サンドバッグをアイツの顔に見立ててとにかく殴り続けたんだ(大学デビュー天下獲り物語④)

第4話です。

前回の③の続きです。



ケンカに負けて強くなるためにボクシングジムに通った話しです。

熱い修行編です。

これは中学・高校とかじゃなくて、大学のときの話しです。

気分は「はじめの一歩」でした。

サポートもよろしくお願いします!


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家から車で40分。
僕が通い始めたボクシングジムは川のほとりにある寂れた小さなジムだった。

そもそも宮崎にはボクシングジムが数件しかなく、僕はその中でより家から近い方を選んだ。

正直強くなれれば、ボクシングじゃなくてもよかったが、「はじめの一歩」ど真ん中世代の僕は、ボクシングが強くなる最短ルートだと思った。

なにより金髪坊主の顔を殴ったときの、あのペチンという音。
あの情けない音が頭から染み付いて離れなかった。
あんなパンチしか打てなかったことが、とても悔しかった。

ボクシングジムには僕を含めて会員が10人ほどしかいなかった。
その中でも熱心にジムに通ってるのは4人。
後の人は時間帯もあるが、あまり顔を合わせることはなかった。

ジムの会長は、ボディービルダーくらいマッチョな58歳。65歳になれば、忍者になるためにジムを畳んで伊賀へ行くと言っている、嘘みたいな人だった。

ジム1番の古株である谷岡さんは、ボクシング歴30年の45歳。昔はプロとして試合もしてたこともあるらしいが、今は試合などに一切出ることはなくただジムで体を鍛え、なぜかずっとキックの練習をしていた。

他にも宮崎大学医学部のプロボクサー、山本さん。
そしてめちゃくちゃな格闘技センスを持っている天才高校生竹下君など、個性的なメンバーが揃っていた。

最初、緊張しながらボクシングジムを訪れた僕にジムの会長が目を瞑り座禅を組みながら、こんな質問をしてきた。

「なんで、ボクシングをやりたいんや?」

なんかドラマみたいだった。
会長は忍者になるために1日2時間は瞑想の修行をしているらしい。
僕は正直に答えた。

「本物になるためです。」

「本物?」

「本物の強い男に。」

「そうか…」

会長は目を開けて、立ち上がった。

「着替えて、鏡の前に来なさい。」

そこから僕はジャブを教わった。
僕が鏡に向かってジャブを打ってる間、会長はどこからともなく竹刀を持ってきて、「滅っ!」と言いながら鏡に向かって竹刀を振っていた。
谷岡さんはジムの奥で、サンドバックに一心不乱にヒザ蹴りを打ち込んでいる。

もう一度外に出て、ここが本当にボクシングジムか看板を見に行きたかった。

1時間ほどジャブの練習をしていると、会長がボロボロの入会用紙を持ってきた。

「次に来るときにこれを書いて、入会金と月謝を持ってきなさい。月謝は8000円。入会金は、2000円まけてやろう。1万3000円でいい。」

なぜか2000円安くなった。
僕の「本物になりたい。」という答えが会長のツボにハマったのだろうか。


こうして僕は本物になるために、ボクシングジムに通うことになった。
行ける限り平日は毎日のように通った。

最初の頃は遠くても、他のジムにしておけばよかったと思ってたが、僕はこの寂れたよく分からないジムが次第に居心地がよくなっていった。

なぜならここのジムの人は、強くなることへただ純粋だ。
「ボクシングジムだからボクシングしかしない。」とかではなく、強くなるためにあらゆる練習をしている。
キックの練習であったり、忍者になるための修行であったり。
医学部プロボクサーの山本さん以外、ほとんどボクシングの練習なんてしていない。
高校生の竹下君も、寝技をずっと練習していた。

そしてよく「ボクシングをしたら、素人に手を出しちゃいけない。」なんて言われてるが、多分ここの人達はバンバン出していた。
「ムカつくヤツがいたから、しばいてやった。」みたいな話しを会長と谷岡さんが笑いながらしてるのをよく聞いた。

会長は一度、街のクラブに行ってみんなが踊ってる中、1人でシャドーボクシングをして、それを笑ってきた若者をしばいたらしい。
100%で会長が悪いと思ったが、僕もしばかれたら嫌なので何も言えなかった。

