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社会にどんな価値を提供するのか-コロナと報道倫理(後編)

新聞、放送、出版、広告などマスメディア210企業からなる「マスコミ倫理懇談会全国協議会」の機関誌「マスコミ倫理」への寄稿に加筆修正をしたものをnoteで公開します。

「WITHコロナ時代の報道倫理」と題した本稿の前編では、インフォデミックの現状、信頼性の高い情報が求められる中で掲げられた「13のルール」、そして、市民がシェアしていたのはメディアよりも行政や医療機関、Youtuberの発信だったというデータを紹介しました。 後編では、メディアが抱える倫理的な問題を具体的に明らかにしつつ、より良い情報発信の方向性を海外事例を紹介しつつ提言します。

報道が事態の悪化に拍車をかける事例

誤った情報、操作された情報が広がるのが「情報(インフォメーション)のパンデミック=インフォデミック」だが、コロナ報道においては「間違っていない情報」すら、結果的に混乱を生む原因となった。

例えば、トイレットペーパー不足に関する報道だ。 発端は中京テレビの報じたニュース「『新型コロナウイルスの影響でトイレットペーパーが不足』は誤り 品薄となる薬局も」だった。

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「新型コロナウイルスの影響でトイレットペーパーが不足する」とSNS上に流れている情報を「誤りだ」と否定する内容だった。この記事は2月27日にYahooニュースに転載され、注目を集めた。

 記事自体に間違いはない。たしかにツイッター上には「中国から原材料を輸入できなくなる」などという書き込みがあった。中京テレビは業界団体の日本家庭紙工業会に取材し、「国内で流通するトイレットペーパー生産の中国依存度は約2.3%で、今のところ新型コロナウイルスによる影響はない」という事実を正確に報じている。  

ところが、この記事は報じた側の意図を超えた影響を生んだ。この記事を皮切りに民放キー局は次々とトイレットペーパーが消えた棚の様子を情報番組で取り上げた。その結果、何が起こったか。  

デマを否定する報道が人々を買い占めに走らせた 「放送研究と調査」7月号に掲載された「新型コロナウイルス感染拡大と流言・トイレットペーパー買いだめ」で、テレビ報道が与えた影響を詳しく検証している。

それによると、「トイレットペーパーが不足するかも」という流言が日本国内で発生したのは2月16日以降。それが「原料が中国から出荷ストップ」などとディテールを加える形でTwツイッターを中心に広がっていった。 中京テレビのニュースに続いて、28日にはNHKや民放各局が報じ、朝日新聞は29日朝刊に「デマ拡散、トイレットペーパー消えた 「在庫は十分」」。その他の全国紙も3月1日には続々と報じている。

それらの報道も流言の拡散に注意をうながすものだった。 だが、全国4000人にインターネット調査をかけたところ、流言を見聞きしたのも、買いだめの様子を知ったのも情報源のトップは「テレビ・ラジオ」。前者は37%、後者は35%におよび、そのうち自分も買いだめをした人・しようとした人は、その理由に「うわさを信じた人が多めに買えば、結果的に不足してしまうから」(49%)を挙げたという。

情報をどこまで開示するか

新型コロナウイルスに関連して、「事実の正確な報道をすれば良いというわけではない」事例は他にもある。感染者に関する情報だ。 

厚生労働省は2月27日、コロナに関する感染情報の公表について、各自治体に方針を示している。その内容は一類感染症と同様のもので、その基準は公表する情報を「居住国、年代、性別、居住している都道府県、発症日時」とし、公表しない情報を「氏名、国籍、基礎疾患、職業、居住している市区町村」としている。

これは個人が特定されないように配慮しつつ、感染源を明らかにして、「国民にリスクを認知してもらうこと」を狙って定められた基準だ。だが、実際には自治体の公表基準はまちまちだった。会見で記者がさらなる情報提供を迫るケースもあれば、関係者への取材で独自に入手した情報を元に詳細に報じるメディアもあった。

感染者をめぐって、自治体の情報公開やマスメディアの報道、ネット上の書き込みなどをもとに個人が特定され、家族や勤務先への嫌がらせなども発生した。首長らが感染者へのバッシングをしないように呼びかけ、メディアもバッシングに警鐘を鳴らす記事を書いてきた。

だが、一度拡散すると情報の回収が不可能なネットにおいて、厚労省の公表基準を超えた報道とそれに続くバッシングの嵐は今も止まっていない。これをどう考えるのか。

悩む現場の記者たち 

前編でも紹介した、「ファースト・ドラフト」のコロナウイルスに関する「責任ある報道と倫理のための13のルール」の中には、次の項目があった。

「読者や視聴者がどんな疑問を持っているかを把握し、それに答える」

読者や視聴者の中には、感染者に関する詳しい情報を求める人たちがいるのは確かだ。報道を通じてだけでなく、市民自ら自治体に連絡し、「誰が感染したのかがわからないと怖くて仕方がない」などと言って情報の開示を求めた事例もある。

その「ニーズ」を満たそうと詳しく報じれば、個人が特定される危険性が増す。厚労省による公表基準を踏まえた上で、報道はどこまで詳細に報じるべきだったか。そして、今後報じていくべきか。 まずは各報道機関で、何のためにどこまで報道すべきかを議論し、その方針について説明する必要があるのではないだろうか。

私は世界最大のデジタルジャーナリズム振興組織「オンライン・ニュース・アソシエーション」の日本支部の事務局をしている。そこで5月に開いたウェビナーのテーマが「コロナ報道の倫理的課題」であり、このトピックについて全国の記者と議論した。

