6 後退科学的考察-2

小さな種火のはなし

焼きを入れて強くしたハガネの塊があって、火打石って呼ばれる火花が飛びやすい石に叩きつけて、その火花を小さな種火にランクアップさせるために工夫する。

例えば着火性のいい麻の繊維なんかを鳥の巣状にしたもので受け取るようなこと。

庭にあるそれっぽい石なんかでためしてもなかなか火花自体飛んではくれない。石によっては火花すら発生しない。こいつをうまいこと例の鳥の巣でキャッチするなんてことは、今の僕にはまだ大わざというしかない。

火種は小さいうちに消せと教わった気がする。出どころは覚えていない。大火事の元も、小さな火種から始まってこそオーガニック。ガスボンベなんかで一気に着火する方法もある。人間の英知が可能性にしたテクニックで、大気中の可燃物質を凝縮しただけのもの。細かく見ていけばこれも実はオーガニック。凝縮の効率と種類を換えていけば、驚異的な瞬発力を包有するに至る。地球の一つくらい吹き飛ばす。これも出どころはやっぱりオーガニック。

人間は、自らの英知で今いる場所を見失い、これからをコントロールできなくする。言葉の技術もまた、時に自らを見えなくする。印象や思い込み、一般通例などによって加えられた添加物は、物体がありのままの姿でいることを許さない。


物質からの開放

目に見えるもの、手に入るものの周りには、常に付加価値が漂っいるらしい。そいつも含めてバランス良く価値を認めて、バランス良く欲して行くといいんじゃないか。縛られざるをえない法則だけに縛られて生きる。そうすると意外と法則はシンプルだと気づく。必要なものはすでに揃ってるいる。その証拠に今日もまた生きながらえながら朝日を拝む。宇宙に生まれたからには法則に従うしかない。生き方はシンプルにかぎる。


大きな力を求める発想の根源はエゴじゃないのか。自分が救われますように。

自分に必要なものだけを必要な分だけ調達する。これはスマートで、結果的には共同体感覚の増幅につながる。あいつが困ってるからわけてやろうか。


例えば小さな種火なんかに関わってみたりすることで、思い出してくる本能のようなものがあるような気がしてならない。人間の技術スペックに自然の側は関心さえ示さない。身の回り、歩いて調達できるものだけでつくる食事を越える美味はおそらくない。随分前から文明は、勝ち目のない無駄な領域での悪あがきのゾーンで迷走している。答えは常に身の回りに無機質に横たわっている。気づけない人が多いだけなんじゃないのか。


暑い夏の日に味わった、ファンタオレンジの喉越し。ビールよりうまい。

夏は熱くて好きになれない。

大好きな夏のファンタオレンジと、大好きな芸術の秋。

移り変わる季節に、時々のリアリティの感触の中に俺は生きる。

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