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「記憶と記録」のツーリズム──松山のモダニズム建築をめぐる。

『月刊ビル』というリトルプレスがある。1950~1970年代に建てられたビンテージビルをこよなく愛するBMC (ビルマニアカフェ)というメンバーが発行する20ページにも満たない冊子なのだが、毎号ひとつのビルを取り上げ、独自の視点を通してそのビルが持つ魅力に迫る編集で人気がある。決して古ビルマニアのためだけでなく、昭和の時代が醸し出す雰囲気やレトロな世界観が好きな方であれば存分に楽しめるシリーズだ。月刊と銘打ってはいるが、不定期で刊行されるのはご愛嬌。その『月刊ビル』の最新刊8号(※2022年7月発行)で取り上げられたのは、大阪の印刷資材メーカーであるニチラン本社ビルこと日本欄罫らんけい工業本社ビル。実は既に解体されてしまったビルで、移転に伴い社屋を手放す直前にビルオーナーのお嬢さまから連絡があり立ち会うことが出来たのだとか……。活字の欄罫の鋳造をしていた作業場跡や、趣のある階段に手摺、一家団欒の様子がうかがえる住居部分など、在りし日の思い出が各頁から伝わってくる記念号となった。

昭和の優れた建物を愛でるBMCが不定期で発行するリトルプレス。 第8号の特集は日本欄罫工業本社ビルをピックアップ。惜しまれながらも解体されてしまったビル。

老いていくビルたち

今、この辺りの年代に建てられたビルが存続危機の憂き目に遭っている。目新しいところだと建築家・黒川紀章(1934-2007年)によって設計された銀座の「中銀なかぎんカプセルタワービル」(1972年竣工)が、老朽化により昨年ついに解体されてしまった。合計140個もの直方体のカプセルを模した部屋は、隣室との壁を共有しない独立した居住空間となっていて、大きな丸窓に作りつけのデスクやテレビ、オーディオ装置など、それは星新一のショートショートにでも出てきそうな近未来を予感させる集合住宅であった。隣県に目を向けると高松市では、戦後建築を代表する建築家・丹下健三(1913-2005年)が設計した「旧香川県立体育館」が解体に向けた準備を進めているとのこと。和船を想起させる形から「船の体育館」として親しまれてきた建物も“体の衰え” には抗えないのだ。

正恒を温ねて新しきを知る

松山にもいいビルはたくさんある。前述の丹下健三は「愛媛県民文化会館」(1985年竣工)を手がけているし、「道後館」(1989年竣工)は黒川紀章によるもので、館内のアートな階段が有名な「坂の上の雲ミュージアム」(2006年竣工)は安藤忠雄建築だ。そういった松山の建築を探るなかで外せない建築家がいる。愛媛県大洲市出身の建築家、松村正恒まつむらまさつね(1913-1993年)である。よく知られているところでは八幡浜市役所の職員時代に設計した八幡浜市立日土小学校(1958年竣工)であろうか。採光を考慮した連続する大きな窓、鉄骨のはり筋交いすじかいを用いた合理的な構造など、装飾を極力排し、直線や平面で構成したシンプルな造形が特徴のいわゆるモダニズム建築の本質がここでは見られる。松山市内では福音寺町にある「日産プリンス愛媛販売」(1963年竣工)や、持田もちだ町の「持田幼稚園」(1967年竣工)、中央通り沿いの「城西自動車学校」(1976年竣工)のほか、千舟町にある病院「河野内科」(1967年竣工)も松村正恒建築とのことで、ぼくのお店のごく近くにあるということもあって、こちらを訪ねてみることとなった。
ナビゲーターは、日本に今も残る優れたブルータリズム建築をフォトシューティングしたリトルプレス『日本のブルータリズム建築』を2022年に上梓した阿部真あべまことさん。阿部さんは同じく古ビルマニアである村上香織さんとともにInstagram上でabedotcomとして活動をされていて、その界隈では名の知れた人物である。同じ年の夏には松山市内の古ビルをめぐるツアーの案内人としても抜擢され、20ヶ所ほど案内したうちのひとつに河野内科も含まれていた。

※ブルータリズム建築
第二次世界大戦後の1950年代に世界中で流行した建築様式で、英国の建築家、アリソン&ピーター・スミッソン夫妻が呼んだことからこの名称が定着したとされている。コンクリート打ちっぱなし、ガラスや素材をそのまま活かした装飾、直線を主体としたシンプルかつ大胆なデザインが特徴の建物のことを言う。

