見出し画像

30年前のリモートワーク

【 2874文字 】

犠牲者がおられる以上コロナのお陰と言う訳にはいかないのだが、コロナ以前には一般の仕事現場にはほとんど見られなかった通信での会議、いわゆるweb会議とかリモート会議とかいうやつがコロナ後も一般化しそうだ。
それまではテレビ会議なんて言ってたりして、ちょっと気恥ずかしさと、セッティングの面倒さなんかを思い忌避される感があった。
しかしこのコロナ禍に於いて背に腹は代えられないという事で、とにかくやってみると意外といいじゃないかコレ、という事になったのだろう。まあ食わず嫌いであったことには違いない。

時代が良かったというのもある。約100年前のスペイン風邪や、ましてや14世紀に大流行したペストによるパンデミックの時には、どう頑張ってもリモート会議なんて不可能だったのだから。
コロナが世界流行し始めた2020年は、コンピュータに慣れない世代もずいぶん既に仕事の現場から減って来ていた時代でもあった。今回のコロナパンデミックはこの点に於いてだけ見れば、非常についていたと言って良い。おそらくリモート会議はコロナ後の時代もデフォルト化されるのだろうと思う。

ところが、今から30年前の1993年ごろ。そう考えれば僕は既にリモート的な仕事をやっていたのだなと思うのだ。
その頃の僕は作曲や編曲、又はカラオケのデータ制作などを生業にしていた。仕事の依頼を受けると都内の広尾とか麻布とかにある制作事務所へ出かけて行き、仕事内容の打ち合わせをして自宅に持ち帰り作業に入るのだが、ほとんどはMIDIデータと音源データでの納品だった。ここまではまだリモートでも何でもない。

完成データは再び制作事務所に持ち込んでプリプロダクションという作業を行い、自宅で作って来たものを再び展開させるのだが、そのプリプロダクションがより簡単かつ正確に行えるよう、展開させるデータも整然と丁寧に作り込んである。
説明が必要な部分がなるべく要らないよう、出来ればクリック一発で展開できるようになっているのがデータ納品の理想だった。そういったひと手間で僕の仕事の評価も上がるという訳だ。

つまりデータ仕事なのでリモートの要素はこの時点で既に出来上がっていたのだ。これは僕だけが先進的だったという話ではなく、音楽業界全体がそういう時代にちょうど突入した頃だったという事である。ただその頃は皆わざわざ制作事務所やレコーディングスタジオまで手持ちで持って行っていたのである。

それには多少理由がある。やはり人は人同士のコミュニケーションが必要なのだ。顔を見ながら生の声で話をすれば人となりの熱量や苦労が伝わったりもする。たまには仕事を離れ酒を酌み交わしたりすることでグッと距離が縮まることもある。仕事はやはり信じられる人に任せたいと思うのが人情だ。この頃世の中は昭和の香りがまだ色濃く漂っていた時代だ。人同士が顔を突き合わす事に大きな意味と意義があった時代だったのだ。

さてここからだ。その前に当時の僕の私生活を語らなければならない。その頃まだ20代後半だった僕は結婚してまだ間がなかった。妻は何回か救急車で運ばれるほどの酷い喘息持ちで、僕たちはその事をどうしたらより良い解決に近付けられるのかを日々真剣に考えた。体調に待ったはない。紆余曲折有り、結局僕たちは空気が良いとは言えない都内を離れる事にしたのだった。どこか空気のいい田舎でのんびり暮らそうと決めて、肝心の場所は何処でも良かった。

コロナが蔓延して出社不要となったサラリーマンや、地代の高い都内を離れる企業もコロナ後にはぐっと増えて、各地方もそういった人々を引き込もうと躍起になったのもコロナ騒動の特徴と言っていい。
当時僕たち夫婦は結局縁もゆかりもない京都に引っ越す事に決めた。京都といっても交通量の多い碁盤の目の市内ではなく、西の峠を越えて更にもう一つ向こうの盆地のこじんまりとした集落に新居を定めた。凄い田舎である。しかし空気と水と空は絶品だ。

僕はこの1993年時点に於いて電話通信でデータを東京に送り、その収入だけで生活をしていた。メールで必要な情報が飛んでくる。先方が希望する内容や期日、金額などさえやり取りできれば十分だ。あちらも希望のものが希望通りに出来上がってくれたら文句はないのだ。当初は都内に居るのとほぼ変わりなく仕事ができた。そう僕は30年前からまさに今で言う所のリモートワークをしていたのだった。

ただ当時は今と違って通信速度は恐ろしく遅い。64kbpsというのが最速である。1024Kが1M(メガ)、1024Mが1G(ギガ)。現在は普通の家庭に2Gbpsが来ているので当時がどのくらいの速さ(遅さ)だったかは想像に難くないだろう。
なので無駄なデータ、余計なデータは可能な限りシェイプする。かと言ってそれで納品物に影響があったり、作品のイメージに問題があっては本末転倒である。あらゆる手段や発明を重ねて最小のデータを作るのだ。それが逆にシンプルイズベストな作品作りにもつながったとも思っている。

が当然ながら思いついた全てのアイデアを楽曲に込めることは出来ないとも言える。新しい試みは当時の通信速度では重すぎて叶えることができない。送るのも大変だが、送られる方も迷惑だろう。その都度電話代がかさむのも厄介だ。音源データを自ら持ち込みサンプラーに仕込んだり空間系のエフェクトをかけたりできれば何も問題はないのだが。

あれから30年。作曲家やアレンジャーとして大成しなかった僕は7年前から広島県のケーブルテレビに勤めている。もちろん大成しなかった理由は99.9%僕の努力と才能のなさの賜物である。来年の誕生日で60歳になるので、さて定年するか継続するかと考えているところだ。今は趣味で地元のアマチュアプレイヤーとバンドをやったり、何処からも発注されていない曲を作ったりして音楽を楽しんでいる。プレッシャーも責任もなく、楽しむだけの音楽に浸れるのもなかなか良い身分だとも思える。であれば定給(低給?)をいただきながら引き続き音楽を楽しむのも悪くないと思っている。

確かに、もしあの時あのまま東京に暮らし続けていたら、という事を考えた時期もあった。しかしあらゆるシミュレーションを何度してもやはり東京を離れるのはマストであった。これを言うと負け惜しみと思われるであろうが、若かった自分はベストな選択をしたのだなと今は思える。

人生を振り返り「もしあの時」などと考えるのは愚の骨頂である。そんな事は百も承知で、それでも敢えて0.1%の鬱念を漏らすなら、もしあの当時今の様に映像付きで複数の人らと同時にリモート会議が出来ていたら、もしあの頃もっとデータスピードがあったとしたら、などと考えれば多少奥歯をかみしめる思いもあるのも確かだ。あの頃zoom会議が出来れば先方に地方の作家に依頼する煩わしさも随分減っただろうなと少しだけ思ったりするのだ。

昨日京都時代まで共に音楽を模索した友人から連絡をもらった。
「データを送ったり送られたりして昔みたいに1曲作らないか」とお誘いを受けた。早速僕はドラムを録音して彼に送った。それに仮ギター、仮歌を乗せたデータが届く。今日はそれを聴きながら歌詞を載せた。次は本番のベースやギターを入れる。
立派なリモート作曲である。今僕はこの曲の今後の展開がとても楽しみなのだ。良い時代がやってきた。

コロナ後の世界が本格的にやってくる。コロナ前とは少しだけ違う時代がやってくる。でも僕から見れば30年前からやってる事だけど、それでも大きく変わる世界がやって来るのだと、人知れず感無量な気分で、世間と、自分の過去と未来を眺めている。