走り込みに行くと言った竹下君が、ジムの裏でタバコを吸ってても、発見した会長は特に注意もしなかった。
会長の中では、強ければ高校生だろうがタバコを吸っててもいいのだ。

僕はというと、ただボクシングのみに打ち込んだ。
あの金髪坊主の顔にペチンとなったあの右ストレート。
とにかく、あれを一撃で吹き飛ばせるくらいの威力にしたかった。

ストレートを覚えてからは、狂ったようにサンドバックを殴り続けた。
毎日拳の皮がめくれ、血が出るくらい殴ったが、不思議と殴ってる最中は痛みを感じなかった。
サンドバックを金髪坊主の顔に見立てて殴ると、いくらでも殴れるのだ。
みんなの前でボコボコにされたこと、隆志に「ダサい。」と言われたこと、そういう怒りを思い出して殴ったとき、見てる会長が「いいね。」と言ってきた。
やっぱり怒りは原動力だ。

ジムに入って3ヶ月くらい経ったとき、スパーリングをすることになった。

実戦だ。すごく気持ちが昂った。
相手は30年やってる谷岡さん。
谷岡さんはかなり手を抜いてくれたが、僕はコテンパンにやられた。
パンチが全く当たらないのだ。
金髪坊主を思って殴り続けてきた僕の怒りの拳が、ことごとく宙を切った。

「怒りは、瞬間的に一撃で爆発させるものだ。常に怒っていたら攻撃は当たらない。」

会長が竹刀を振りながら、そのようなことを言ってきたが、そのときの僕にはいまいち意味が分からなかった。
会長曰く、本当にいいパンチのときは、完全に力が抜けていて、ピンッという音がするらしい。

医学部ボクサーの山本さんや高校生の竹下君ともスパーリングをした。
もちろん山本さんも強かったが、ただ、竹下君だ。
彼が強すぎた。
年も4つ下で、体つきは僕と同じくらいなのに、全く歯が立たない。
僕のパンチはほぼ全部カウンターを喰らい、毎回鼻血を吹き出した。

ジムが終わり、外の自販機の下でジュースを飲みながら、竹下君になんでそんなにパンチが見えるのか聞いた。
竹下君は長い前髪をイジリながら「勘っすね。」とだけ答えた。

持って生まれた才能だろう。
聞いた話し、特に格闘技なんてしてない頃から、今までケンカは負けたことがないらしい。
彼なら金髪坊主と喧嘩になっても、あっさり倒すのだろう。
僕のように負けた悔しさなど味わうことのない人生。
とても羨ましかった。

竹下君は律儀に「ジュースご馳走様でした。」と頭を下げると、帰っていった。
チャラチャラしてるし、高校生でタバコを吸ってるが、根はしっかりした良いヤツだ。
あれだけコテンパンにやられて、金髪坊主のときほど悔しくないのは、僕が竹下君に敵意が微塵もないからだろう。


スパーリングが練習メニューに入ってから、僕はジムに行くのがとても怖くなった。
今日もボコボコにされる。
そう思うと、なかなか家から出ることができないのだ。
やっぱり痛い思いをするのはとてもストレスだ。

それでも震える足に喝を入れてジムへ向ったのは、やっぱり怒りだった。
あの日の喧嘩、悔しい思い。

その頃、僕はもう金髪坊主へ復讐することを考えていた。
ここで強くなって、もう一度金髪坊主と喧嘩して、完膚なきまでに倒す。
そしてダサいと言ってきた隆志を認めさせる。
そうしなければ、僕は僕が思う、本物になれない気がしていたのだ。

もちろんこれは、みんなが花の生活を送っている、大学生のときの話しだ。



大学三年生になり、僕がボクシングを始めて1年ちょっと経った。
その間、大学生活の方にも変化はあった。

バイトにボクシング、僕が色々している間に気がつけば、僕の築いてきた農学部一大グループはなくなっていた。

新一郎は他のグループに入って、毎日のように麻雀をしていたし、隆志もラップを始めて大学以外のヤバそうなヤツらとよく遊ぶようになっていた。
他のメンバーもそれぞれ散り散りになり、みんな別のグループへと入っていった。

