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「やりたいこと」が見つからない娘に伝えようとしていること

『おかえりモネ』に中学三年生の女の子が出てきて、「やりたいことが見つからない」と語る姿が、わが家の中三の娘の姿と重なっています。こんな日が来ると思って9年前に書いてあった、わが子に伝えたいことをまとめた文章があったのを思い出して引っぱり出してきました。今こそ、これの出番かもしれません。週末、このエッセンスを娘に少しずつ話してみようと思います。
伝えたいメッセージが『おかえりモネ』と重なりすぎていて驚いています。

答えはどこにあると思いますか?

「答えはどこにあると思いますか?」
本当に漠然とした質問で戸惑ってしまったかな?
でも、答えて。
未来の君は何と答えるんだろうね。父さんや母さんの世代は、ある妙な答えが頭に浮かんでしまう人が多いんだ。
「答えは自分の中にある」
妙だよね。どうして答えは自分の中にあるんだろう。

自分探し病と「誰にも負けない何か」

実は、「答えは?」「自分の中にある!」と条件反射で答えてしまうのは、自分探し病の後遺症なんだ。父さんや母さんの世代は、一時期、深刻な自分探し病に苦しんでいたんだよ。
自分探し病には「これだけは誰にも負けない何かを追い求める」という症状もある。これが厄介なんだ。しかも、優等生ほど症状が重くなる。
圧倒的な優等生としてずっと生きてきた父さんの症状は、そりゃあ重かった。常に学級委員を務めていて、勉強が出来るのはもちろん、好奇心旺盛で何にでも興味を持ち、学校行事などでは、個性的と賞賛される発想をずば抜けた行動力と調整力によって実現してしまう、伝説級の優等生だったからね。
自分探し病の原因である“個性重視教育”に、これ以上無いくらいに適応した人間だったんだ。

ファンタジーのつもりだった個性重視教育

父さんや母さんは、そのまた親の世代である団塊の世代から“個性重視教育”を受けて育った。
ただ、団塊の世代の人達は、ある種のファンタジーというか、ものの考え方の振れ幅の片方として教えていたつもりで、まさか子ども達がそこまで本気で信じ込んでくれているとは思ってもいなかったんだ。
(没個性・画一教育へのアンチテーゼという意味での)“個性重視教育”
をやっていたつもりが、いつの間にか括弧書きの部分が取れて、
“個性重視教育”
になってしまったんだ。
ファンタジーが現実になってしまったんだ。バリバリの没個性・画一教育を受けて育ってきた団塊世代には、どうにも実感が湧かないようだけど。自分達が目標に掲げて実現した世界なのに。

流行病からワクチンへ

ただし、“自分探し”がブームになったのは、父さんよりもう一世代前のバブル世代からだった。『深夜特急』が青春時代に刊行され、そのマネをして旅に出たという友達がまわりにたくさんいた世代だ。

でも、バブル世代にとって“自分探し”は単なる“ブーム”だったんだ。“ブーム”として自分探し病にかかり、“ブーム”だからこそ、しばらくすると熱は冷めていった。
自分探し病がそのまま重症化してしまった人も、もちろんいた。オウム真理教に入信してしまった人とかね。でも、それは特別な存在だったんだ。
だけど、団塊ジュニア世代からゆとり世代くらいまでは、自分探しこそが幸せへのパスポートであると社会全体が大合唱している中で青春時代を過ごしてしまった。
自分探し病に、いつか治すべき流行病として感染したのがバブル世代。いや、自分探しは病ではなく素晴らしいワクチンであると学校で集団接種されて感染したのが、団塊ジュニア世代からゆとり世代までなんだ。

「誰にも負けない何か」という宝物

自分探しは、「誰にも負けない何か」という宝物を探すための地図とされてきた。
閉塞感が漂う時代、人は確実そうなものにすがろうとする。でも、父さんたちの世代は、閉塞感がどんどん高まると同時に、“すがれそうな確実なもの”という幻想をことごとくぶち壊された世代だった。
大学受験の頃、大規模リストラのニュースが毎日のように流れ、終身雇用の原則は音を立てて崩れ落ちていった。そもそも、大企業があっさり潰れる実例をたっぷりと見せつけられた。
かといって官僚も、天下りやノーパンしゃぶしゃぶをキーワードに叩かれまくっていた。
学歴は、無くて困ることはあるけれど、あったところで何かを保証されるわけでないことをみんな知っていた。
そんな状況と、骨の髄まで染みこんだ個性重視教育から導き出されたのが、「誰にも負けない何か」という考え方なんだ。
確実なものなんて望めない世の中だけど、それでも望もうとするのならば、自分の中に眠るダイヤの原石を探し出し、努力によって磨き上げて圧倒的な輝きとするしかないという認識だ。

