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宮沢賢治 やまなし 本質の解明 13完結

9 幼き頃の安堵感

 母にこの作品を読み聞かせしてもらっていた時のことを常に思い出すようにしながら感覚を働かせて論考を進めてきました。

 私の父は、子供たちのために世界の名作という15冊程度の絵本シリーズを買い揃えてました。それには、誰もが知る世界の珠玉の童話が掲載されており、どれも特異な輝きを放つ作品ばかりでした。

 ただ、宮沢賢治の放つ独特な感覚は、他のどれとも全くちがっており、心に直接働きかけてくる何かが間違いなくありました。

 確かに他の世界の名作童話には、素晴らしいストーリーやメッセージ性など教育的価値がふんだんに含まれています。ただ、どこか本当に子供向けというか、大人が考えた話というか、創作されていることが分かってしまうという感じがあり、切実に心に働きかけてくる度合いが弱いものも多くあります。

 その点、宮沢賢治は、「ほんとうにもう、こんなことがあるようなきがしてしかたがない」ということを書いているので、読んでるうちに、創ったものではなく、ほんとうにもうこんなことがあるようなきにさせてくれるのです。だから、ためになるところがあったり、ただそれっきりであることがあったりしてなんとも自然現象に近いお話なのです。
 だから、作者の素直さや登場人物に対する親近感も自然な感じで湧いてきてしまうのです。これは大人が子供向けに作るお話では到達できない領域と言えるでしょう。言うなれば、究極のあるあるです。

 ただ、自然現象なので、美しいものや面白いもの、ハッピーエンドばかり描いてしまえば、即ち不自然になります。そのため、「やまなし」ではあれだけ不吉な描写を施しています。また、そのシリーズで併せて掲載されていた「どんぐりと山猫」も最後には山猫からの手紙が二度と来ないというややバッドエンドな結末が描かれます。それがなんとも真っ当な印象を与えてくれて、むしろ温かい安堵感に包まれてしまうのだから見事です。

 五月の暗く虚しい世界を描いた後、十二月にやまなしが落ちてくる。それだけのことで大きな幸福感や安堵感に包まれることを教えてくれる「やまなし」。大きな地球というこの未知の惑星に生を受け、まだまだ知らないことばかりで恐怖と不安ばかりの幼き子どもたちにとっては、現実の厳しさをきちんと見つめさせながらも、希望は身近にしっかりあるから大丈夫だというメッセージを届けてくれるのが、最も安心させてもらえるのかもしれません。鋭い子は、子どもだましにすぐ気がついてしまいます。

 安堵感と言えば、「どんぐりと山猫」に出てくる馬車別当はとても印象深いです。主人公の一郎が山猫の手紙をたよりに森へでかけ、さまよった末に出会うのが馬車別当です。この人、子どもからしたら相当不気味です。片目で、見えない方の目は白くピクピク動いていて、足がしゃもじのように曲がっているのです。普通だったら逃げ出してしまいそうな風貌です。でも、実は健気な男で、一郎も見た目で判断せず、まともに向き合って手紙の字のうまい下手について会話をします。そうしていくうちに、化け物だと思った男は山猫の手下として働く馬車別当であることが分かり、一郎にとっても読者にとっても仲間であることが確認され、何とも言えない安堵感をもたらしてくれます。それ以降は、これだけ不気味な姿をしている馬車別当の見た目が気にならなくなり、普通の登場人物として受け入れることが可能となるのです。

 このような仕掛けも、宮沢賢治ならではです。他の多くの童話作品であったら、その奇妙な姿に合うように、内面まで化け物のように仕立てて、比較的想定内なストーリーが展開されそうなものです。

 宮沢賢治の童話は、わざと少し嫌な気持ちにさせることで、何か大それたいいことが起きなくても安心させてくれる温かさがあるような気がします。

 幼い子どもたちは、大きくて欲望に満ちた大人が考えるような幸せや喜びよりも、親の愛情に包まれて、ただ安心して暮らせるという安堵感を何よりも欲しているのかもしれません。幼き頃に宮沢賢治作品に触れて感じたあの安堵感は、大人になって失ってしまったかもしれない本当の幸せとは何かということを思い出させてくれるようです。

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