東西に伸びる千舟町通り。2丁目交差点の角に佇む河野内科。東南で日当たりも良好だ。

老建築稼の歩みを辿る

阿部さんも一推しの「河野内科」に赴くと、院長の奥さまである河野道子こうのみちこさんと、松村正恒先生と交流が深かった四国ホーム株式会社(三井ホーム)の神谷教彰かみたにのりあきさんが笑顔で出迎えてくれた。
「松村先生のことはこれに全部書かれてありますから。お読みになられたことはありますか?先生が亡くなられて2年ほどして奥さまが編集に携わられた本です」
神谷さんがスッと差し出したのは『老建築稼の歩んだ道』という書籍。これは1995年に青葉図書から出た本だが、絶版となっている。まったく同じものではないが、今手に入るものとしては『老建築稼の歩んだ道  松村正恒著作集』(鹿島出版会 刊)があるので興味のある方はこちらを手に取ってみてほしい。一級建築家や二級建築家なんていらない。時には自らを無休[給]建築士と呼び、頭で考えて心でつくるという独自のモダニズム建築を追求した松村正恒の心意気や思索の轍が読み取れる一冊となっている。

建築家と呼ばれるには条件がある。それは資格ではない。手で設計するのは最低で、頭で設計するのも頭の中身が透けて見え、嫌味で臭みがある。心で設計し、虚心に設計するのがホンモノ──と説く。
1991年9月。自宅付近を散歩する在りし日の松村正恒。(撮影:浅川 敏)

前述の「日土小学校」は松村が設計した木造モダニズム建築として貴重な存在となっていたが、2004年の台風襲来により大きな被害を受けたことから建て替えを望む声も大きくなった。保存か改築かという紆余曲折を経て保存再生ということに決まり、2009年に耐震補強と修復工事が完成した日土小学校校舎。2012年には国指定重要文化財の指定を受けることとなった。

救出された図面と画稿

「松村先生と知り合ったのは、先生がお亡くなりになる数年前……1985年からの3年間で三井ホームの図面を「松村正恒建築設計事務所」を通して3軒ほど関わっていただいたことからです。実際に書かれたのは事務所に所属されていた建築士の二宮初子さんでしたが、完成後の飲み会には松村先生も参加されていたんです。お酒が好きな方でした(笑)」
「河野家の自宅(※現 院長の河野邦彦邸)を建てたのは30年ほど前で、設計から施工を三井ホームさんにお願いしたの。当時、神谷さんはそこの現場監督だったのね。いろいろとお話をしていると祝谷いわいだににあった義父ちちの自宅のことにもお詳しかったから、「何でですか?」って伺ったら、設計士の松村先生と親しかったので祝谷もこの病院のことも詳しいんだとのことだったの」
すかさず道子さんが補足をしてくださる。そして、神谷さんからこんなのもありますよと見せていただいたのは、何やら図面のようだ。
「松村先生が設計された(祝谷にあった)河野邸の図面です。昭和38年の日付も入っています。家は5年ぐらい前に解体して今は駐車場になっているのですが壊したのはもったいないですよね。これ、実は私がゴミの中から発掘したんです。スケッチされた絵もありますけど応接室や居間は天窓が描かれてあって採光のことをよく考えられてますよね」
これは神谷さんのお手柄である。松村正恒手描きのラフスケッチなんてかなり資料価値が高いのではないだろうか。

松村正恒が引いた図面と手描きのラフ画。今となってはとても貴重なもの。
河野邸の新築工事図面には、昭和38年(1963年)3月4日「松村正恒建築設計事務所」と記されている。

「面取りタイルは特注品ですし、窓には面格子もあったんです。他にもカウンターキッチンがあったり、壁に仕込まれたテーブルにアイロン台や照明器具も。どれも父が要望を出したわけではなくて、松村先生が設計した作り付け家具だったんですよね。60年ほど前の当時にこういったのって珍しいと思いませんか?松村先生は未来を見通していたのかなあって思うんです」
道子さんも在りし日の(ご主人の)ご実家には想いが残っておられるようだ。

