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香港旅 いたって普通の場所で起きた悲劇を想う

なぜ、香港を一人旅の行き先に選んだのか?

今回の文章は、多くの日本人にとってはあまり好かれない内容の文章だと思う。けれど、僕はあえて今回の文章を形にして、表に出したいと思う。世界は情勢変化は凄まじいスピードを出していて、下手をしたらそこから振り落とされてしまうかもしれない。そういった意味で、僕は社会を構成している人間の一人として、自分の立ち位置、あり方を再確認するためにも今回の文章をしっかりしたためておきたいと思い本腰を入れて書いた。

数年前の香港での民主化運動のデモの際、近代国家(のように見える場所)において「法の支配」が機能せず「人権保障」を踏み潰すかのように、国家のあり方に反対する若者に向かって現場の警察官が何の手続きもなく発砲した。催涙弾やゴム弾ではなく、実弾での発砲に世界中は自分たちの目を疑い、強い怒りを持った。「デュープロセス・ロー」が無視され、若者の命が軽く扱われた瞬間だった。テレビを通して見たその映像は、いまだ鮮明に生々しく僕の脳裏に焼きついている。デモが(その内容の是非も含めて)正しいとか間違っているという論点とは別に、国家というシステムが国民、一般市民に刃(やいば)を向けたということ自体が大きな問題だと個人的に考えている。

僕自身が香港に行ってみたいと思った理由の一つが、"それ"が「どんな場所」で起きたのか?ということを自分の肌身で感じてみたかったからだ。

日本も他人事ではないように思っている。
「法の支配」という言葉も形式的に過ぎないのが僕たちの国の実態だ。我が国の最高法規たる憲法の条文解釈は、時の為政者のそれぞれの価値基準によって変更がなされる。その姿は、世界的に見ても「国家崩壊」の姿に近いのではないかと僕は個人的に思っている。硬性憲法、それを軸にする立憲主義の意味は、形骸化していると言わざるを得ない。僕たちの国が、実質的に僕たち一般市民に危害が加わる形での暴走を始めた時、僕自身はどう行動を取ればいいのか?僕は、その答えが出ないでいる。しかしながら、世界が急激に変化し右傾化する中で、我が国の特有の「曖昧な立ち位置」、「曖昧なあり方」がいつまでも通用するとは思えない。いつか自分の立ち位置、あり方への「答え」を出さなければならないときがくる。いつまでもそこを無視しているわけにはいかない。

香港に行く前に、「わたしの香港 消滅の瀬戸際で」というノンフィクションエッセイの本を手に取った。

カレン・チャンというジャーナリストの女性が書いたノンフィクションエッセイだ。彼女が生まれたのは、1993年。まさにイギリスからの領土返還や数年前の民主化運動をど真ん中で生きている方だ。僕よりも10歳くらい年下の方なので同世代というとちょっと違うかもしれないけれど、それほど遠くはないので"リアリティ"さを持ってエッセイを読むことができた。読んでいて、心がヒリヒリと痛み、胸がギュッと締め付けられた。

僕がこの本に痛く入り込んでしまった要因となる前書きを少し引用してみたい。

"わたしが四歳のときに、この小さな街がイギリスの植民地から中国の領土に変わった香港返還として知られる歴史的な出来事が起きたとき、文学もメディアも、香港は価値観がぶつかる場所だと書き立てた。でも、現実はそれよりはるかにひどいものだった。わたしたちには、拠って立つ自己の姿などなかったのだ。(中略)。わたしたちは自分を否定の形で表していた。共産主義者「ではない。」もう被植民者「ではない」と。他の多くのと同じように、わたしたちは法によってのみ支配されるという事実が、集団アイデンティティの土台になっていた。それが個々人のアイデンティティとなるまでには、数十年にわたる実験が必要になりそうだった。(中略)二〇一九年にいたるまでの数年間、わたしはこの都市との関係を修復することに夢中になっていて、そもそも香港がわたしたちのものであったことなど一度もなかった、という事実をすっかり忘れていた。"

「わたしの香港 消滅の瀬戸際で」
カレン  チャン

「返還」という目に見える形で領土の返還がなされている香港と、目には見えないけれど実質的な意味で米国に従属してないければならない日本と、僕には重なって見えるような気がした。

この本を読んだけで、香港をわかったような気になるような愚を犯すつもりはない。けれど、その現場で生きていた一人の女性の感情や感想を知る上では、とても参考になるものだった。それにこと細やかにその感情が手に取れるように表現がなされている点で、著者が見ている世界に寄り添いやすい本だったように思う。ジャーナリズムの枠を超えて、一人の女性の物語としてとても秀逸な本だった。もちろん、人が10人いれば、10通りの考え方や感じ方がある。だから、著者が描いた香港が、香港の人たちみなさんの総意だとは思ってはならないと思う。けれど、僕自身が香港に興味を持つためには、あまりある素晴らしい著作物だった。

「香港の人は、生きるためなら何でもする。フレキシブルな生き方ができる。それが香港人の強さだ。昔の九龍城が出来上がった過程に表れているように。」と、あるテレビを見ていた時に、香港の有名な写真家のウィン・シャさんが話していた。