そこで聞こえてくるのは、現場の記者たちの赤裸々な悩みだ。未曾有の疫病、刻々と変わる状況、慣れないリモートワークの中で、根本的な問いかけは置き去りにされがちだという。

具体的な報道の指針を組織を超えて議論し公開する 

アメリカでは、新型コロナについてどのように報じていくことが読者・視聴者にとって有益か、社を超えた横断的な議論があちこちで交わされ、公開されている。 

例えば、フィラデルフィア州のローカルメディアが協力して実施している報道プロジェクト「リゾルブ・フィリー」。「コロナ報道を再定義する」と題したサイトを公開し、どういった報道をすべきか、しないべきかについて詳細に解説している。

新しい情報は何か・要点は何か、を最初にまとめて伝えること
重要な情報を一覧できるページを作ること
感染者数ではなく、「確認された陽性者数」と正確な用語を使うこと
数を速報するよりもその背景を丁寧に説明することに重きをおくこと

こういった内容が具体的に記されているだけではなく、ひどい状況だけを伝えつづけることがもたらす読者や社会への悪影響についても「読者は無力感に囚われ、記事を読まなくなってしまう」と解説している。

ワシントン・ポスト史上最も読まれた記事とは 

では、アメリカで実際にシェアされたり、話題になったりしたコロナ報道にはどういったものがあるのか。

ワシントン・ポストが3月に公開した「なぜ、コロナウイルスのような感染症は指数関数的に広がるのか、そして、その急拡大を抑制するには(英文)」と題した記事は、ワシントン・ポストのデジタル版で史上最も読まれた記事となった。 話題を読んだのは、記事の中身というより、その表現だ。

未感染の人、感染している人、回復した人をそれぞれ点で表現し、点が動き回ることで感染者がどうやって広がっていくかをシミュレーションで表現した。 ロックダウンで人の移動が止まれば、どれだけ感染スピードが抑えられるのかを視覚的に理解できるように表現したこの記事はオバマ元大統領や著名人、各国の首脳たちもシェアして世界中で読まれ、引用された。

13のルールに即して言えば「読者が実践できる行動を具体的に示す」コンテンツだからこそ、世界中の要人がこぞって紹介した。世界中で反響を読んだことで、すぐに多言語に翻訳され、日本語でも公開されている。

このレベルの記事がすぐに日本語に翻訳されるようになったことは、ユーザーにとっては歓迎すぐべきことであり、日本のメディア関係者にとっては脅威だ。

死者を悼み、人を繋ぐメディア

アメリカでのコロナによる死者が10万人を超えた5月、多くのメディアが死者を悼む特集を組んだ。ニューヨーク・タイムズは紙面の1面すべてをコロナによる死者の名前・年齢・簡単な紹介だけで埋め尽くし、ウェブサイトにも同様のコンテンツを公開した。

ニューヨークのローカルNPOメディア「ザ・シティ」は、ニューヨーク市立大ジャーナリズムスクールなどと協力して、死者の思い出を市民から募るサイトを公開した。 死者を悼み、思い出を共有し、ともに悲しみ、支え合う。読者に情報を提供するだけではなく、人々が共に生きる地域共同体をつなぐ役割をメディアが果たしていた。

私達が社会に提供する価値とは何か

倫理とは行動規範であり、私達がどう行動すべきかの道標だ。倫理を考えることはつまり、私達が社会にどのような価値を、どうやって提供するべき存在かを考えることにつながる。

私は現在、先程も例に挙げたニューヨーク市立大ジャーナリズムスクールで世界中の大手や新興のメディアから集まった仲間16人で、デジタル時代のジャーナリズムのあり方を議論するプロジェクトに加わっている。

20世紀型のマスメディアのビジネスモデルが崩壊し、情報が氾濫するデジタル時代において批判の対象ともなり、ニュースメディアが信頼性と収益性の両面から危機に追いやられている現在において、今日的なジャーナリズムとは何か。 議論は常に「私達が社会に提供する価値とはなにか」に立ち戻る。

組織を超えた報道ガイドラインの議論、圧倒的にわかりやすい表現、そして、共同体を繋ぐ役割。それらの報道もそういった根本的な議論から生まれていると感じる。

コラボの波は日本にも

同時に、アメリカはフェイスブックなどのソーシャルメディアを通じて、日本よりも格段にデマやフェイクが拡散している国でもある。この問題に対しても、組織を超えたコラボレーションが広がっている。

国際ファクトチェック・ネットワーク(IFCN)は、組織だけでなく国境も超えて、コロナに関する誤った情報の真偽検証をする輪を広げている。日本でも、筆者が理事を務めるファクトチェック・イニシアティブ(FIJ)がその活動に加わっている。 協力できるところは協力し、社会に正しい情報という価値をもたらす。そういった活動は日本でも広がり始めている。 

この前後編の記事の冒頭で、疋田桂一郎氏の38年前の警句を引用した。

新聞というメディアに世間が求めるものが、以前に比べて違ってきた。例えば情報の精度、正確さ。これに対する要求水準が非常に高くなっているのではないか。それが満たされなくて、新聞不信という形でいろいろ出てきている

インターネットが発達し、データ収集・分析や、様々な表現技法や、組織を超えたコラボが可能になった今、5年前と同じことをしていたら、信頼されないのは当然だ。

逆に言えば、ニュースメディアに携わる人たちには、新しい技術や発想で新しい価値を届け、信頼を獲得する機会が、かつてなく広がっている。

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