼い日の出来事を思い出していた。綾乃を連れ去られ、袋叩きにされて捨てられたあの日のことを。

「無力な太一のまま死んで行く運命ならば、紙切れ一枚に賭けてみるほうがましだ」

「そうか」

 虚無僧の影が、ゆらいだ。

「ではこの書を与えよう」

 わずかに障子を開くと、虚無僧は二冊の本を差し入れた。

 大きな古びたものが一冊。こちらには、『綾部実記』という題せんが貼られている。もう一冊、「実親卿秘記」と題せんが貼られている方は、真新しい茶色の丁寧な装丁だった。

 正親は、恐る恐る手を伸ばした。

「古い方の書には、綾部一族の「来し方」総てが書かれておる……新しい方には、その「行く末」が書かれている」

「行く末? 」

 正親は、虚無僧の言っている意味が分からず、問い返した。だが、虚無僧はそれには答えず、

「そこに、おまえの行く末も書かれておる」

と告げて、姿を消した。

 正親はまもなく、前後不覚に眠り込んだ。

 翌朝目を覚ました正親は、一瞬昨夜の出来事が夢であったかと疑った。が、枕元に、昨夜手渡された二冊の書籍が置かれているのを見て、ふたたびふるえあがった。

 正親は、虚無僧から手渡された書を、古いほうから読み始めたが、半分ほど読み進めたところでほうり出さざるを得なくなった。それは綾部家の歴史についての書であったが、どうにも真面目に読む気になれなかったのだ。

 それはまた、春花堂の勧めで出仕した、公卿・五条家の家士としての仕事が忙しくなってきたためでもあった。五条家は、藤原家の流れで、公卿としてはそれこそ名門中の名門の一つである。現在では同門の二条家とならび、故実家として知られている。春花堂自身が歌学宗匠として勤めているためもあったが、綾部家再興の第一歩として十分なものであると春花堂も考えたのであろう。

 また、春花堂はこうも言った。

「確たる証拠はござらぬが、綾部のお家は五条家の末流を受け継いでおると聞いております。あるいは、五条の家におられる間にその証拠を見付けられるかと存じます」

 そうすれば、さらに再興の道は開かれる……そのように、春花堂は考えていたようだった。正親からすれば、しかし、それどころではなかった。

 不慣れな勤めに四苦八苦するばかりで、十年ばかりたってしまった。

 しかし、戻るところのない正親の懸命の仕事ぶりは、やがて五条家の当主・実美の目にとまった。そのうちに正親は、譜代の家令をさしおいて家内の切り盛りを任されるまでになった。正親は既に、二十歳を五つも過ぎる年になろうとしていた。

 五条実美には一人娘のほかは子もなく、高位の公家の割には人の出入りも少なかったため、実美の身の回りの世話や趣味の相手をすることが、正親の主な仕事だった。少し余裕の出てきた正親は、ついぞつけたことのない日記をつけ始めると供に、五条家の書庫に入り、古典や各種の書籍を読み漁るようになっていた。それはしかし、実美の相手をするに足る教養を身につけたい、という程度のつもりではじめたものだった。

 そうするうちに、正親は、ふとあの虚無僧に渡された二冊の書のことを思い出し、ついぞ空けたことの無い若いころの文箱をひらいてみることになった。もしかして記憶違いかと思っていたが、その書は間違い無く実在していて、十年前より少しくたびれた状態で文箱の中に横たわっていた。

 文箱を空けるなり、正親は驚愕した。二冊のうちの一方……それは『綾部実記』と題せんの貼られた、古い方……を、つい最近、別の場所で見かけた覚えがあったからだ。

 別の場所……それは、五条家の書庫である。

 そっくりの装丁にそっくりの文字で書かれた、その名も『綾部実記・天』という書を、正親はそこで目にしていた。主人である実美卿がいうには、ずっと以前から伝来しているが、対になるべき『地』の巻は失われているのだという。

「われら五条家の流れに最も近い一族に関する書だ」

 既に高齢に達している実美は、正親にそう語った。

「今京におるどの公卿よりも、五条家を継ぐにふさわたしい血筋のはずだ。知っての通りわたしには跡取りが居らず、ほかの高位の家は、やや五条家からは縁遠い。わたしの代で五条家を絶やすわけにはいかぬから、いずれ養子を迎えねばならん。わたし自身は、せめて綾部の血族を養子に迎えることを希望だが、今となっては幻だな」

