3 多角俯瞰履歴抜粋

かならず鏡の前では鼻を細めていた人がいる。頭の中だ。頭の中にいる自分がそんな風なんだ。多分。

 コインをレジ前で落とした父を、なぜか哀れに思えた最初の体験依頼、ことあるごとに、他人に同情する癖がついた人がいる。こんな些細な勘違いが時に不具合の根源になってしまうらしい。悪意に基づかいない感情の産物がゆえに自力での解消が困難な事象は、大人時代に持ち込まれる場合が多い。やがて目線の高い大人になり、指摘を受ける機会には恵まれにくい。

幼稚園時代のごっこ遊びで、いつもドラゴンボール役を買って出ていた。ドラゴンボールが主人公だと思っていたからだ。

ヤドカリは意外と足がはやいと、中学生時に気づいた人がいる。

細い体の同級生に突き飛ばされて、ひたすら筋トレに励んだ結果、学年1のアームレスラーになった人がいる。


 秋の公園は深みを感じさせてくれる。ロクボクの色落ちとブランコのきしみは、この上ない優しいスパイスのようなものだ。でもいつからだろうか、僕はこういう気持ちになったとしても、戻りたいとは思わなくなったんだ。まだ中間期、例えばそれは鬱病に突入したての頃のような曖昧な時期に、戻りたいとは思わなくなったんだ。わけを話しておくと、記憶は過去の方から、その頃の僕を癒やすだけだったからだと思う。慣らしてしまったイマイチないまから、しばらく離れていられる場所が、生まれ育った町の公園だったんだ。まだまだ、その頃の僕は、果てしないと思えるほどの長い精神的な悪路が待っていようとは、想像もできなかった。だから単純にノスタルジーに浸ることができたんだと思う。

 軽い感じで、時に誰かの何かを思い出すとき、当時交わした言葉の中に、僕なりに込めた想いなんかを、今と昔で同じように感じたい心は、実は、今更浸るノスタルジーとしては、なかなか良い発想のような気がするけど、そんな風に思えたのは、さんざん鬱で苦しんだ後、ようやく復帰できた、ついこの前以降のはなしなんだ。記憶の中の誰かはその時の誰かであって、今はもう別人格とした方が、ある意味では平等な考え方だと僕は思う。過去の事象のほとんどを、気のせいで片付けてしまっていいんじゃないかと僕は思う。それを提案してくれたのは年下の女の子だった。でも彼女が唱える「気のせい」の魔法は、これまでの一度として、僕をなだめたことはない。なぜなら、その魔法は、厳密に言えば対処療法のような性質のものだからだ。中身はなんでもいい。そうやって中身を見ないのは、時間がないからでも、めんどくさいからでもない。見たくない何らかの理由があるからだ。僕は常に、鬱のどん底の時期においても、中身を見ない手法は取り入れなかった。あるものはそこにあり、起こる事象はそこで起こっているからだ。目を背けて荷物を背負いこまないのは、それこそ対処療法の側だろう。西洋的アプローチの限界と共に、頭打ちのときはやがてくる。東洋の実態は正直わからないことも多い。西か東かの住み分けはともかく、少なくとも僕は、ひたすらに、かたくなに、ボロボロになりながら必死で真実を見続けたんだ。いつからだろう。痛みを伴う感情が、アクションへの活力に変わりはじめたんだ。背負い込む荷物なんて存在しなかった。そして、他人と自分に優しくなった。だから思うんだ。「気のせい」の魔法を、鎮痛剤のように使うことも、それはそれで、否定はしない。リアルタイムの痛みを麻痺させながら、静かに話を聞いてほしんだ。そして聞かせてほしんだ。僕はひたすら、ただ一つのことを伝え続けるよ。


 山に逃げ込んだ盗賊が、そろそろいいだろうと恐る恐る山から降りてくる。ぼくはそんな山賊を、森の入口で待ち伏せるようなことはしたくない。玄関の扉をあけて、彼らが見て過ごした数日間の山の景色を聞きことに心を揺らしたい。

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