結局、農学部を席巻した一大グループは、入学した当初の、僕と村崎の二人組に戻っていた。

かつてグループ交際していた農学部女子の可愛い子グループは、他の男グループと楽しそうにやっていた。
その男グループが新しくできた農学部の1軍なのだろう。
何度か学食でワイワイやってる隣りを通りすぎた。
僕が童貞を捨てたあの子とは、もう会釈することもなくなっていた。
パツパツのスキニーを履いたマッシュルームヘアーの男が、その子の肩を抱いて、「うぇーい!」とか言っていた。

金髪坊主率いる工学部のグループは、相変わらず幅を利かせてるようで、よく喫煙所にタムロしていた。
大声で話している彼らを見ると、僕は拳を握りしめて別の喫煙所へ行くしかなった。


その後、他の学部の友達ができたりして、僕らは6人くらいのグループになった。
前のように目立っているとかいうワケではなかったが、気の合うメンバーでそれはそれで楽しかった。
僕もそのメンバーの中では、変に背伸びしてイキがったりせずに、なるべく素の自分で過ごした。
面白いことをやる流れになっても、ゆってぃの真似はもうしなかった。
自分が自然体でいると、周りも気楽に接してくれて、とても居心地はよかった。

でも僕は心の中では常に牙を研いでいた。
どれだけ平和で穏やかな日を過ごそうと、あの日の悔しさは、1日も忘れなかった。
それが僕をただボクシングへと突き動かした。

そんな中だ。
僕の初めての試合が決まったのだ。

いつも通り、竹下君にスパーリングでボコボコにされた後、会長に言われた。
「次の大会、エントリーしておいたから。」と。

宮崎のボクシング人口は少なく、アマチュアもプロも一緒に出る大会がある。
体重の階級も一応分けられてるが、60キロ未満、60キロ以上65キロ未満、65キロ以上…など、曖昧な分けられ方で、エントリーしてる中で体重が近い人同士が組まされるような形だ。

僕のそのときの体重は55キロ。
60キロ未満の部しかないため、60キロに届かない程度にもう少し太るか体を大きくした方がいいとのことだ。

大会、試合…
僕は少し胸がざわついた。
ただ、ここは逃げるわけにはいかない。
僕はグローブもヘッドギアもない、何でもありの喧嘩で、金髪坊主に勝つためにボクシングを始めたのだ。
ルールに守られた大会でビビってるようではダメだ。

「ありがとうございます!もちろん出ます!」

僕は鼻血を拭って意気込んだ。

そこから大会まで、僕はロッキーばりに練習した。
少しでも体を大きくするために筋トレもして、ご飯も吐くほど食べた。

対戦カードが載ってあるパンフレットが届いた。
僕の対戦相手は、高校生だった。
しかし、プロ。K-1甲子園ベスト8にもなったことがあるらしい。
ファイティングポーズを取りカメラを睨んでいる写真の横にキャッチコピーが載っている。
「消える左ストレート」
それが相手のキャッチコピーだ。

僕のキャッチコピーを見ると、「宮崎大学の大学生」と書いてあり、写真も僕だけ正面から真顔で撮った証明写真みたいなのが使われていた。
完全に履歴書だった。
そういえばこの前、会長に1枚、ガラケーで写真を撮られたような気がする。

谷岡さんがパンフレットを見てる僕の肩をポンッと叩き、「ナメられんなよ。」と言ってきた。
この写真でどうやってナメられないことができるのだろう。

「山本みたいに醜態をさらすなよ。」

「山本さん?」

医学部プロボクサーの山本さんの名前が突然出てきた。

「そう、あいつこの前の大会でビビって、ずっとガードばっかりしとってよ。あんなヘッポコ見たことないけん。プロとは思えねー。」

谷岡さんが言うと、会長も笑う。

そういえば最近、山本さんの姿を見ていない。
おそらく、前の大会でよくない姿を見せて、ジムに来にくくなったのだろう。
山本さんは一応プロだ。そのプロでも恐怖に負けてしまうことがあるのだ。

「実力的にはお前はもう山本くらいあるからよ、あとはビビんないかどうかやな。」


宮崎はプロになるハードルが低いとはいえ、実力的にはプロと同じくらいと言われたことで、僕は少し自信になった。

「ビビんないっす。こんなところでビビってるわけにはいかないんで。」

僕が強くなって金髪坊主にリベンジしたいというのは、もうジムのみんな知っている。
谷岡さんとご飯行ったときに話したら、次の日にはもう会長も竹下君も知っていた。

「もう1年ボクシングしてんだから、そろそろリベンジしろよ。相手、素人だろ?」なんて言われても、なかなか踏み出せなかったが、やっと決めた。
この試合が終わったら、正式に金髪坊主にリベンジしよう。