音楽を愛でたお父上

松村正恒は1960年に『文藝春秋』の5月号で日本の建築家十傑に選出された後、同年「松村正恒建築設計事務所」を松山市内に開設する。道子さんのお義父とうさまと松村先生は1961年に創立された「松山東ロータリークラブ」でご一緒だった頃に知り合い、そのご縁で祝谷のご自宅と病院(河野内科)を建てることをお願いすることになったのだ。
「父は見積りとか金額とか一切言わず、「ええもんつくってや」のひと言で、予算については一切触れずお任せでお願いしていたんです。ほんと凄いですよね。オーディオルームもあって音楽も好きな方でした。ヴァイオリンも弾いてましたし、新聞にも掲載されたことがあるんです」
話のなかで、お父上の国光くにみつさんは愛響あいきょうの名で親しまれている愛媛交響楽団を創設された方ということがわかり、これには驚いた。
「チェンバロという楽器をご存じですか?50年以上前には四国に1台しかなかったの。父が亡くなった時に「自叙伝はおこがましいので思い出譚としよう」と書いたものが出てきたんですけど、それを読むと当時盲目の少年に音楽の才能があるということを父が見出して、チェンバロを取り寄せて弾かせたこともあったようなんです。「チェンバロの音色に魅せられてドイツの楽匠に直接注文(電報にて)。オーストリア国境からライン川をくだり、ハンブルグから海路、神戸へ。それに要するに10ヶ月あまりかかった。これは50年以上前の話である──」って、文も見つけたの。チェンバロを何処かに寄付しようとも考えたんだけど、実は今、私が習ってるんです(笑)」
チェンバロは楽器のお姫さまと言われているぐらい取り扱いには繊細さが要求される。調律もできる人が限られる上、年に5回ほど必要なんだとか。道子さんが受け継いでくれたことでお義父とうさまは雲の上で喜んでいることだろう。

明るく清潔感のある1Fロビー。左から阿部さん、道子さん、神谷さん。松村先生の思い出に話がはずむ。

いざ、院内探検へ

さて、話がひと通りはずんだ後はお待ちかねの院内探検に出発とあいなった。
「ここの病院は水道水の他に井戸水も使えるようにしているんです。いい水脈があることがわかったので病院を建てるときに掘ったんですけど水質はお墨付きなんですよ。ほら、千舟町って千の舟と書くでしょう。水に縁があるんでしょうね。2階から4階までは入院設備もあって、全部で19床。入院も10年前までしていたんだけど、主人も60歳過ぎたら入院はやめると決めてたので今はもう使ってないの。そうそう……河野家は江戸時代から医者をやっていたので上には駕籠かごも残してあるのよ。河野の父のお父さまは駕籠で往診していたそうよ」
なんと、駕籠!時代劇なんかでよく見るあれだ。どうしても拝ませていただきたくなり、ご無理を言って明るい場所にまさしく担ぎ出すこととなった。薄暗い倉庫の奥で眠っていた駕籠は、日の射す階段の踊り場で起き抜けのキョトンとした顔をぼくたちに見せてくれた。

倉庫の奥で静かに時を過ごしていた駕籠。神谷さんと阿部さんの手を借りて外まで担ぎ出す。
初めて見る駕籠に胸が高鳴る。江戸時代はこれに乗り往診をされていたのだとか。160年の時を超えてタイムスリップ。

ここからは神谷さんを先頭に階段で上階へ──。
「エレベーターもありますね。ここが出来た60年ほど前に個人病院で備えていたのは凄いとい思います。2階は院長室があって、ここの水は手洗い用で井戸水が使えるようになってます。院内で給食用として使ってた水は水道水ですよね。ここからベランダに出られますがご覧になられますか?」

現在も稼働中のエレベーター。院長室の左隣は事務室になっている。
各階には小ぶりな流し台も備えられていた。背面にはお手洗いがある。

広さは普通のマンションぐらいだが、表の通りから見上げた時にはわかりにくかった防火壁もちゃんとある。特徴的なのは手前に斜めに傾けられた手摺りだろうか。床は外から見ると鋭角的に張り出しているひさしを兼ねた屋根となっているが、ここは松村建築の要となっている部分である。

「花壇に水をやるパイプでしょうかね。下の方についているのは洗濯物の竿受けなんでしょうか。外から見えないように配慮してるのかな?」
阿部さんも院内に入ったのは初めてなので興味津々である。

この角度から見上げるとよくわかるバルコニーの鋭角的な屋根。重厚な柱も魅力。
手前の方向に傾けられた手摺り。土の部分は花壇として使われていたのか、水やりのパイプも通っている。下側に設置されている竿受けに注目。
靴を脱いで上がる。和室の畳も年季が入っているが、こうして切り撮るとデザイン的にもいい感じ。
和室の個室は初めて見た。コンパクトな部屋だが落ち着いて過ごせそう。

