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好きなものがあること、他人に伝えられるということ

 私には好きなことが無い。いや、本当はあるのかもしれないけれど、それが“好き”だということを認識できない。自分でもいつまで引きずっているんだと思うものの、小学生時代に好きなものを笑われるという何気ない経験が、きっかけだったように思う。何にも興味を持たなければ傷つくことはないし、表現することをしなければ笑われることもない。

 なんで今更こんなことを考えたのかというと、最近、店や本やドラマなど自分の好きなものを紹介するという機会があり、どれも言葉が詰まって出てこない自分を再認識したから。他の人が自分の好きなものを楽しそうに紹介するのを見ていると、何も出てこない自分の空っぽさに愕然とした。毎回苦し紛れで紹介するものの、1度見たことがあるとか、大昔に読んだとか、自分の口から出てくるものは何故か全然説明できないものばかり。

 別に説明できなくたって、仕事でもないから全然問題はなかったし、そこで笑われたりしたわけではない。本当に紹介しているものが好きなのかな?くらいは思われたかもしれないけれど、別にその場で悪意を感じて嫌な思いをすることはなかった。
 けれど自分の思考は勝手に、自分の中には一体何が詰まっているんだ、無駄に生きてきたなと、自己嫌悪の沼に沈んでいく。

 思えば、最初に書いた原体験以降、自分の好き嫌いに関わることなどは、どうしたら笑われないかという気持ちがずっとどこかにあった気がする。その場その場で薄っぺらい無難そうだと思う何かを貼り付けては、本当の興味はないから何も残らずに剥がれていく。その無難そうというものだって、幻想ではあるし、何をもって?と聞かれたら答えに窮してしまうほど、何の根拠もない。
 ただ、何の思い入れもないからこそ、発言して笑われたとしても傷つかないのではないかという思いがあった。ただ、それだけなのだ。

 そして、その場しのぎすら上手く出来ない自分に落ち込むという意味のないことを繰り返している。最初に守りたかった自分の好きとか大切にしたかったものは、傷つきたくないという思いで塗り固めた結果、既に自分の中に見つけられないというのに。いや、今はもう本心で好きと言える何かがないからこそ、その場しのぎをせざるを得ない深みにはまっている。

 そんな調子だから語れるような趣味といえるものも、特にない。そんな状態が嫌で、ステイホームが声高に叫ばれていた期間には料理やモダンカリグラフィーやあみぐるみに中国語、自分が好きそうだとか当たりをつけることも出来ないまま、目についたものに手を出していた。ずっと当てもなく探している。何事も面白くなる前に止めてしまっているのかもしれない。友人には器用貧乏だなんて表現をされたこともある。

 好きなものがあるということは、自分の物差しが有るということだと思う。だから、好きなものを語れる人は輝いてみえる。
 他人にどう思われるか、なんて気にしても仕方ないことを気にしすぎなのだろう。他人に変わって欲しいと思うより、自分が変わった方が早い。
 でも別に、他人の生命財産を脅かすとか倫理に反するような事でなければ、他人の好みを尊重する社会であったらいいのに、と思う。

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