とにかく今は目先の試合で勝つ。
そして強くなった自信をつける。
そのためには絶好の相手だった。


そしていよいよ大会の日がやってきた。
毎日バイトを休んで練習をして、体重も60キロ近くまで増やして、僕のコンディションはバッチリだった。
だけど、緊張がすごい。
試合会場である市の体育館に入り、中央に設置されたリング、そしてパイプイスで作られた客席を見たときに僕は一瞬で飲まれた。
スパーリングとはまた違う緊張感だった。
今からここでたくさんの人の前で殴り合うんだ…
そう思うと体が震えた。
武者震いとかではない、シンプル緊張だ。

そしてふと、僕はいったいこんなところで何をしてるんだろうと思った。
花の大学生活に憧れ、最高の大学デビューを果たすためにはるばる宮崎まで来た僕が、気がつけばこんなところで人と殴り合おうとしてる。
僕が思い描いた大学生活とは、究極に違う。

でも僕はもう退けないのだ。
本物になるために走り続けるしかないのだ。

僕の試合が近づき、緊張が高まってくる。
大会の異様な緊張感のせいかみんな殺気立ち、本気で殺すくらいの勢いで殴り合ってる。

僕らのジムからは大会に参加してるのは三人。
竹下君と、あまりジムで顔を合わせることのない二児の父親のサラリーマン。
竹下君はリラックスした様子で客席でケータイをイジってるが、サラリーマンの人は僕と同じように、「オレはこんなところでなにしてるんだろう…」というような顔をしている。

「次の対戦カードを発表しまーす」

いよいよだ。
僕の名前が呼ばれた。
ダサいとか以前にただの紹介である、僕のキャッチコピー「宮崎大学の大学生」が読み上げられてるが、緊張した僕の耳には入ってこない。

リングセコンドについている会長が僕の肩を叩く。
僕は思いっきり深呼吸をしてリングに入る。


「〇〇ジム、消える左ストレート、〇〇選手ー」

僕の対戦相手だ。
とても年下に見えない。
なにか、すごく大きくも見える。
本当に同じ階級だろうか。

相手はプロでK-1甲子園なんかにも出てるが、ここは僕に合わせてヘッドギア有りのボクシングルールで試合は行われる。
ヘッドギアがあってよかった。顔周りにすごく安心感を感じる。
これを無しで殴り合ってるプロというのは本当に人間じゃないのだろう。
まあ、この後するであろう金髪坊主との喧嘩も、これを無しでやるわけだが…

今思えば、こんなヘッドギアがあってよかったなどと考えてる時点で、すでに僕の負けは決まってたのだろう。
あの日の喧嘩の前に感じてた「クローズZEROを見たおかげでなんか高く跳べる気がする感」も、現実を知ったせいか微塵も感じていなかった。

あっと言う間に開始のコングがなり、相手がすごい勢いで襲いかかってきた。

きた!始まった!
すぐに迎え討とうとしたが、体が動かない。
緊張、恐怖。
逃げようにもカウンターを出そうにも、手も足も動かないのだ。


ボグッ!
スパーリングでは貰わないような大振りのパンチをいきなり貰った。
重い衝撃。広がる鉄の匂い。

手を出せ!反撃だ!
必死に脳に喝を入れて、無我夢中で拳を繰り出す。
一年ちょっと血をにじませながら、練習してきた僕の右ストレート。

それは、猛攻してきてる相手の顔の近くをサスッとかすめた。
当たり前だ。焦りからか基本の形も崩れた、練習きたとは思えない不格好なパンチだ。そんなものが当たるわけもない。
金髪坊主に反撃を繰り出して、顔にペチンとなったあのときとほとんど変わってない。
ペチンから、サスッになっただけだ。

相手のパンチが再び僕の顔面を捉え、そこからの僕はただ亀のように守りを固めて、嵐が過ぎ去るのを待つだけだった。

ろくに反撃もできず、ただダメージを蓄積して、しまいにはレフェリーにスタンディングダウンという、立ったままダウンという聞いたこともないダウンを取られ、僕はあっけなく負けた。