 柄にも無く、実美はしんみりと語った。公卿にしては豪放でなる五条実美も、高齢には勝てないと見える。正親もなんとなく沈みこんだ。実美はそれを見て、

「そういえば正親も綾部という姓であったな。五条家の流れではあるまいが。……残念じゃ、おぬしが嫡男ならば、わたしも安心して旅立てるものを」

 などと言い、わざと豪放に笑って見せたものだった。

 五条家の『綾部実記』と、虚無僧から渡された正親の本はほとんど同じだったが、たったひとつ違っているのは「厚さ」で、正親の所持する本の方がずっと分厚い。

 正親が自分の所持する本を開いてみて、その理由は明白になった。

 正親の『綾部実記』には、「天」だけでなく「地」の巻が含まれていたのである。しかも、その「地」の巻の内容は、正親の「綾部家」こそが、まさに五条実美の望む「綾部家」であり、綾部正親こそがその正嫡であることを示すものだったのである。

 正親は、まざまざと元服した夜の出来事を思い出し、思わず冊子を取り落とした。

「これから、もっと夢のようになる」

 あの虚無僧は、確かにそう言った。

 正親の背中を、滝のように冷や汗が流れ落ちた。心臓が、大きな音を立てていた。あの系図も偽物ならば、それと対になっているこの冊子もまた真っ赤な偽物である。よしんばこの書が本物であり、あの系図も本物であったとしても、自分は滝内村の孤児・太一であって、綾部家とは縁もゆかりもない。

 だが……。 

「そのまま系図上の人物を演じつづけるならば」

 虚無僧の声が、はっきりと思い起こされた。

「いずれ綾乃を取り戻すこともできよう」

 正親の胸のはるか奥に、ずっと忘れていた綾乃の声が響き、太一の無念が蘇ってきた。

(やめて! 太一を殺さないで! )……。

 正親は、主・五条実美に、虚無僧から与えられた『綾部実記』を献上する事を決心した。毒を食らわば皿まで、という気持ちと、実美が喜ぶのではないかという期待が入り混じっていた。

 たとえ本物の綾部の嫡子でなくとも、戯れとはいえ実美は「おぬしが嫡男ならば」と言ってくれたではないか……自分に目をかけてくれた実美をたばかる良心の呵責に自分でそう言い訳しながら、正親は実美に話を切り出した。

    実親ノ章

 今度も、虚無僧の系図と『綾部実記』は、恐ろしいほどの威力を発揮した。

「今までお話ししておりませんでしたが、実は我が家にこのようなものが伝わっております。気づいておりながらお伝えしなかった事、お許しください」

 そういって差し出された『綾部実記』天・地と系図を目の当たりにして、実美ははじめ卒倒するほど驚いた。その驚きぶりは、出入りの医者を呼び寄せなければならないほどのものだった。

 医者に用意された気付の薬湯を飲み、一息つくと、実美の心には今度は疑惑の念が沸いたらしい。正親に屋敷から出ぬよう命じると、その頃京で評判の和学者であった鈴鹿某と、正親を推挙した本人である春花堂宇佐美守行の二人を呼び寄せ、正親の差し出した系図と『綾部実記』とを鑑定させた。春花堂ははじめ、『綾部実記』の存在を正親から聞かされていなかったことに驚いていたが、綾部家再興どころか本家・五条家への復帰を妨げることなど告げるはずも無く、双方とも正真正銘の本物である、と答えた。神官でもある鈴鹿某も、多少の疑問は抱きながらも、偽物であるとは考えにくい、と答えざるを得ないようだった。

「このような書が世に知られず伝わってきたことは不審ですが、」

 鈴鹿某は、実美に『綾部実記』を手渡しながら、言った。

「これほどのものを偽造できる職人は、もはやこの世におりませぬ」

「……というと、かつては居ったということか」

 尋ね返す実美に、鈴鹿某は小さく頷き、

「近江坂本の産で早良源内という者がおりましたが、百年も前に没しております……今更その者の作が顕れる事もありますまい」

 鈴鹿某は恭しく頭を下げて帰っていったので、いよいよ正親の系図と『綾部実記』は本物ということに極まった。ここではじめて、実美は正親を自分の前に呼びだした。

 平伏している正親に、実美は涙ながらに自分の娘を娶るよう頼み、白髪ばかりになった頭を下げた。

「かなりの年増で、申し訳が無い」

 実美は、正親の手を取って、言った。

「妾腹の子でな。ちいさい頃母方に返しておったためか、わたしを恨んでおる。ふつつかものだが、よろしく頼む。綾部の正嫡が養子となれば、しかもそれが正親どのとなれば、わが家も安泰じゃ」