香港を散策する中で、モンスターマンション(Yick Cheong Building)を目にした時に、そのことを実感した。

香港・モンスターマンション

強い「個」が集まった「集合体」は間違いなく強い。香港に住む人たちの、一本筋の通ったしなやかな強さを僕は感じることができた。「フレキシブル」。まさにその単語がふさわしいように思った。

この点において、僕自身の強い偏見が入るけれど、ある主張をさせてもらうならば、日本人は「個」としては決して強くはないが、「集合体」になると恐ろしいほどの強さを発揮する。例えば、ここ数年で日本でもハロウィンが季節のイベントとして定着化し、特に東京の繁華街ではとんでもない盛り上がりになる。僕が注目するのは、そのイベントの定着までのスピードで、それは異様なほど速いものだったように思う。しかし、よくよく考えてみるとその理由は自明のような気がしている。ハロウィンに限らず、あのようなお祭り騒ぎは日本人の国民性にあっているのだ。具体的に言えば「集団性」と「匿名性」。シャイな国民性だから一人では何もできないけれど、集合体の中で没個性化された空間の中では何でも出来るのだ。僕自身は、そんな国民性にとても「危うさ」を感じるし「脆さ」をも感じている。繁華街でのハロウィンに乗じたお祭り騒ぎは、まさにそれの表れと言って間違いないと考える。

そして、ここにこそ、僕たちの課題があると感じる。

「個人が"個"として強くなること」。

僕が偉そうに、こんなことを主張することに何の意味もないし、何様のつもりだと言われても致し方のないことなのかもしれない。けれど、僕たちの国は「自由」を勝ち取った歴史はない。僕たちの「自由」は、常に与えられてきたに過ぎない。運が良かったと言えば聞こえはいいが、それがさらに問題をさらにややこしくしているような気がしてならない。言い換えれば「勝ち取る」という部分で言えば、日本人は不得手であると思うし、自己主張が弱い国民性を考えれば、やはりそういう部分では、やはり"弱"いのだ。僕たちの国には、第二次世界大戦後、一般市民を巻き込む戦争はない。それ自体は、とても幸せなことだし、これ以降もそうあるべきだと思う。正しい戦争なんてない、というのが、僕自身の一貫した立場であり主張である。けれど、そのことによって、ある意味での「弱さ」をも生み出してしまったこともまた事実のように思っている。それは、今回の香港に限らず、ベトナムに何度も通ってい何人のベトナム人とも接している中でも痛感していることだし、他のアジアの各国を見ていても感じ入るところだ。僕たちの国は、やはり「個」が弱い。

ビジネスをしていると何かにつけて、人脈や人間関係を築くことの大切さを説く人は多い。もちろん、人間関係、人脈はとても大切なものだ。でも、まずは「個」を鍛えてからでないと、話は始まらないし前にも進まないと思っている。

僕は基本的に個人的な人間なので、基本的には一人で淡々と仕事を進めていくタイプだ。結果として、誰かと"つながる"ことはあったとしても、"群れ"をなすように集団化することはありえない。やはり根底にはビジネスを通して、僕自身も「強い個」を追求したいと考えるからだ。もちろん、何かを大きな成し遂げるために、仲間を集い、意識を高めていくというのは、とても素晴らしいことだと思う。けれど、その一方で、その集団がただの「依存関係」になってしまうのなら、ただの烏合の衆であって傷の舐め合いをしているに過ぎない。そうなると建設的な発展性は皆無だ。生意気なようだけれど、そういう集団性みたいなものは敬して遠ざかるようにしている。人付き合いが悪いように思われるだけかもしれないし、時には嫌われてしまうような在り方なのかもしれない。けれど、長期的な視点で考えれば無用な人間関係は足枷にしかならない。


そんなことを香港の高く聳えるマンションの窓の向こうの、香港の人たちの暮らしを想像しながら考えていた。あれだけフレキシブルなしなやかで柔軟性の高い市民が多い街でも、やはり大きな"壁"の前では無力だった。いや、僕がこういった文章をしたためていたり、世界中が香港に注目したという点において実質的には無力ではなかったのかもしれない。でも、香港は大きな濁流の中にいると言って間違いはないだろう。そして、我が国はどうだろう?僕には、どうしても「明日は我が身」と思えてならないのだが、考えすぎだろうか。

香港の街は、いろんな雰囲気を持つ地域が集まって構成されている街だった。新旧いろんな場所があったけれど、辺りはいたって"普通の街"だった。普通の街で"あんなこと"が起きたのだ。僕はそれがとてもショックだった。

どんな場所でも、あんなことが起きうるのだ。権力はいつだって暴走する。その事実がただただ恐ろしかった。

だから"個"を強くするということを、再度考え直す必要があると思い今回の文章を書き上げた。

上記、"わたしの香港"を執筆されたカレン チャンさんには心から敬意を表したい。まさに身を切る執筆であったことは想像に難くない。香港の未来に留まらず、我が国の未来、アジアの未来、世界の未来に意識がある人であれば、一読の価値があると思うので、オススメしたいと思う。

(続く)

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