それでも信じてしまっていた神話

だけど、それは結局、現実離れした“神話”だったんだ。
胡散臭いと思いながらも何となく信じてきたというか、信じることでみんなが得をするとされてきた“神話”が昔はたくさんあって、そんな神話がことごとく終わっていく様子を見てきた世代だと自負していたはずなのに…。
「誰にも負けない何か」という宝物が、ダイヤの原石が、誰でも自分の中を探せばあるはずだなんて、冷静に考えてみたらそんな都合の良い話あるわけがない。結局これも、しぶとく生き残っていた“神話”の一つだったんだ。

「誰にも負けない何か」なんて私には無い

“個性重視教育”においてなまじ強烈な優等生だった父さんは、「誰にも負けない何か」が自分の中にも眠っていると信じていたし、努力もしていた。ちょっとした手応えもあった。
だから君の教育方針も、「これだけは誰にも負けないという何かを、何でもいいから持つべし!」というものだった。当時としては、決して突飛な考え方では無かった。
だけど、それを聞くと母さんはため息をついて必ず言っていた。
「誰にも負けない何かなんて、私には何も無いよ!」
たしかに母さんは、勉強や運動で飛び抜けた成績を収めたこともなく、これといった得意分野も無い。何かの趣味に熱中することも無い。
そして、ある日、この件で言い合いになったんだ。
「誰にも負けない何かなんて、私には何も無いよ!ていうか、あなたにも無いじゃない!」
「Aの分野における、Bという条件での、Cなら誰にも負けない自信がある!」
「随分限定するのね…。そこに需要はあるの?」
「ある!…はず。」
「結局、お金にならないとダメなんだよ?」
「…少しはお金になると思う。」
「子どもの学費もあるんだよ。」
「いける…ん…じゃないかな…」
「厳しいんじゃない?」
「まあ…ちょっと…覚悟は…しておいて…」
それなりにスペックが高いと自負している父さんは、努力さえすれば「誰にも負けない何か」が手に入ると思っていた。でも、今や競争相手は世界中にいる。ちょっとやそっとでは「誰にも負けない何か」なんて到達出来るはずがない。
そこで、父さんはこれから盛り上がりそうな分野のニッチ路線をひた走る戦略をとった。数は少ないけれど熱烈に支持してくれそうな見込み客がいて、市場としてこれから成立しそうな分野に、早めに開拓者として乗り込んでおこうというわけだ。
この方針自体は間違っていないと思うけれど、もはや“すがりつける確実なもの”というレベルの話でないことを認めざるを得ない。
そして、“一生安泰”のためには、「誰にも負けない何か」を「長い間維持し続ける」必要がある。世の中の動きが早まる中で、せっかく開拓した分野が過去のものになってしまったら、また新たな分野を次々と開拓していかなければならない。それはもはや、一息つく間もない修羅の道だ。
そもそも、誰か幸せそうな人がいた時に、その人が幸せな理由が「誰にも負けない何か」を持ってるからだなんて滅多に無い。
要するに、「誰にも負けない何か」なんて見果てぬ夢であって、それを目指すことは悪くはないけれど、それが必ずつかめるはず、それをつかんで初めて幸せになれるというのはうそっぱちってことだ。
でも、それでも何か確かなものが欲しい!
そこで頭に浮かんだのが、「誰にも負けない何かなんて何も無い」母さんが、父さんにとってかけがえのない存在だってことだった。

どうして母さんはかけがえがないのか

父さんにとって母さんがかけがえのない存在である理由を考えてみた。
父さんは常に暴走気味だ。ふと思いついた楽しそうなことに向かって、闘牛のようにとりあえず一直線に向かっていく。
そんな父さんの背中にまたがった母さんは、時々父さんの耳たぶをひっつかんで大声で叫ぶ。
「バカじゃないの!?そっちに行ったら危ないでしょ!ちゃんと前見て走りなさいよ!」
母さんを背中に乗せていなかったら、父さんは壁に激突しまくって瀕死の重傷を負っていたに違いない。
一方で、父さんの背中に乗っていなかったら、自力で前に進むのが苦手な母さんは、その場に座り込んでため息ばかりついていたことだろう。
今となっては、これ以外考えられない組み合わせだ。
もちろん、最初からこの組み合わせがうまく機能していたわけじゃない。長いつきあいの中で、お互いに激しくぶつかり合って、お互いに譲り合ったりしていく中で、何とか作り上げたギリギリのバランスだ。
自分らしさの大切な要素だと思っていたものを、それぞれが泣く泣く諦めたりして今があるんだ。
そして、これからもぶつかり合いは続いていく。
そう!ぶつかり合いは続くんだ。あらゆる状況は常に変化していくわけで、最高の関係を築き上げたつもりの夫婦の間で、微調整どころではないぶつかり合いが、これからも発生し続けることは間違いないんだ。
結局は、誰かとぶつかり合って作り上げた関係性の中にしか、確かなものなんてないというのが父さんの結論だ。そして、それは常に揺らぎ続けるものであって、確かなものにし続けるために不断の努力が欠かせないものなんだ。
不断の努力無しには崩壊してしまうものが“確かなもの”であるかは微妙なところだけれど、我が家ではその程度の“確かなもの”で十分としている。それ以上のゆるぎない何かなんて、結局は“神話”にしかならないのだから。