 正親は、またもや「系図」の威力と、「身分」というものの危うさを思い知ることになった。実美は直に祝言の日取りを決め、正親に自分の名を一字与えて実親さねちかと改名させた。正親は、はじめて春花堂を訪れたときのことを思い出していた。あのときも、まるで何かに操られているかのように話しがとんとん拍子に進み、あまりの順調さに驚くとともに、何故か虚しさを覚えたものだった。

 だが、真の驚きは、そのあとに待ち構えていた。

 実美の娘に引き合わされた実親は、その驚きのあまり、思わず絶句し、立ち尽くした。

 高貴な顔立ち。白い肌に、漆黒の髪。切れ長の瞳には、深い悲しみの色がたたえられている。

「あ……」

 綾乃。

 そう言いかけて、実親は口をつぐんだ。

 二十年ぶりに会う綾乃は、美しく高貴な姫に成長していたが、実親には一目でそれとわかった。忘れようもない、あの日連れ去られた少女の面影が残っていた。

 してみると、あの日綾乃を連れ去り、自分を殺そうとしたのは、今感涙にむせいでいる老主人、実美だったというのか。一瞬、実親は燃えるような怒りを覚えたが、それをなんとか飲みこんだ。

 続いて、綾乃に対する懐かしさが嵐のように押し寄せてきたが、それも、実親は押し隠した。すぐにでも綾乃の手をとって自分が滝内村の太一であることを教えてやりたかったが、それは出来ない相談だった。今の自分は綾部家の血を引く五条家の跡取・五条実親であって、孤児の太一ではない。実親は、太一であることをやめたのだから。それを明かすことは、身の破滅、幼い日への逆戻りを意味していた。

 ともかくも、綾乃の婿におさまってしまえば、いずれ真実を明かす日も来るだろう。実親は、そう自分に言い聞かせて、綾乃との祝言に臨んだ。真実は、自分の日記にだけ、書き留めておいた。

 そのわずか後、娘と家の行く末を見届けて安心したかのように、急に実美が亡くなった。眠るような大往生だった。だが、綾乃は涙ひとつ、流さなかった。

 実親は無事実美の跡を継ぎ、五条家の当主となった。谷あいの小さな村の孤児が、紙切れの威力だけで、高位の貴族にまでのぼりつめてしまったことになる。

 だが、実親は、そのことには全く喜びを感じなかった。綾乃に真実を話すことが、想像以上に難しいことを知ったからである。

 綾乃は実親とは一言も会話を交わそうとせず、閉めきった自分の部屋に閉じこもるばかりだったからだ。これでは、夫婦になったところで話すことすらままならず、二十年もかけて高い身分の人間になりすました甲斐が無かった。

(そもそも、俺は綾乃にもう一度会うために、嘘の系図を手に入れたのだ)

 実親は、決して開かれる事のない綾乃の部屋の、障子を隔てた縁側で月を見上げながら、ぼんやりと考えていた。季節は、もう秋にさしかかろうとしていた。半月が、蒼く、輝いていた。実親はため息をつくとその隣の部屋に入り、しばらくは書物をしていたが、やがてそのまま眠り込んでしまった。

 実親が目を覚ましたのは、明け方にさしかかろうかという時刻だった。肌寒さのために震えながら、実親は伸びをした。夫婦の部屋には、下働きの者は入らぬように命じてあったから、一人床の上に転がっていたことになる。実親は、縁側に出て、ふと、綾乃の部屋を見た。

 どういうわけか、こんな時間だというのに明かりが灯っている。

 障子には、人影……それも、二つの。

 低い、しかし楽しげな綾乃の笑い声が、耳に響いた。幼い日にはよく聞いたが、夫婦になってからはついぞ聞いたことのない声。

 間男か。

 実親は、かっとなった。どす黒い怒りが体を貫き、思わず叫び声をあげそうになる。

 自分は、綾乃と口を利くことさえ出来ないというのに。それは、あるいは幼い日の太一の事を思いつづけているためかと、自分では勝手に得心していたのだが、よもや間男がいたためだとは。

 実親はすぐにでも綾乃の部屋に飛び込もうとする気持ちを沈め、屋敷に詰めている夜番の侍二人を招き寄せた。屈強な若侍は、実親が跡目を継いで後、荒っぽいことにも通じている春花堂の肝いりでこれまでの家僕にかえて五条家に入れた者である。いずれも、若い割には修羅場をくぐってきた者だと、春花堂は言っていた。

