見出し画像

手と運転手

「日本語って『手』という文字を使った言葉が多いですよね」
 
 お客さんが流暢な日本語でそう言った。そう言われた俺は、ポカーンとしてしまった。そんな俺の様子に気がつくような事は無く、彼女は続けて話した。

「手がかり、手本、手段、手中なんていう言葉がありますね。英語なんかで、handがつく単語というのは、直接手に触れるモノばかり。at handという言い回しには『近いうちに』なんていう時間の表現で使われる事もありますが、日本語の方が圧倒的に『手』を使った表現が多いんですよ」

「そう言われてみれば、そうですね」
 
 そう返事したが、一体何の話だろうか?と思った。

「日本には手遊び唄なんてものもあるし、あやとりやお手玉、けん玉、コマ、手を使った遊びも多いですね」

「確かにそうですが、なにか『手』に思い入れがあるのですか?」
 
 俺がそう言うと、お客さんは気がついたように「あぁ」と言い、照れ隠しなのか笑ってみせた。

「何か思い入れがあるわけでも、何かあったわけでもないですね。ただ、どれだけ長い間、日本に住んでいても、日本語ってやっぱり面白いなって思っただけです」
 彼女は自分の手の皴を見ながらそう言ったと思う。バックミラーに映った彼女は下を向いていた。

「ということは、お生まれは海外ですか?」

「あぁ、ハイ。ソウデス。って言った方がわかりやすいですか?」わざと片言でそう言いながら、彼女が笑ってくれたので、俺は安心した。「もう、ずいぶん前ですよ。日本に来たのは」

「どうでしたか?この国は?」

「日本が好きだから、ここで死のうと決めたほどですからね。よかったですよ。ただね、そうは言っても、全てが全ていいってわけじゃありませんよ」

 まぁ当然だろうなと俺は思って、どういう所が残念だったのか聞いてみた。

「そうですね。日本人の抱いている、日本にいるガイジン像っていうのが、私はちょっと嫌だったかな。日本に住んでいると『日本がお上手ですね』ってよく言われるんです。何十年も住んでてもね。市役所とかでも、日本語ができるのに、子供に話すような、変なトーンで話してくる職員もいましたね。考えすぎかもしれませんが、見えない壁って感じがしましたね。まぁ仕方のない事ですね」

「言われてみれば、私も思い当たる節がありますよ。差別とか、そういう意識はないですが、海外の方と話をする際に身構えてしまう事がありました。英語ができないのに無理に英語を話そうとした事だってあります」

「運転手さん。今、日本語で話をしてますよ」

 彼女は再び笑った。俺も笑った。
 他の国の事を、俺は詳しく知らないが、色んな人種や民族が住んでいる国では、違いがあるのが普通だろう。そこで差別の問題もあるかもしれないが、人の違いを一々気にしないのではないだろうか。ところが、日本では白人や黒人というガイジンは嫌でも目立つ。それでいて、まだまだ外国の人に、ぎこちない接し方しかできない日本人の方が多いのだろう。

「ただね、私が日本で好きだったのは、人との距離感ですね。私の性格と合っていたという事です。人との間が私には丁度よかった。私の国では、人によっては、初対面でも肘が当たるぐらいの距離に飛び込んでくるんですよ。ところが、日本には独特の間がある。そういう間に多少の違和感があっても、私には心地よくて、生まれ故郷でなく、日本を終の棲みかに選んだのです」

 外国と日本の違いについて意識した事がない俺は、ただ、そういうものかと思った。外国に住むという事を、俺は生きている時に想像した事がなかった。もしも、どこか違う国で生活していたら、俺は自分の運命を変えられていたかもしれない。
 そう思ってみるが、やはりそう思う事は無意味なのだとすぐに思い直した。

「たくさんの物事に、この手で触れてきました。生まれた国でも、日本でも、色々とね。息子や娘が生まれた時の温度をこの手で感じ、孫も抱かせてもらいましたよ。温かったですよ。相手にも手があって、手前って自分のことでしょ?手前にも手があった。私は色々な手に支えてもらって、囲まれて生きていたんだと思うのです」

 そう言うと、お客さんは再び自分の手を見た。そうしながら、嬉しかった事や、幸せだった時間の事を思い出しているのかもしれなかった。
 俺もハンドルを握っている自分の手を見た。この手で色々な事をしてきた。温かいモノも、そうでないモノも、痛みだってこの手で感じてきた。

「これから何度、このハンドルを握るのだろうか?」
 頭によぎったそんな疑問を、俺はすぐに消し去った。

「着きました」

 俺は後部座席のドアを開けた。

「運転手さん。手を大事にしてくださいね」

 彼女はそんな言葉を残して、目的地で降りた。


終わり

一日延ばしは時の盗人、明日は明日…… あっ、ありがとうございます!