リングから降りるときは誰の顔も見れなかった。
客席にいた谷岡さんがニヤニヤしながら「ビビっとるやんけ。」と言ってきたのだけは覚えてる。

僕の1年は完全に打ち砕かれた。
何も変われなかった。
自分という人間の小ささと無力さに、すぐにでも泣きそうだった。

「お疲れ様です。」

会場の外で座り込み、涙を堪えてると竹下君が話しかけてきた。
あまりの恥ずかしさに逃げ出したかったが、僕は無理に笑顔を作って「ボロ負けだよ。」と言った。

「まあ、ちょっと緊張してたっすね。」

竹下君は気まずそうにそう言った。
こんな僕はバカにして笑わない時点で、竹下君は本当に良いヤツだ。

「竹下君、試合は?」

「あーなんか僕の対戦相手、今日来てないみたいで、松本さんと戦ったヤツと試合することになりました。」

「え?」

「なんか運営でこのまま、僕だけ試合なしっていうのもってどうかなーって話しになったみたいで、そしたら松本さんと戦ったヤツがもう一戦できますよって言ったみたいで。」

確かに僕と戦ったヤツは疲れてなんかないだろうが、こんなことってあるのか。
ただ、恥ずかしい。

「まあ仇うってきますわ。」

竹下君はそう言うと会場へ戻っていた。

会場へ戻ると、もう1人の参加者のサラリーマンが勝ったみたいで泣きそうな勢いで喜んでいた。
僕より練習してないはずのサラリーマンが勝ったことに、僕はまた自己嫌悪になった。

そして、竹下君の試合が始まった。

コングが鳴ると同時に、僕の対戦相手でもあった相手は、僕と戦ったときと同じように竹下君にも襲いかかった。
僕と同じジムというだけで竹下君もナメていたのだろう。ただ、僕と竹下君は全く違った。

竹下君は冷静に相手の攻撃をひらりとかわすと、返す刀で相手のこめかみに強力な右フックを叩きこんだ。
パンッという鮮やかな破裂音と共に、相手がリングに沈んだ。

静まりかえる会場、呆然とする相手側のセコンド。
セコンドにいた会長が「おしっ!」と小さく呟いた。
その瞬間、「おおっー。」という声と共に、会場にパチパチと拍手が鳴り始めた。

普通ヘッドギアをつけてたらダウンなんて滅多にしないものだが、それでも相手は倒れた。
それほど竹下君のカウンターが鮮やかだったのだろう。
客席にいたプロのスカウトっぽい人も拍手をしていた。

何が起きたかわからないという表情で相手がフラフラと立ち上がる。
レフェリーの再開の合図と共に、今度は竹下君が猛攻をしかける。
先ほどとは一点、今度は相手が僕のようにただガードを固めて、竹下君の攻撃を耐えていた。

竹下は手を緩めることなく、鮮やかに色々なパンチを繰り出した。
ガードの隙間からアッパーが綺麗に入り、相手が2度目のダウンをしたところで、レフェリーが慌てて試合を止めた。
竹下君は攻撃の勢い余って、倒れた相手に蹴りを入れようとして、止めに入ったレフェリーの背中を蹴っていた。

レフェリーに怒られた後、息ひとつ切らさず、涼しい顔でリングを降りる竹下君と目が合った。
竹下君は僕に向かって、「仇取りましたよ。」と言わんばかりに手を上げてきた。

羨ましかった。
悔しかった。
そして自分の身の丈を知った。
僕は所詮、成長もできなかったカスだったんだ。
「はじめの一歩」みたいなサクセスストーリーも全く用意されていなかった。

僕はこの大会で完全に自信をなくした。




本物になるため、金髪坊主にリベンジするために始めたボクシングも上手くいかず、僕はこの先どうしたらいいか分からなくなっていた。

なぜあんなにもビビってしまったんだろう。
なぜもっと死ぬ気で殴り合わなかったのだろう。
寝ても起きてもそのことばかり考えてしまう。
自分がビビリで器の小さい人間だってことを、こうもハッキリと突きつけられて、僕は完全に絶望していた。

ジムには通った。
このままジムに行かなかったら、それこそ試合に負けて逃げ出したみたいになってしまうので、別に何も気にしてませんよという感じを出しながら、いつも通りに通った。
ただ完全に気力はそがれていた。