 実親は、自分でも護身用の太刀をとり、綾乃の部屋にとってかえした。

 中には、まだ、二人の影があった。侍たちに目配せをすると、実親は障子に手をかけた。

「そこになおれ、この不埒者めが! 」

 両手で障子を押し開け、太刀を抜く。月光に太刀が煌いた。

 その煌きの中に、綾乃の紅い夜着と、襤褸のような野良着の若者の影が浮かんだ。

 みすぼらしい若者だった。髪はぼさぼさに伸びたものを縄で縛ったきり。肌は日焼けと小さな労働の傷で馬の皮のように赤い。まるで孤児の太一がそのまま育ったような姿だった。すかさず、二人の若侍が部屋に飛び込むと、そのみすぼらしい若者を取り押さえようとする。だが、綾乃が若者を庇うように両手を大きく広げて立ち塞がったため、二人の侍は躊躇した。

 実親は、その綾乃の態度にますます激怒した。

「何をしている」

 実親は、自分でも驚くほど冷たい口調で、侍たちに命じた。

「綾乃を気にする事はない、不埒者を取り押さえよ! 」

 ははっ、と小さく頷いて、二人の侍は部屋に駆け込んだ。

 一人が、

「御免」

 と短く口にして頭を下げると、綾乃の袖をとらえて畳に押さえつける。その間に、もう一人が、野良着の若者を引き倒し、部屋から引きずり出した。それを見て、実親の顔に、我知らず微笑が浮かぶ。残酷な笑みだった。

 実親は二人の侍に命じて若者を縁側から庭にひきずりださせる。男は抵抗らしい抵抗もせず、為すがままに地面に押し付けられ、首を突き出させられる。

「知っての通り、不義密通は女の大罪。綾乃の命を救うには、この密通、誰にも知らせるわけにはゆかぬ」

 実親は、太刀を構え、野良着の男の首に狙いを定めた。

「そのためには、まずそなたに死んで貰わねばならぬ。愛しい綾乃のためじゃ、喜んで命を差し出すであろうな? 」

 舌なめずりをするような口調だった。実親の心の中には、怒り以外のものは何も無かった。二十年、二十年もかけて捜し求めてきた綾乃に拒否された上、このようなみすぼらしい男に奪われたことが、許せなかった。

(この下賎の者が、穢れた手でわたしの綾乃を抱いておったのだ! )

 そう思うと、体中が炎に焼かれるようだった。実親は、にやにやとした笑いを浮かべたまま、刀を振りあげた。剣術の心得はないが、今なら一太刀でこの男の首を刎ねられるような気がした。

「せめて苦しまぬように一太刀で片づけてやろう。恨むなら身分違いの横恋慕をした自分自身の愚かさを恨むが良い」

 言いながら、太刀を振り下ろそうと、実親は息を吸い込んだ。

 そのとき。

「やめて! 」

 綾乃の声が、響いた。祝言を挙げて以来はじめて聞く、綾乃の声だった。実親は、思わず綾乃の顔を見た。まともに目があった。綾乃の黒い瞳は、怒りに燃えていた。いつかどこかで見たような瞳だった。

「やめて(傍点)」

 綾乃はもう一度、強く言った。

「太一を、殺さないで! (傍点)」

「な……! 」

 実親は、驚愕のあまり、思わず太刀を止めた。その声は、実親の心に突き刺さった。

 その声こそが、二十年の間、実親を突き動かしてきた、あの日の綾乃の声だった。

「馬鹿な! 」

 実親は、そう叫ぼうとした。だが、金縛りにあったように、声も出なければ身動きもできない。

 まるで時間が止まったようだった。男も、侍たちも、ぴくりとも動かない。

 綾乃の瞳の怒りの炎だけが、ゆらゆらと揺れていた。

 その炎に焼かれるように、実親は心の中で叫んだ。

(このわたしが……俺が太一なのだぞ、綾乃! )

 そのとたんに、屋敷の中から、聞き覚えのある声がした。

「おっと、その一言は、言わぬが良いぞ」

 実親はしかし、視線を上げることも出来ない。声の主は畳の上を摺り足で歩きながら、綾乃の背後に歩み寄り、自分から太一の視界に入ってきた。動かない太一の瞳に、さらに驚きの色が広がる。

 そこには、あの虚無僧が立っていた。

「久しぶりだな、正親……いや、今は五条参議実親殿とお呼びするべきだったか」

 言いながら、源内は若者の頭に手をかけた。ぐい、と上を向かせ、実親に促す。

「この男の顔を、よくよく見よ」

(……? )