時は綿々と流れゆく

「こちらは入院で使われていた病室ですね。畳敷きの和室もあって…いい個室だねえ。和室じゃないとっていう患者さんもいらっしゃったんでしょうね。いやあ、これまた古いエアコンだなあ」
神谷さんの声に目を向けると病室には懐かしいビーバーエアコンが設置されていて、なんと有線リモコンの仕様。年式を確認したが残念、わからなかった。南に面した病室は冬だというのに大きな窓から明るい日差しが注がれている。患者さんたちも気持ちよく過ごせたんだろうなあと思わず感じ入る。他の部屋も見て回ったが、懐かしい品々がそのままの姿で残っていた。

家庭用ルームエアコンのブランドネームとして1970年にが誕生した三菱重工の「ビーバーエアコン」。懐かしい有線リモコン仕様。レトロなデザインが今見ると新鮮。
診察や治療に使っていたのであろう器具たち。奥にあるケースもしっかりした造り。
手回し鉛筆削りにアイドル時代のキョンキョン(小泉今日子)のシールが。懐かしい1980年代。
まだ使えそうな医療機器も部屋の隅で時の流れに身を任せているかのよう。
日当たり良好な病室。眺望も良く、過ごしやすかったのではないだろうか。

モダニズムの真髄を見る

4階の病室は番号が501号室のように5から始まる番号が振られている。4は「死」を想起させる番号なので使わないのだとか。さらに上へと足を向ける。
「ここが最上階の5階ですね。広いルーフバルコニーになっていますが、ここに洗濯機を置けるような場所があるので、物干しをされてたんじゃないでしょうか。それと……ここからだと東南角の柱がよく見えますね。最近は山の石を砕いた砕石を使ってますけど、この柱は川砂利なんです。角が無くて丸いので、コンクリートがよく詰まって密度が高いことから割れにくいんですよね。基礎がしっかりしているのでこのビルは頑丈で地震でもびくともしません」

南西角からの眺めも抜群。陽が手前まで燦燦と降り注ぐ。
5Fの広々としたルーフバルコニー。頭上は抜け感があって開放的。
川砂利を使用したことで密度が高く、頑丈な柱。こうして内側から眺めるのもいい。

ここから先は屋上だ。外からだと設置されてる様子がわからない螺旋階段をのぼって上に出た。なかなかの絶景だ。下のバルコニーを見下ろすと美しい造形と眺望とが合わさって見惚れてしまう。焼却炉の排気筒もいいアクセントとなっている。

屋上へ通じる螺旋階段。頭上の開口部が素敵。
地上からでは決してわからないルーフバルコニーの上部。こうした梁とも言える部材がデザイン的に配置されていて、これぞモダニズムな松村建築の特徴が感じ取れる。
1F北側にある焼却炉の排気筒。角も丸みを持たせて、こういったところにも手をかけているのは流石。

ひとしきり見渡した後、院内探検はお開きとなった。
「院内を見せていただいて、もちろん病院なので設備に奇抜さや近未来的なデザインはありませんが、病室やスタッフルームなどのドアの上に取り付けられた欄間窓らんままどやフロアごとに異なる色のタイルが貼られたトイレなど、ちょっとした工夫が施されていたのに気づきました。見事だなと思ったのは、階段の壁やエレベーターを囲む壁のすべての角と屋上の四角柱の排気筒にまで施された曲面仕上げや階段の壁から窓に向けて斜めにカットされた意匠、そして屋上にあがる螺旋階段のためにまるく開けられた開口部など、細部まで手を抜かずにデザインされていたことです」
阿部さんも彼ならではの視点で冷静に観察されていたようだ。

ドアの上には光や風を取り入れるための開口部となる欄間窓が見られる。
階段に備えられた艶のある木製手摺り。時を経たからこそ生まれる美しさというものがある。
階段踊り場の壁に施された曲面仕上げとそこから窓に続く斜めにカットされた意匠が見て取れる。