谷岡さんはビビってたことを毎日のようにニヤニヤしながらイジってくるし、会長は明らかに失望してるし、竹下君はどこか僕に気を遣っていた。
もうジムの中に居場所はなかった。

あれだけやらされていたスパーリングも、もうやれとは言われなくなった。
与えられたメニューだけを1、2時間でこなして、早々と帰宅する、ただジムに通ってるだけの状態だった。

自信を完膚なきまでに失った僕に金髪坊主へのリベンジのことなんか、もう頭になかった。
かと言って今更全てを諦めて、完全に逃げるという決断力もなかったのだ。


惰性で通っていると、次第にジムへ行く回数も減り、週に4、5日行っていたジムも週に1、2日のペースになった。

そして、そんなときだった。
竹下君がボクシングジムを辞めた。

大学のゼミの研修で諸塚村という村に行くことになり、僕は2週間ほどボクシングジムを休んでいた。
久しぶりにジムへ行くと、ジムの名簿から竹下君の名前が消えてたのだ。

「会長、竹下君は辞めたんですか?」

「ああ、辞めたよ。」

会長はいつも通り、忍者になる修行の一環であるだろう、座禅を組みながらそう答えた。

「なんでですか?受験は来年のはずじゃ?」

「詳しい理由はわからん。事情があって辞めますって電話があっただけやから。」

「マジすか…」

「きっと、オレがこの前ボコボコにしたからやな。」

サンドバックを一通り蹴り終えた谷岡さんが、ニヤニヤしながら話しに入ってきた。

「え?」

「この前、スパーリングしてさ。オレもつい熱が入ってマジになっちゃって。結構ボコボコにしちゃったんよな。」

谷岡さんは元プロのボクシング歴30年だ。
さすがに竹下君が天才だと言っても、本気を出した谷岡さんには勝てまい。

「だから逃げたんよ、あいつも。」

そう言うと、谷岡さんはまたサンドバックを蹴り始めた。
僕はなぜかとても悔しかった。
あの竹下君がそんな風に言われたことに。
自分がビビリだと馬鹿にされた以上に腹が立った。

「…竹下君はそんなヤツじゃないと思いますけど。」

「え?」

「なんかホントに事情があったんやないっすかね。」

「ねえよ、ビビったんよ。」

「ビビんないでしょ、そんなことで!」

思わず、語気が強まった。

竹下君は僕の憧れなんだ。
年下で、高校生だけど、僕の1番欲しい「強さ」を持っている、僕の憧れ。

「なんや、お前…」

初めての僕の反発に谷岡さんの目が一瞬で鋭くなる。
会長も驚いたようにこちらを見ている。

「いや、その…」

我に返ってしどろもどろする僕に谷岡さんが近づいてくる。

「今からスパーリングするか?竹下の代わりに、お前が。」

谷岡さんの突然の提案に心臓がビクっとなった。
鼓動が早くなる。

「それは…」

僕が固まっていると、会長が口を開いた。

「スパーリングはいい。練習しろ。」

谷岡さんはフンっと僕を鼻で笑うと、そのまま練習に戻った。

僕は会長の助け舟に内心ホッとしたと同時に、すごく情けなくなった。
もはや僕はあの喧嘩のときみたいに、戦う勇気すらなくなっているのだ。


帰り道、連絡先は知っていたので竹下君に電話した。
竹下君いわく「彼女ができたんで、辞めます。」とのことだった。
電話の最後に、「松本さんは頑張って下さい。」と言われたが、僕はもうボクシングを辞めようと思っていた。
次にジムに行ったとき、会長に言おうと。


ただ、次の日。
立ち直る瞬間というのは思いもよらずにやってきた。
それは大学の帰り道に起きたある事件だった。

大学の帰りに村崎と、新しくできた6人組の友達の1人、福山とコンビニでアイスを買い、コンビニの前で食べていた。

どんな流れで何を言ってたかは全く覚えてないが、福山の変なセリフが、なぜかツボにはまり、僕と村崎は爆笑していた。
福山も僕らが笑うものだから調子に乗って変なセリフを連呼していた。
笑っていると、駐車場に停まっている青のイカつい車から、ジャージに金のネックレスをした、明らかにtheヤンキーと分かる男が降りてきた。