 首の動かせない実親は、瞳を巡らせて、ようやくその男の顔を見ることが出来た。

 不精髯が伸び、髪も伸び放題。痩せこけて頬骨が出ているが、その顔には見覚えがあった。一瞬後、実親……太一は、再び声にならない長い悲鳴を上げていた。

 それは、鏡の中で見なれた、自分自身(傍点)の顔だった。

 虚無僧は男の頭を放した。再び、男の顔は伏せられる。だが、太一はそこから視線を外すことが出来なくなっていた。

 虚無僧は笠を被っておらず、素顔を晒していた。

 はじめてあったときと寸分変わらぬ、雅やかな容姿。綾乃も太一も、二十年分の時の重さを顔に刻んでいるというのに、一人だけそれとは無関係に生きているようにさえ思える。

「わたしの言ったとおりになったであろう……綾乃は、無事手に入ったではないか」

(ちがう、断じてちがう! )

 実親は、虚無僧に叫ぼうとした。

(俺の望んだのは、こんな事ではない! ! )

「お前に身分というものをくれてやったとき、最初に言った言葉を覚えているか」

 虚無僧は、またあの疲れたような表情を浮かべて、言った。

「わたしは、お前があの時望んでいた身分というものが、本当にお前の望みをかなえてくれるものかどうか確かめてみるが良い、と言ったはずだ。それが結局、お前の望みを叶えてくれるものではなかったということだ」

(それもこれも綾乃にもう一度会うためだった)

 実親は、虚無僧に怒りの矛先を向けた。

(だが、実際はどうだ! 確かに俺は綾乃の夫という地位は手に入れたが、綾乃の心はこのみすぼらしい男の方を向いたままではないか! )

「自分自身にむかってみすぼらしい、とは良く言った」

(黙れ! 俺はこんな下賎の者とは違う! )

 我知らず、実親はそう、心中で叫んだ。その口調は、幼い日に太一を追い散らした神官そっくりだった。

「身分とはなにか」

 虚無僧は、ため息混じりに言った。

「人が人を見分けるための記号に過ぎぬ。だがお前はその記号の上で高位の身分にたどりつき、その力で綾乃を手に入れることを望んだ」

(……)

「お前自身、春花堂で元服したあの晩、そしてわたしの与えた『綾部実記』を五条実美に献上したとき、そうなることを望んだはずだ。それを嘘とは言わせぬ」

 実親は、虚無僧に斬りかかろうとしたが、無駄だった。全く体は動かない。

「無駄だ」

 虚無僧は、縁側に腰掛けたまま、動じる様子もない。

「そのことにも気付かないということは、もう一冊の書の方には目を通さなかったようだな」

(もう一冊……? )

「『実親卿秘記』、「行く末」の方さ」

 虚無僧は、軽く右手を上げた。まるで吸い寄せられるように、一冊の書物が宙を舞い、虚無僧の手に納まる。

(それは、俺の日記だ)

「そうさ」

 虚無僧は、ふふ、と笑った。

「だが、同時にわたしがくれてやった物でもある」

 言いながら、虚無僧は、今しがた手にしたのと寸分たがわぬ帳を懐から取り出した。太一は一瞬、呆然とした。それは、かつて虚無僧に渡され、長く古い文箱に放っておいた『実親卿秘記』だった。虚無僧は、無造作に実親の日記と『実親卿秘記』の両方を開き、昨日の日付のところを実親の方に見せつけた。

「見比べてみるが良いよ、わたしの渡したものと、お前自身の記した日記を……」

 実親は、愕然とした。

 『実親卿秘記』のその頁には、自分の昨日の日記と寸分たがわぬ文面が並んでいた。

 一瞬、実親は、虚無僧が自分の日記を盗み見て写したのかと早合点しそうになった。

 だが、墨の具合をみると、どういうわけか『実親卿秘記』の方が以前に書かれたように見える。実親は思わず双方を見比べ、そして、声にならない長い悲鳴をあげた。

 実親の日記は、帳面の半分ほどまで使われてはいたが、当然ながらまだ今日以降の事は書きこまれておらず、半分以上白紙が続いている。それに対して、『実親卿秘記』の残りの頁は、今日以降(傍点)の記事で既に埋めつくされていたのである。

「お前の人生は、わたしが百年も前に書いた日記のとおりに進んでおる……これまでも、これからも、な」

 驚きのあまり焦点の合わなくなった実親の目を覗き込むようにして、虚無僧は言った。

「わたしはあることを確かめたくて、そのようなことをしたのだ」

(あること? )

