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パワハラ行為者が持つ「被害者意識(のようなもの)」について

※今回は、基本的にパワーハラスメントとモラルハラスメントについての投稿です。


最初は全く想像していなかったけど、自分がハラスメント対応にあたるなかで徐々に分かってきたことがある。それは、パワーハラスメント、モラルハラスメントの起きている現場で、行為者側が「被害者意識(のようなもの)」を持っていることが少なくないということ。

これが、舞台芸術業界の場合、かなり根深くあって、知れば知るほど、一度言語化しないといけないなと。

特にそれを感じるのがテクニカルスタッフがパワハラ・モラハラの行為者になっているケース。最初は単純に、テクニカルスタッフが稽古初期のハラスメント防止研修に呼ばれない(or 時間が合わずに参加できない)ので、ハラスメントに対しての意識のアップデートの機会がないのが原因なのかな、と思っていたりもした。

たとえば、ある稽古場で、テクニカルスタッフが演出家や制作スタッフなどに対してとても高圧的・威圧的で、そして作品に非協力的な言動を隠さず振舞っており(ため息をつくとか)、周囲が萎縮してしまっているケースがあるとする。

周囲からすると、なぜその人はそんな態度なのか不可解だし、稽古場にとっても、作品にとってもプラスのことは一つもないので「あの人は一体何なんだ」と不満が溜まる。そしてその威圧的な言動が原因で、誰かが能力を発揮することの妨げになっている場合は、この言動はハラスメントになる可能性が高い。

座組からすると、そのテクニカルスタッフのせいで、風通しの良いクリエーション環境が阻害されてしまっているともいえる。

そういったケースで、そのスタッフの話を聞いてみると、この「被害者意識(のようなもの)」がドロッとあふれ出すことがある。そして、その根源は今回の作品よりも、もっと前から始まっていたりすることもある。

自分が稽古場にいないときに、演出家が他のスタッフと決めてしまったプランを後から聞かされて「なんで事前に相談してくれないんだろう」と思った稽古が遅れても、初日がずらせるわけではない。そもそも十分な予算も組まれていない。限られた時間と予算を何とか自分の工夫と根性で、自分のおかげで、自分だからこそ、初日までに間に合っている。演出家や制作の詰めの甘さ、見積もりの甘さの、しわ寄せを自分がなんとかどうにかしてきた。でも、それを感謝されることはない。ずっと自分が割を食っている、そのことをちゃんとわかっているのか、気付いているのか。毎回、毎回、そう、ずっとそれを自分がやってきている。

そういう思い・不満が、積もり積もって、水がギリギリまで溜まったコップのようになっている。だからそこに1滴の水が落ちただけで、一気にあふれ出してしまい、周囲からすると「え、なんでこんなことで、この人はこんな威圧的な態度取るわけ??」と不可解な結果になっていたりする。

また、周囲からすれば、「それを伝えるのにそんな言い方しなくてもいいのに」という言葉遣いになっていたりするが(いわゆるチクチク言葉)、逆からすれば「ずっと配慮されてこなかったのは自分」という確信というか、強い思いがあったりする。自分のことをリスペクトしないんだから、自分も相手をリスペクトしない、という態度というか……。

私も舞台芸術の制作者なので、そういうケースを聞くと自分自身にも心当たりがありすぎて、ブーメランがぶっ刺さりまくるのだが、だからこそ「それをちゃんと言葉にして伝えればいいのに」「対話すればいいのに」とも思う。でも当人は「言っても変わらない」「言っても理解されない」「どうせ自分なんか」と諦めてしまっていることも多い。

難しいのは、「被害者意識(のようなもの)」が、この現場以前から蓄積してきていて、それがずっと、解消されずにきているときに、そもそもの根源はこの現場じゃない、今回の現場にとってみれば、とばっちり、八つ当たりになってしまっているケースもあるということ。また、蓄積され続けている「被害者意識(のようなもの)」があるので、今回の現場で起きたほんの少しの行き違いで「今回もやっぱりそう!」と、いきなりトリガーがひかれてしまうことがあるということ。