「うるせーよ、お前ら。電話しようんや、こっちは。」

「あっ、すいません。」

福山が慌てて謝ったが、ヤンキーは止まらなかった。

「アホやないか、お前ら。なにがおかしいんや?」

「いや、すいません…」

「なんニヤついとんや、おらあ!」

福山のえびす顔がニヤついてるように見えたという超絶理不尽理由で、そのヤンキーは福山の胸ぐらを掴んだ。
ヤンキーというのは、いつだって理不尽で傲慢だ。

その瞬間だった。
僕はとっさに、胸ぐらを掴んでるそのヤンキーの手を掴んだ。
自分でもビックリした。
考えるよりも先に体が勝手に動いたのだ。

「え?なに、この手?」

ヤンキーが目を丸くしてこっちを見てる。

「誰の手、勝手に掴んでんのお前?」

ヤンキーが笑みを浮かべてピクピクしながら、キスくらいの距離に顔を近づけてくる。
そのとき、僕は気がついた。
このヤンキーに見覚えがあることに。


あの金髪坊主との喧嘩のとき。
隆志が仲裁といって、連れてきた地元のヤンキーの友達。
最後にトドメの一撃で僕を気絶させたヤンキー。

こいつはそのヤンキーだ。
確かに覚えてる。
信じられないくらい細い眉毛に、キツネのような目。
そして今は茶髪から金髪にはしているが、鳥の巣のような髪型。

向こうはどうやら全く僕には気がついていない。
ただの歯向かってきたインキャラと思ってるのだろう。

「やんのか?」

ヤンキーは福山から標的を変えて、僕の胸ぐらを掴んできた。

すぐに謝ろう。
そう思うと同時に僕の頭には、今までのことが駆け巡っていた。

金髪坊主にボコボコにされたこと、隆志にダサいと言われて何も言い返せなかったこと、試合で手も足も出なかったこと、昨日谷岡さんとのスパーリングにビビったこと。

このままでいいのか。
僕はこのままずっと逃げ続けていいのか。
また逃げるのか。

そして、ふとこんなことも思った。
今ヤンキーが胸ぐらを掴んでるこの手。
僕が力を込めたら、これ簡単に外せるんじゃないかと。

気がつくと僕はヤンキーの手を握り、力を込めていた。
その手は思った通り、簡単に僕の胸ぐらから外れた。
そういえばボクシングと筋トレのおかげで、ベンチプレスなら90キロ上げられるくらいに筋肉はついていた。

「…てめえ!」

ヤンキーが僕の胸をドンっと突き飛ばした。
後ろに下がると同時に、僕は無意識にボクシングのファイティングポーズを取っていた。

ヤンキーも村崎も福山も、急にファイティングポーズを取った僕を、目を丸くして見つめている。

「え?」

誰の「え?」かは分からないが、確かに聞こえた。
大学近くのコンビニ前で、急にファイティングポーズを取った僕に対する「え?」だ。

「来いよ。」

嘘みたいなセリフが勝手に口から出てきた。
もう僕は止まらない。
小刻みにボクシングのステップを始める。

「なんや…お前…」

ヤンキーも急な僕のファイティングポーズ&ステップに明らかに戸惑っているようだ。

「ホントすいません!やめましょう!」

福山が慌てて、間に入る。

ヤンキーはしばらくこちらを睨みつけていたが、なぜか向かってくることなくそのまま車へ戻った。
そして、窓を開けて「次会ったら、さらうからな!」とだけ言い残して去っていた。

僕の急なファイティングポーズに「こいつ、なにか格闘技やってる!」と思ってビビったのか、「ヤバい、こいつ変なヤツだ!」と思ったからなのかは分からないが、とにかくヤンキーは去っていった。

福山は僕に土下座する勢いでお礼を言い、冷静になった後に爆笑し始め、そこから僕らのグループでは「来いよ。」というギャグが流行った。


ただ、なんにせよ僕はこの一件で少し自信を取り戻した。
ヤンキー相手に逃げなかったこと、そして思いの外、力がついているのを実感できたこと。



次の日、僕はジムに行った。
会長はまだ来ておらず、ジムには谷岡さんだけがいた。
僕はすぐに着替えると、グローブをはめて谷岡さんに言った。

「スパーリング、お願いします。」


⑤へ続く

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