託したい未来へ繋ぐバトン

道子さんと神谷さんにお礼を言って外に出る。
あらためて下から眺めてみると存在感がひときわ目立つ建物だ。阿部さんに松村建築としての河野内科の魅力はどこにあるのか聞いてみた。
「ぼくにとっての河野内科の最大の魅力は、その近未来的な外観です。斜めに張り出した各階のバルコニーとアールの効いたデザイン、エントランスでもある交差点の角にそびえる堂々たるコンクリートの三角柱の圧倒的な存在感は「人類の進歩と調和」の大阪万博も近づく1960年代後半、未来はどこまでも明るいものだったんだろうという空気を感じさせてくれる気がします(実際には公害や水質と大気の汚染がとんでもなかったとしても)。眺めるベストポジションは、斜め向かいの交差点の角と、コンクリート柱の根元に立って見上げるポジションですね。あとは、千舟町通り側の1階壁面のガラスブロックに施された「KONO CLINIC」の遊び心も見逃せません」

ガラスブロックに施された「KONO CLINIC」の文字は傍を通ると気づかないかも。道路を渡って遠方から眺めるのもおすすめ。
西側壁面を見上げると、ここにも見事な意匠が見られる。絶妙な長さと奥行きの庇に、西日対策として窓には可動式の格子が備えられている。

阿部さんはさらに続けた。
「老朽化から、後継者が見つからなければ取り壊す可能性もあると伺い、じゃあ買い取るなどとは到底言えないですけど、1960~70年代の近代建築の価値を認めて残す動きが高まることを願わずにいられないですね……」

河野内科は院長先生もご高齢なことから今後のことを考えてしまう。河野家は御子息も大阪の大きな病院でお医者さんをされているそうだ。ただ、道子さんは後を継ぐかどうかは本人次第だし、今の時代そういう考え方はもう古い──とおっしゃられていたのが印象的だった。おそらくはこの建物を活用する方法も模索されてることだろうし、部外者のぼくたちが思いを馳せるなんて大きなお世話かもしれない。

星の家に魅せられて

さて、ここからは場所を変えて、一路南へ──。
今年の初めに友人の陶芸家である杉浦夫妻から、結婚して一年ほどは公営住宅にお住まいだったという話を伺った。時は1999年、愛知県瀬戸市にある県営菱野団地とのこと。なんと黒川紀章設計のニュータウン!なんでも自分たちの部屋は通称「スターハウス」と呼ばれる変わった住棟だったそうで、純然たるモダニズム建築ではないにしろ、お話を聞いてるうちに俄然興味が湧いてきたのだ。その場に居合わせた阿部さんも松山に今でも残るスターハウスをご存知とのことで、この機会にご案内いただくこととなった。

阿部さんのお話によると、スターハウスとは1950年代を中心に広まったY字型の集合住宅のことで、敷地内に点状に配置される「ポイントハウス」と言われる住棟のひとつだそうだ。生みの親は現在の都市計画コンサルタント「市浦都市ハウジング&プランニング」の創始者である建築家の市浦健(1904-1981年)によるもの。その見た目から「星型」と呼ばれていたけれど、実際は星というよりもクローバーや三叉手裏剣 のような形に近いと言える。1フロア3戸の部屋を有し、間取りは2DKか3K。建物中央の三角形部分の吹き抜けを活かした階段室が設けられていることからすべての部屋が角部屋になり、また日当たりにも優れているということで好評を博したようだ(杉浦夫妻が暮らしていたのは最上階の5階で、明るく風通しのいい部屋だったとのこと)。その多くは公団であったけれど、民間でも広まっていったことからその人気ぶりが窺える。しかしながら、1960年ぐらいから公団の供給量が増えいていく中で外壁量の多いスターハウスは建設コストが高いということから廃れていったようだ。平成に入ってからは次々に取り壊され姿を消していくなかで、保存の声も高まりを見せる。2019年には東京の赤羽台団地のスターハウスが国の登録有形文化財になるなど、文化財・文化遺産としての価値が見直されてきたのは喜ばしい。

現存するスターたち

松山市内で「スターハウス」といえば、まずは県営東石井団地である。9棟のうちの2棟がスターハウスで、残りはよく見られる板チョコを横に立てたような直線状の板状住棟だ。
「個人的なノスタルジーですけど、小学校低学年までを過ごした東京都小平市には「西電」「東電」と分けて呼ばれるほど巨大な電電公社の職員団地があって、仲の良かった同級生の家が何棟かあったスターハウスのひとつで、子ども心にかっこいいなあと思って憧れていたんです。ぼく自身も(電電公社ではない)父親の会社の社宅に住んでいて、そこは板状住棟で3棟建とこじんまりしていたので、電電公社の壮大な景観にちょっとわくわくしながら、カラーバットとカラーボールで草野球に勤しんでいたことを思い出します」

3号棟はおめかしをして綺麗な外観に──。誇らしげな山高帽。1F入口横に見えるのはダスト・シュート?