テクニカルスタッフを例に出したが、これは演出家も、制作も、俳優も、行為者側が「被害者意識(のようなもの)」を持っているケースはよくある。
そして言うまでもないが、テクニカルスタッフも多くの方はプロフェッショナル意識があり、気持ちよいコミュニケーションをされる方々であり、例に出したのは実際にハラスメントが起きたケースに置いての散見されるケースということ。

こういうケースの対応に入るときに、いつも頭によぎるのが「エンパシー」という言葉。ざっくり言えば、相手の立場になって意思や感情を理解するということ。

ここで誤解してほしくないのは、被害者の方が声を上げることについてとか、被害者側に加害者に対してのエンパシーを持てとか言っているわけでは全くない。ハラスメント対策に関わる立場として、ハラスメントの行為者がなぜか持っている「被害者意識(のようなもの)」の現象をどう考えればいいのかについての理解の方法、自分なりの現時点での考えとして書いてる。

たとえば、終演後に観客がゆっくりと客席でアンケートを書いているとき。舞台上の片づけがいろいろあるので、舞台監督が制作スタッフに「アンケートはロビーでも書いてもらうように観客に声かけてよ」と言ったときに、制作は「あと5分くらいだと思いますし、そのくらい待ってもらえませんか」ということがあったとして、ここにはそれぞれの価値観と、それぞれの「正しさ」がある。
双方に「相手の感覚がおかしい」としてしまうと、ただギスギスして終わるが、自分の正しさのみを押し付けるのではなく、「確かに、そちらの立場からすればそうだな」と思えるかどうかが、対話に繋げられるかどうかだと思う。

なので、ハラスメントに至ってしまう前に、「あれ?」と思った段階で対話をしておけるかが予防のためには重要だなと。危うい言動があった時に「あの人はこういう人だから」と決めつけて、対話もせずにレッテル貼って終わりにしてないか、ということを自分自身の肝に銘じる。

もちろん、どんな状況があったとしても、だからといってハラスメントをしていいわけでは当然ないし、リスペクトを欠いた、相手を傷つける言動はやってはいけないわけだが、自分が対応にあたる場合にはもう少し俯瞰して「何がその人をそうさせたのか」「この被害者感情(のようなもの)はどこからきているのか」という視点を持って対応するようにしている。そうしないと、本人も無自覚なまま、根本が解消されておらず、また違う現場で繰り返してしまうことになりかねないなと思う。

「被害者意識(のようなもの)」を蓄積し続けていると、それを正当化して加害的な行為をしてしまうのかもしれない。

そして、「構造」に気付くことも重要だ。小劇場とかの場合はそもそも全員がフリーランスだったりするので創作母体が曖昧だったりするが、創作母体(主催やプロデュースなど)が会社組織や実行委員などの枠組みがある現場の場合、個人同士の感情で否定しあう「その上のレイヤー」に目を向ける必要がある。そもそもこの構造にしているのは誰か、本当に変えるべきところはどこか、変えられる力を持っているのは誰か、指摘すべきことは何かということ。

社会全体として、構造から目を逸らし、個人同士の戦いに持っていき、個人どうしでつぶし合って、その搾取的な・不平等な・誰かにしわ寄せがいく構造自体は温存されるやり方が、あまりに巧妙に社会に仕組まれているんじゃないかなと思ったりもする。

これを読んだあなたが、もし「権力を持つ立場」であれば、(あなた自身が望まなくても、年齢や経験やいろんな理由でそうなるということは普通にあるので、「自分自身は全然そんな偉そうな立場じゃない」ではなく、構造としてそうだということをまずは客観的に・冷静に受け入れ)、その立場のあなたが、心に蓄積した「被害者意識(のようなもの)」を持っていないか、まずはこれを自己点検してほしい。
そしてまずは、適切にセルフケアしてほしいと心底思う。セルフケアの概念を持つところからかもしれない。

最後に、コミュニケーションについては、私がファシリテーターを務めている「知っておきたい芸術文化の担い手のためのハラスメント防止講座」(主催:東京都、公益財団法人東京都歴史文化財団 アーツカウンシル東京)の「アンガーマネジメント」「アサーティブコミュニケーション」の回がきっと役立つと思うので、ぜひ。(無料・年度末までアーカイブ視聴可能)


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