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面影残す軍艦島

「思い立ったが吉日」とあるように、何かを言葉で残したい時のツールとしてnoteは最適。自分のペースで振り返りながら、自分の言葉を紡いでいける。それを将来覚えていてもいなくても、今この瞬間を切り取って残しておくことができるのは良い。言語化できないものは、心の中にしまっておきながら。

こんにちは、ヤマトです。

長崎県にある端島(通称:軍艦島)に行ってきました。高校時代に修学旅行で長崎は訪れていて、班行動で軍艦島に行くチャンスもあったのですがその時は行かず。約9年ぶりにリベンジを果たすことになりました。それにしても、「あの時からもう9年・・」と思ってしまうことに、時の流れの早さを感じます。

ツアーに参加して上陸しました。
写真撮影はOKなようです。

繁栄を極めた一時代

軍艦島といえば、炭鉱。3年間住んだ筑豊・田川と同じ日本有数の石炭発掘地のイメージがありました。実際に軍艦島では、明治から昭和にかけて良質な石炭を発掘していて、年間25万トンほどの出炭量だったそう。筑豊炭田が年間200万300万トン発掘していた時代なので、量こそ多くないものの、軍艦島ならではの唯一の特徴を聞くことができました。

それは、黒字の状態で閉山していること。

筑豊の歴史を遡るとわかりますが、石炭産業で潤っていた地域はだいたい、石油へのエネルギー革命によって仕事を失ったり生活が苦しくなったりと、衰退の道を一気に辿っています。それに対し、軍艦島では閉山後、島民が島を離れたこともあってか、黒字の状態で有人島としての歴史を終えたと聞きました。

また、その当時の軍艦島の繁栄ぶりがまたびっくり。テレビの普及率なんかは、日本全体でまだ10%だった時に、ほぼ100%だったとのこと。島が広くない分、建物は高さを出す必要があって、屋上農園や保育所、日本一高層の小中学校が立ち並んでいたそう。当時にしては最高峰のレベルだったらしいです。島だとありがちな、買い物の不便さや医療体制の不安さもなく、南アなら娯楽施設までも充実して整えられていたみたい。

老朽化が激しく、
現在進行形で崩壊しているそうです。

過酷な石炭発掘の仕事をする代わりに、高い生活水準を享受していた軍艦島の人たち。世界一の人口密度と呼ばれるくらい、ぎゅうぎゅうに人が住んでいて、共同浴場では裸の付き合いをする。毎年の地域行事やお祭りで団結を深める。家に鍵をかけることもないくらい互いを信頼している。警察官が常に暇をしていて、牢屋には常に人がいない。いるとしたら頭を冷やしたい酔っ払いが一夜だけ。

そんな話を聞いていると、ただただ温かいつながりがたくさんあったのかなと感じます。島特有の人間関係と炭鉱の繁栄、そして閉山とともに島を離れて新しい環境に身を置いた人々。炭鉱地域特有のマイナスなイメージを抱くこともなく、「なんだか楽しそうだなあ」と思ってしまうくらい、ポジティブな話ばかりでした。もちろんあくまで、一側面だと思いますが。

プールの跡地。
うっすら面影が残っています。

歴史認識を問い正して

一緒に行ったメンバーは、軍艦島の印象の落とし所に迷っていました。韓国で軍艦島について学んだ際には、軍艦島の負の側面が強調されていたと語っていました。朝鮮労働者を抱えていたことに対して、見方や考え方が異なるのも無理はありません。

水俣、知覧、そして軍艦島。歴史的な背景があって今に繋がっている地域に、ここ1年で行くことができました。歴史の捉え方は人によってさまざまです。でも、インターネットで調べるだけではわからない、その土地の空気感や史料。そこへ実際に行かなければ得られない、あるいは感じられない学びがありました。どんな見方考え方をするかは人によって自由ですが、実際に訪れることを繰り返しながら、自分なりのモノサシを持てるようになりたいものです。

ここまで。ありがとうございます。

読んでいただきありがとうございました!