見出し画像

1 序章

僕はこれまでの人生の中で、自称僕に何度か出会い、別れを告げた。

確か幼稚園のジャングルジムの上の方で、顔が挟まって抜けられなくなったんだ。バスのおっちゃんが助けてくれたんだ。その時すでに知ってたことがある。高い場所で反対側に力をかけすぎたままスポンと抜けたら、それこそ大変だって。だから僕は泣きながら対策をねっていたんだ。方針が決まる前に救出されたのだけど。

確か岐阜の山間部で、車の窓から紅葉を見たんだ。僕はミートソースみたいだって思ったんだよ。 

学校で星座の話を聞いたすぐあとだけど、キャンプ場のテントデッキの上に寝っ転がって気づいたんだよ。誰かが点を線で結んだんだねって。視覚の美しさより感動したんだった。


確かなことが君臨して、支配して、だからこそ僕は僕だった。


近所の犬が追いかけてきた。僕は小さな自転車で必死に逃げたんだ。交差点を飛び出してまで。

昆虫好きの親父の本を読む気になったんだ。棚から持ち出して帯をズタズタにしてしまったはずだけど。その本によると、虫ハンターは、ジャングルでチョウを追ってトラを追い越すらしい。

玉手箱を開けるかどうか聞かれ続けているような感覚だったんだ。でも僕は今でも、箱よりは亀に乗って海を潜る方に興味がわくんだ。

忠犬ハチ公がいつまでも待ち続けている理由は、おそらく銅像だからなんじゃないのかと思う。

スッポンの養殖はブリーダーを辛抱強くするんじゃないかと思う。だって、異様なまでに首がのびるのだから。


 自分に対する過失については、社会的責任は問われない。だからって犯していいってことにはならないってことには、生まれつき知っていた気がする人生を過ごして来たように思える。


一時期お笑い芸人なりたいって思っていた気持ちに邪念がなかったことは確かだけど、音楽を始めた時は邪念しかなかったことを認めたい。

大好きな野球選手への憧れから、瞬きに力を込めて頬を上げるようにしていた時期があるけど、同級生に気持ち悪いと言われてとても傷ついたことを、十年に一度くらい思い出す。

みんなで渡れば怖くない信号をみんなで渡るけど、取り締まりがくると、そそくさと逃げる卑怯ものだった。

すぐにやめてしまう飽き性と、発展型人間活動の中での移り変わりが早いのとでは、明確な違いがあると思う。

子供のころから何度もウォーリーを探してきたけど、ウォーリーが心配そうにしてる顔を、僕は見たことがない。蛇足だと自覚があるウォーリーに関する考察の自信作を投げ掛けるなら、ウォーリーは、世界中のコインロッカー事情に精通していると僕はみる。この考察が間違いで、放置してきた荷物を心配している彼にいつか出会いたい願望も少しある。


 結論づけるのに明確な根拠はおそらくない。だから僕に結論はいらない。木を見て森を見ず。それ立派な格言だとしても、知っているようで、実は理解できていないことってとても多いんだと思うんだ。単純に思考を重ねていけば、僕に言わせれば、地球を見て宇宙を見ずと行った方が、地球人が真実を知るには効率がいいように思うんだ。だとしたら、結論なんてその時時の仮説にすぎないと理解するべきだ。誰もが解らないんだよ。だから僕は結論を出す気は毛頭ない。


 ずっと昔に誰かに放った一言を思い出すと、ちょっと心がヒリヒリする。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?