 実親は、呆然としたまま、虚無僧の言葉を反芻していた。

「聞くがよい、太一よ」

 虚無僧は、もう一度、小さくため息をついた。

「偽系図作り早良源内、一世一代の大仕事の事を」

    源内ノ章

「わたしは、近江の生まれでな本来の名は早良源内という。父は堅い一方の村役人、まあ並の百姓よりはましだが、それでも侍にこき使われる身に過ぎん。わたしは才気が走りすぎて、どうにも後を継ぐ気になれなかった。そこで、とりあえず都に出ればなんとかなるだろう、と思って村を出た。そこでふと、使う側に回ってみようと思ったのだな。

 その頃は、そう、三代将軍家光の時代だったが、世の中が平和になり、食い詰めた浪人たちが今以上に溢れておった。そいつらは、なんとか職にありつこうと、由緒を言い立て血筋を少しでも良くしようと、せっせと系図に手を入れていたものだよ。そもそもそのような情況だったのだから、わたしのような百姓の子供であっても、武士になりすますのはたやすいことだった。わたしは幸か不幸か書がうまく、幼いころから歴史を学んでいたうえ、手先が器用だった。わたしは系図を偽造すると、鎌倉時代から続く名家・佐々木家の末流、近江右衛門義綱と名乗って、飛鳥井家という名門の公家に取り入った。自分で言うのはおかしいが、わたしは有能な用人であったよ。まもなく当主雅章公の信任をうけ、何をするにも義綱、義綱であった。そこで悪心を起こさなければ、わたしはあるいはそのまま飛鳥井家の家職におさまっていたことであろう。わたしはしかし、わずかばかりの金を使い込んだために捕らえられ、その上偽系図の件まで露見してしまったので、もとの百姓の不良息子に逆戻りしてしまった。真面目一徹のわが父は、事の露見を恐れてわたしを座敷牢に置いたものよ。

 しかし、それが逆効果であった。暇を持て余したわたしは、さらに勉学を深め、研究を重ねて、誰にも見分けられぬほど精緻な偽系図を書くすべを身につけてしまった。最初に言ったように、その頃武家たちは職を得るために懸命に自分の血筋を高貴なものにみせかけようとしていたから、そのように便利な男を放っておくはずがない。どこからききつけたのか、わたしの元には、嘘八百の系図の依頼が山積みになってきた。わたしは座敷牢を脱けだして都に舞い戻り、それを商売にすることにした。いつの間にやら、わたしの周りには、怪しげな神官や僧侶、ご落胤を名乗る者たちが集まってきて、「偽ものだけの宮廷」のようになってしまった。世情にはわたしの作った偽系図が出まわり、しかも誰に気づかれることもなかった。

 その頃、わたしは「歴史」というものを嘗めてかかるようになっておった。所詮、わたしのちびた筆先の、適当な書き流しと見分けのつかぬようなものではないか、と。また、書かれたものが歴史であれば、いわゆる正史でさえ大差はない、と。少なくとも、血筋だの家の由緒だのにこだわる人間達にとっては、納得できる内容であれば、事の真偽など問題ではない、と。

 そう考えたわたしは、その頃の歴史の総本山に殴り込みをかけてみることにした。

 言わずと知れた、水戸の徳川家だ。ここは、黄門光圀以来、国史の書を営々と編纂し続けている家だった。わたしは江戸の下屋敷を訪ね、自信作の偽系図を献上した。もちろん、佐々木家の末流に自分が連なる事を示すものだ。「正しい歴史」の番人たる水戸徳川のお墨付きによって、わたしの偽系図は偽系図ではなくなり、正しい歴史の中に永久に生き続けることになる……。

 だが、この時ばかりは、わたしの目論見は全く外れた。水戸家の力は、わたしの想像をはるかに超えており、方々調べてついに本物の佐々木の正嫡を見つけ出してしまった。わたしはすんでの所で逃げおおせたが、あやうく死罪になるところだった。

 この時、わたしは悟った。歴史を存分に作りかえるためには、系図だけでは不充分であると。わたしは都に舞い戻ると、今度は偽文書や偽書にまで手を伸ばした。水戸家がわたしの系図を見破ったのは、系図そのものを見破ったのではなく、周辺の史料からそれを暴いたに過ぎない。であれば、周辺の古文書や書籍、必要があれば遺跡までも完璧に作り上げるまでだ。

 わたしの目的は、もはや単に侍になって人を使う側に回ることではなかった。自分の思うさまに歴史を作り上げ、人々をその上で操ることにまで、わたしの目的は広がっていった。わたしは一心不乱に文書を作り、系図をでっちあげ、時には村の跡をまるごとひとつ作ったりした。片手間に作る偽系図が良い金になったから、金に不自由はしなかった。そして何年もの時間が過ぎた。

