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「無」とは何か

「無」は存在するのか?
と言ってしまうとその言葉に矛盾が生じる
「無は存在するのか?」と言った瞬間に
「無」は「有」になってしまう
つまり「無」は無でなくなり
瞬時に「有」になってしまうので
「無」ではなくなってしまう
だからと言ってそれは
「無は存在しない」という意味でもない
「無」は存在しない
と言ったとしても
やはり「無」は「有」になってしまう
「存在しない無」というものが
そこに有るからだ
この辺になると
もう何が何だかよく分からなくなる

物理的には時間も空間もない状態だ
「無」は「無」である以上
存在はおろか意識も気配も無いのだ
つまり誰かの意識に上った段階で
それは全て「有」となる
「無が有る」という考え方は難しい
例えば大草原を見下ろしているとき
何もない場所だと思うとする
大都会にはない物が
その大草原にはあるわけだ
それは「何もないが有る」という事だ
「無が有る」とはその様な感じだろうか
「無」を意識すればその「無」は存在して
「無」を感知した時点で
それは「有」になるのだ

人は「無」を感じることが出来ない生き物
なのかもしれない
人間は他にも感じられない物事が多くある
可視光線以外が見えなかったり
一定周波数を超えると聞こえなかったり
「見えないもの」「聞こえない音」
そういったものがある
しかし「無」を
そういった事と同列に考えるべきではない
出来ない事と無い事は似ているが
全く違う事象と捉えるべきだろう

ところが「有る」と分かっていても
どうしても感知できない事もある
それが生まれる前と死んだあとの世界だ
今ここに生きている以上
生まれる前が存在している事は分かっている
しかしそれを経験知で語れるものは何もない
どうしても自身で感じることが出来ないのだ
生まれる前はどうだったかとか
死んだあとはどうなのかとかを
人間は全く感知することが出来ない
つまりそれは
生まれる前と死後の自分は「無」であって
己以外の「生まれる前の世界」も
「死んだあとの世界」も「有」であり
「己が感じることが出来ない」も「有」だが
自分自身の意識状態は「無」であり
意識することも感知することも
全くできないのが「無」
と言えるのではないか

つまり「無」とは
世界に示せる万能な方程式のような
憲法や法律もしくは聖書で語られるような
明文化出来る代物などでもなく
実に俗人的であり
「個人個人の意識上だけに寄与する問題」
ではないだろうか
一人一人の知識と意識によっては
その「無」個々の存在の有無も
全くもってまちまちである
全人類が一度は経験した生まれる前と
一度だけ必ず経験する死後について
人種も性別も全く関係なく
誰もが必ず経験することであるのに
誰一人も認識できない「無」がある
これこそが人間の唯一知り得る「無」であり
また知り得ない「無」であるのだ

「個人の命の外に無は存在する」と言えば
「無」が存在する「有」となってしまう
「無」は「無」でなければ「無」ではない
なので
「無」とは「命」がある内には
意識も感知もできない物とするべきで
では命前命後なら心得られるかどうかは
「命中」には感知も意識もできない
つまり「無」とは「分からない」もの
というのが一番近似値な回答だろう

しかし命前の「無」には
無尽蔵な可能性が秘められている
そういう言い方も出来やしまいか
この後命が生まれるかもしれない「無」なのだ
生命が生まれること自体が奇跡である
「無」はそんな奇跡をも生み出す場でもある
何も命に限らない
真白いキャンバスを見るにつけても
無から絵は創造されるのだ
すなわち「無」こそが
新たなものを生み出す源と言える

そして我々は白いキャンバスを常に持ち歩き
日々新たな何かを生み出す機会の只中に居る
無は命前命後に限らず今この時にも
実は無数に存在しているとも言える
無の存在を我々は認知できないので
目に見える現実にばかり目をやっていれば
新たな創造に出くわす機会も減るだろう
まだ生み出されていない「無」が
いつもこの手の中にあると思えば
「無」の無尽蔵な可能性に身慄いも覚えよう
「ない」事は「有る」為に必要な土壌なのだ

まとめ
「無」とは全ての発生プロセス中に起こる
最初段としての素地であり
その概念のことである
「無」とは新を生み出す源である