「虚数なんて存在しない問題」の本質は、「無理数なんて存在しない」なのかもしれない【ユークリッド原論】

息抜きにユークリッド原論の「原論の解説」という章を読んでいたら、
結構面白い発見があったので、読み途中ですが書いておきます。


とあるコミュニティにて、「虚数って"在る"の?」みたいな話になったときのこと。

私「いやいや自然数が直感的なのに対して虚数が直感的じゃないから"無い"って言うなら、円周率だって"無い"ってことになっちゃうんじゃないですか?」
ある方「円周率なら3.1415くらいで許してやるか、という気持ちになりますが…」

というような旨の会話がありました。
その時は、(そうかぁ……?そうなのか……う〜んでも……)と上手く返せずモヤってたのですが、
思いがけず、その答えを原論で見つけました。


紀元前5世紀頃には既に、三段論法や背理法など厳密な論理に基づく数学が興っていた、という部分。
この頃、直感的・経験的な立場から、仮定的・演繹的な立場へと移行していったそうです。
ここに、

直感的・経験的な立場からは,量の通約不可能性という問題は生起しえないし,また論理的厳密を重視する数学の特徴をも発展させえないであろう。

ユークリッド原論 追補版

という一文があり、カルチャーショックのようなものを受けました。

※通約不可能性とは、この直前の部分に書かれていた命題についての言葉です。
ざっくりいうと、
「正方形の一辺の長さと対角線の長さの比は、整数:整数で表すことはできない」
という命題の、「整数:整数で表せない」を「通約不可能性」と呼んでいます。

言い換えると、「対角線÷一辺は無理数である」ということ。
この命題のせいでピタゴラスの弟子が殺されたという逸話も有名ですね。

つまりどういうことかというと、
「無理数か有理数か」という問い自体が、直感的な数学からは想定することが不可能な問いなんです。

例えば、「円周率は無理数か」という問いに答えるのに、「精密に測る」という方法は使えません。
なぜなら、たとえ近未来的なスーパー観測機器を使って円周率を100桁まで測れたとしても(これは原子や素粒子よりずっと細かい数です)、円周率が無理数か有理数かを判定することはできないからです。
「測る」という方法でこれを判定するためには「無限の精度」が必要になります。
そんな無理難題であっても、「円周率が無理数である」ということが知られているのは、「測る」という「現実世界の出来事」あるいは「直感的な方法」から離れ、「仮想の完全に厳密な数学世界において、論理のみで命題を示す」ということをしたからです。

「仮定的・演繹的な数学」以前の数学、つまり「直感的・経験的な数学」ではもしかすると、
「100個の直角三角形で三平方の定理が成り立っていたから、この定理は正しい!」
という形式だったのかもしれません。
この形であれば、小数点何桁以下は無視されているでしょう。
「現実世界と折り合いをつけるための妥協」が必要だからです。

ですが、現代数学からしてみればこんなもの厳密でも論理でもない。
「論理的に厳密であること」というのは、「現実世界から離れ仮想世界で思考するということ」なんだなぁということを、「原論の解説」のp8目にして理解させられました。


「虚数なんて存在しない」というのと全く同じような構造の議論が、
紀元前何世紀のギリシャで既に行われていたのかなと思うと、非常に興味深いですね。

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