 いつものように系図を書いていたわたしは、ふと、妙なことに気づいた。わたしは、気づかぬ内に見知らぬ元号を系図に書きこんでいたのだ。しかも、まるで当然のように。貞享の末年の事だった。わたしは、七〇になっていた。惚けたのかと思い、系図を見返してみてわたしは驚いた。わたしは知らぬ間に「現在」を追い越し、未来の系図を書いておったのだ。わたしは呆然とした。しかし、もっと呆然としたのは、翌年元号が変わり、「元禄」となったことだ。それは、わたしが書いた「未来の歴史」と全く同じものだった。

 衝撃のあまりわたしは寝こんでしまい、そのまま、起きられなくなった。わたしは過去をでっちあげようとして人生のすべてを継ぎこんできたが、よもや未来までも書きかえることになっているのでは、と。だが、それを確かめるすべは無さそうだった。わたしは自分が刻々と死に近づいていくのを知っていた。

 だが、わたしはどうしても知りたかった。わたしの力が、どれほど本物の歴史に及んだかを。そこでわたしは、一つの賭けに出た。わたしはその頃盗み見た五条家本の『綾部実記』に、欠本となっていた「地の巻」を加えた。これは、実在する綾部という家に、私の作成した偽の綾部家の系図を接木するものだ。とうに絶えていた綾部家に、私の手によって後継者を作ってやったのだ。

 念の為、わたしは若いころからの悪仲間で、そのころはまんまと歌学の宗匠・春花堂の二代目になりすましていた宇佐美という男の、これまたわたしの作った偽の由来書にも手を加え、「地の巻」の内容を補強しておいた。今の春花堂には、二代目のときの嘘が、そのまま、しかも真実として伝えられているよ。

 そこまで完全に備えた上で、わたしは全くの未来記である『実親卿秘記』を死の直前まで書き綴り、腕の確かな表具師に委ねた。その『実親卿秘記』の中に、わたしは「早良源内の条」を書きこむことも、もちろん忘れなかった。淡々と綾部家の成立を記しただけのに『綾部実記』対して、貧しい村人に身をやつしていた綾部家の正嫡が、ありえないほどに数奇な運命をたどって最も高位の公卿となってゆくさまを書いた『実親卿秘記』は、仮名草子ほどに荒唐無稽であったが、わたしの力が本物ならば必ずや現実となるはずだった。

 わたしはその中に自分の存在を書きこむことで、この世に立ち戻ろうと企んだのだ。

 わたしの作り上げた虚偽の歴史が、本来の歴史にすりかわることができるのであれば、これから起きる出来事を、あらかじめすりかえて置くこともできるはずだと、わたしは考えたのだ。

「そしてわたしは、滝内村に立っている自分に気がついた。自分で書いたとおりの虚無僧姿だった」

 早良源内は、縁側から立ちあがった。月明かりの影になって、その表情は太一からは読み取れない。だが、読み取れたとしても、無意味だった。太一には、源内の話が理解できなかったからだ。いや、正確には、理解したくなかったのだろう。激しい眩暈がし、立っている地面や家屋敷までが、水にあたった水墨画のように溶けて無くなってしまいそうな錯覚に、太一はとらわれる。

 源内はお構いなしに、話を続けた。

「わたしは『実親卿秘記』に書いたとおりの綾部太一郎を探そうとしたのだが、たまたま死にかけているお前を見つけて、気が変わった。筆先三寸でいかようにも変わってしまう「身分」に深い執心を残そうとしていたお前を哀れんだのも確かだが、正直なところ、紙の上の創作物ではないお前を巻き込むことで、より成功に近づきたいと考えたのだ。はじめ、系図だけしか渡さなかったのは、この試みにわたし自身自信がなかったからだが、首尾良く太一郎になりすましてからはその心配もなくなった。わたしは、畢生の偽書をお前に委ねた」

 源内は、大きく息をついた。

「お前という実体を得たことで、『綾部実記』は、偽書ではなくなった。高名な考証学者に認められ、正当な歴史の中にまんまと紛れ込んだ。実在する五条実親は、『綾部実記』が偽書でないことの、なによりの証拠となった。しかもお前は、開いて見もしなかったというのに、未来記である『実親卿秘記』にわたしが記したままの人生を送り、荒唐無稽としか言いようのない出世をした……自分で書いておきながら言うのも妙だが、期待以上だった。だが、」