「この団地にあるスターハウスは、屋上に大きく山高帽のように乗った(おそらく貯水槽を覆っている)コンクリート部分に重厚さが感じられて好きですし、エントランス側の壁面にあしらわれたガラスブロックもとても魅力的ですね。2棟のうち1棟は最近、外壁が綺麗に塗り直されたので、まだこの先残ってくれるんだなと安心しています」
阿部さんの解説付きで実に頼もしい。中央の吹き抜けから見上げる階段の光景も実に美しくて興味深く見入ってしまった──。

6号棟は建設当初のままだが、こうして見ると趣が感じられる。
三角形部分の吹き抜けになっている階段スペースは見上げると今風に言ってエモいって感じだろうか。

次に向かったのが市営和泉西団地で、東石井団地から西に3kmばかり並行移動したところにある。ここは22棟あるうちの1棟がスターハウスだ。団地をGoogleマップ上で確認するとスターハウスということがよくわかって面白い。阿部さんによればこちらは老朽化からすでに取り壊しが決まっているようで、まもなく見納めとのこと。気がつくと先ほどまで青空だったのがだんだんと雲が広がってすっかり曇天に変わってしまっていた。真昼だと言うのに周りに人の気配が感じられず、ひっそりと佇むスターハウスを眺めているとアイルランドの荒涼とした風景が頭に浮かんだがそれはちょっと言い過ぎか。

「坊っちゃんスタジアム」にもほど近い市営和泉西団地は22棟あるうちの21棟目がスターハウスだ。
隣接する建物はかなり離れている。日照時間やプライベートスペースの確保から広いスペースを空けて建てる必要があったため、かなりゆとりのある配置になっている。

記憶は浮気者うわきもの、記録は律儀者りちぎもの

「和泉西団地もできればスターハウス1棟だけを残して何か再利用してくれたらとも思いますが、あまり無責任にパッションだけでものを言ってはいけないということもわかってはいます。老朽化などしかたがないとはいえ、一介の建築ファンとしては何をすることもできす、寂しい気持ちになることもしばしばです……」
訥々と語る阿部さんの言葉が染みる。

「河野内科の話に戻りますけど……日土小学校が重要文化財となって、定期的に見学会がおこなわれていますよね。松村正恒が設計した建築物が松山市内をはじめ愛媛県内にまだ多く残っていることはそれほど知られていないように思います。そういったことで認識される機会も価値を認められる機会も与えられていないことが残念だなと強く感じます。松村建築を松山市内だけでもリスト化のうえ見学ルートを設定することで、日土小学校に足を運ぶ人が「松山市にも作品があるのか!」と前後に立ち寄っていただけるようになるのかなと思います。建築物と建築家松村正恒の認知度と評価を高められますし、日本各地に意外とたくさんいる建築愛好家たちが松山を訪れるきっかけのひとつになるのではないでしょうか」

こっちでは 水に流してしまった過去を
あっちでは ごつい石に刻んでいる
記憶は浮気者 記録は律儀者
だがいずれ過去は負ける
現在に負ける 未来に負ける
忘れまいとしても 身内から遠ざかり
他人行儀に 後ろ姿しか見せてくれない

谷川俊太郎「記憶と記録」より

建物は壊してしまうと同じものは二度とつくれないし、人々の記憶も風化して都合よく変わっていってしまう──。その点、記録は正直だ。だけど記された時点でそれはもう前にはいけないことを表している。ノスタルジーだけでは未来に向かって進んでいけないけれど、活かす方法もあるのじゃないのかしら?なんて自分の店でぼーっとしていると、棚にある『月刊ビル』の表紙がふいに目に留まった真冬の昼下がりであった。


【河野内科】
住所:〒790-0011 愛媛県松山市千舟町2丁目7-1
※院内の見学は出来ません。
【県営東石井団地】
住所:〒790-0932 愛媛県松山市東石井4丁目4-1
【市営和泉西団地】
住所:〒790-0941 愛媛県松山市和泉南6丁目9-10

今回の書き手:越智政尚
松山市出身・在住。「文学のまち松山」でBOOK STORE 本の轍を営むショップキーパー。休日は映画を観たり、レコードを聴いて過ごしたり、暮れゆく空を眺めるのがお気に入り。MORE BOOK , MORE TRACKS。
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