ヒロシの異郷の駅前食堂が好きだ

 一週間で一番楽しみな番組は何かと問われたら、躊躇うことなく「ヒロシの駅前異郷食堂」だと答える人が国民の大多数だと思う。それほどにこの番組は優れており、民放のひな壇芸人のろくでもないやり取りが心底鼻につく勢力にとってはもはや神輿的なシンボルともなっている。有吉だのマツコだの坂上だのの、ただのあしらい上手を見る暇なんぞないと唾棄する人は、もはや朝鮮民主主義人民共和国の現在生存総人口よりも多いかもしれないと言われているくらいだ(筆者調べ)。彼らの最も致命的な所は、一般のお茶の間感覚に長けていると思いこんでいながら、実はザ芸能界的閉鎖性の固まりを暴露しているだけという点に他ならない。
「サザンオールスターズさん」だの「スピッツさん」だのそんな敬称を使う人間が世界の一体どこにいるというのか?オアシスさんとかテイラースウィフトさんとかピートバーンズさんとか誰が言うか。ピートバーンズさんは言うかも知らんが。
 ただ共演しただけなのに、いちいち「ご一緒させていただいたことがございまして」と言わなければいけない感覚もなんなのか。デビッドボウイはミックジャガーとやったけど、慮る様は示そうともしていない。いやむしろデビッドボウイが「ブルーススプリングスティーン様と共演させて頂いたことがございまして」などと言ったら、それこそ何かの揶揄があって嬉しいが。(ただし有吉についてはスピッツ問題を客観的に捉えていたので後で詳述する。また坂上においてはただ声が大きく、間合いの取り方がTV的に場馴れしていて、ゴミくずのような意見ですらポータルサイトに載ってしまう点で極めつけの悪質であるが、これについては後述すらしない)
 一般人の感覚とはまさに乖離しているのにそこに気が付いていない異常な世界と私達はどう付き合って行ったらいいのかのヒントをくれるのが、そもそもヒロシという存在なんだろう。あの、愛想の無さ。旅先でのご縁をあのように粗末に表現するTV芸人を知らないけれども、阿呆のように出会いに感謝しまくるTV的な態度は、実際の旅先では見かけることなき光景である。ヒロシの淡白さが普通であって、不特性多数と接触する外国人のほとんどもTVが入っているからと言って態度を変えるのはみっともないという、ただならぬ苦悩が見て取れる。この際ついでに言っておくが「鶴瓶の家族に乾杯」って、他所の家族にいきなり押しかけて乾杯みたいなこととかしてどうすんの。はっきり不愉快である。遠巻きに見掛けて想像して通過しろや。
 ここで正式番組タイトルを調べた。「迷宮グルメ異郷の駅前食堂」だった。どんだけ間違ってんだ俺ときたら。番組コンセプトは文句なしに優れている。しかし「駅前食堂」だけで十分なのに、「異郷の」などと形容句を盛ったうえに、「迷宮グルメ」などという副題すら乗っけてしまった。それだからデザイナーもロゴに拘って、番組名が出てこない、覚えられない、インパクトが弱まる、という事態に陥った。ロゴグラフィック自体は優秀なのだが、なにしろ超複合図案で絵面の記憶も不可能。ただの「駅前食堂」にして欲しかった。「駅ピアノ」みたいに。それくらいに普遍化されたテーマを内実とするからだ。
 最も素晴らしいのは、音楽だ。番組冒頭のテーマソングはチャップリンのライムライトの主題歌。そして途中に挿入されるのはマカロニウェスタンの必殺口笛を配置した、エンニオ・モリコーネの「荒野の用心棒」。この文句なしの選曲センスがどこから生まれたのか?番組プロデューサーにどうしても聞いてみたいので、取材を申し込んでみる。佐藤允彦さん、慧眼に惚れ惚れしてます。
 音楽としては一見チープな響きを持っていても、映像とリンクした時には絶大な力を発揮する。音楽の力だけを純粋に見ようとしたところで、こうした選択に辿り着くはずがない。それに自分の趣味を押し付けてもこうハマるものではない。番組、タレント、視聴者、音楽のバランスとはなんなんですか?絶対に秘密があろう。

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異郷で食べたいものは誰だってこれ


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