 源内は、地面に押しつけられたまま凍ったように動かない、みずぼらしい姿の若者に歩み寄った。

「どうやら、わたしは過去を作りかえることには完全に成功したが、未来のほうはそうはいかなかったらしい。そのために、同時に二人の太一が、並行して存在するようになってしまった。これは、滝内村の孤児としてその後も生き続け、ついに幼い日の望みを遂げた、本来の太一の姿だ……もし完全に成功していたら、お前以外に太一は存在しなかっただろう。反対に、完全に失敗していたなら、お前の方が存在していなかったはずだ。だが、完全に失敗するにはわたしは巧妙過ぎたし、完全に成功するには力不足だったようだ」

 源内の顔に、一瞬、狂気めいた歓喜の表情が浮かんだ。が、それはすぐ、あの疲れ果てたような表情にとってかわった。

「いずれにせよ、」

 源内は、庭ではいつくばっている方の太一の肩を、ぽん、と叩いた。

「「本来の太一」であるこの男がいる限り、お前はどこまで行っても、虚構の存在に過ぎないことになる」

 虚構、と名指しされて、太刀を構えたほうの太一は竦みあがった。あれほどしっかりと存在感を訴えていた太刀までもが、あやふやなもののように感じられる。みすぼらしい方の太一を押えつけている侍たちの姿までも、蜃気楼のように霞み始めていた。確かな存在は、押さえつけられている太一と綾乃のほかには、自分しかいなかった。

「さて、話はおわりだ……わたしは、仕上げをお前に任せることにするよ、太一」

 そう告げる源内もまた、その存在があやふやなものになり始めていた。

「わたしは、自分が歴史とやらをつくりかえたことを確かめられて満足だ。だが、お前は選ばねばならん。この男に綾乃を預け、現実の世界に二人で戻してやるか、それとも、この男の首を切り落とし、綾乃までも巻き込んで『実親卿秘記』を最後まで書き綴り、わたしの成功を完全なものにするのかをな」

(な……)

「何故だ? ! 」

 太一は、叫んだ。もう夜明けだというのに、あたりは漆黒の闇に包まれ、綾乃ともう一人の太一のほかは、家屋敷はおろか自分の立っている場所さえ何も見えない。虚無僧の姿は、完全に見えなくなっていた。

「何故俺が、選ばなければならない? ! 俺が何をした? ! 」

 太一の叫びは、虚空に吸い込まれていった。

「俺はただ、綾乃に会いたかっただけなんだ! ! そのために成功を望んだ、そのために嘘をつきもした! だが、こんな……こんな目に遇わされるいわれはないぞ! 」

「嘘」

 その太一の背中に、冷ややかな、女の声が突き刺さった。太一が振りかえると、そこには、綾乃の氷のような白い顔があった。

「あなたが望んだことよ……わたしは殺さないでとお願いしたのに、あなたは何度も太一を殺してきたわ」

「俺が、俺を? 」

 綾乃は、白い指で、太一を指さした。

「綾部正親になったあの晩。お父様に偽書を献上したあの日……あなたは太一を何度も消し去った。より高い身分を得るために」

 太一は、逆上した。何を言うのか。誰のために、俺は自分を消し続けたと思っているのか。

「では、ここで這いつくばっているみすぼらしい自分は、そのとき消し損ねたものなのだろう! 今度こそ、跡形もなく、消し去ってくれる! ! 」

 逆上にまかせて、太一は剣を振り上げた。

「死ぬが良い、下賎の者め! 」

 綾乃が、自分ともう一人の前に立ちふさがろうとするのが見えた。幼い日に「身分」に殺されそうになった太一は、今度は「身分あるもの」として殺そうとしていた。……自分自身を。

「やめて! 」

 片時も忘れたことのない、幼い日の綾乃の声が、太一の耳に聞こえた。

 その言葉はしかし、今度は太一自身に向けられていた。

「もう、太一を殺さないで! ! 」

 綾乃の声に、一瞬、幼い日の思い出が太一の頭をよぎった。太一の心に、猛烈な憎悪が巻き起こった。源内の言葉が、まざまざとよみがえった。

「身分とはなにか。人が人を見分けるための記号に過ぎぬ」

 紙切れ一枚でどうにでもなるような記号を得て、自分は何をしようとしているのか。

 そう思った瞬間、太一は太刀を逆手に持ち替えていた。

 自分で自分の腹に太刀を突き立てた血しぶきが、虚空に激しく散った。

 太一は、傷の痛みはほとんど感じなかった。

 その顔には、幼い日に自分を殺そうとしたものを、自らの手で葬った喜びがあふれていた。

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