答えはどこにあるのか?

人間が探し求めている“自分”というのは、結局のところ“存在意義のある自分”だ。
そして、それは「自分の適性を最大に生かして仕事をすること」とか、「誰にも負けない何かを身に付けること」とか、「自分のすべてをありのままに受け入れてくれる恋人と出会うこと」とかではなくて、「大切にしようと決めた誰かと、お互いがお互いにとって大切であり続けるためにもがき続けること」でしか手に入らないものなんだ。
かと言って、「キミとボクの関係が世界のすべて」だなんて、そこに過大な意味を見出そうとすると、また妙なことになってしまう。
そうではない。あくまで、世界のすみっこで生きている個人が、その存在の小ささを受け入れた上で、お互いの存在価値を認め合って、それに見合った努力をし続けるということなんだ。
「答え(=「存在意義のある自分」)は、どこにあると思いますか?」
という質問に改めて答えるならば、「大切な人と自分との間」にあるといったところかな。

関係は必ずしも双方向ではないのがポイント

もちろん、夫婦に限らず、友人でも親子でも兄弟でもどんな関係でも、場合によっては人間ではない何かが相手でも、存在意義を確かめられる関係は成立する。夫婦が一番やりやすいとは思うけれど。
そして、その関係にはきちんとした双方向性が必ずしも成立するわけではないのがポイントだ。例えば赤ちゃんを守り育てる母親のように、それが一方通行の無償の奉仕という関係でも、その関係で母親が自分の存在意義を確かめるのは、決しておかしなことではない。

関係のいびつさを受け入れよう

無償の奉仕なんて、明らかにいびつな関係だ。だから、そのいびつさを補正するための仕組みが必要になるのが普通だ。
例えば宗教においては、その教義の多くの部分が、精神的な存在との一方通行な関係のいびつさを補正する仕組みそのものだったりする。“魂の救済”とか、そんな理屈で補正するわけだ。
子育ても無償の奉仕であり、いびつな関係なので、やっぱり何らかの補正の仕組みが欲しくなる。そして、夫婦など本来は双方向な関係においても、双方向のバランスが一時的に崩れたりして、いびつな関係になることもあるのが普通だ。大人になった君も、色々と悩むだろうと思う。
ということで、何だかんだでいびつさを補正する仕組みがあちこちで必要になってくるのだけれど、往々にしてここで間違った仕組みを作り上げてしまって、せっかくの関係を台無しにしてしまうんだ。
いびつな関係でも、そこに自分の存在意義さえ見出せれば、それで十分のはずなのに。

いびつさとうまくつきあうための魔法の言葉

そんな関係のいびつさとうまくつきあうための魔法の言葉を、父さんと母さんは開発したんだ。
「曲かけちゃうよ!」
もしくは、
「曲かけちゃってるね!」
という言葉だ。
もちろん、一般的な「音楽を再生する」の意味ではない。
いびつな関係を補正するための“物語”を意識的に受け入れて、その“物語”に踊らされていることを“敢えて”選択するという意味だ。
例えば、
「市の体操教室のイベントで、明らかにうちの子がずば抜けていたんだよね!これは曲かけちゃうよ!習い事いろいろ通わせちゃおうかな♪」
みたいな感じだ。
子育てという一方的な奉仕の場において、親という唯一無二の存在であることに自分の存在意義を見出せれば十分とするのが筋だ。だけど、この場合は、「才能豊かな我が子を立派に育て上げる立派な親」という物語まで上乗せして気持ちよくなっちゃうのもいいかもね♪ということを、高らかに、でも自嘲しながら宣言しているというわけなんだ。
他にもいろんな物語が、世の子育てには上乗せされている。「この子を医者にする使命を果たす母」とか、「悔しい思いをするのは自分だけで十分!息子は絶対有名大卒と意気込む父」「オーガニックな子育てで人体が本来持っている力を大切にするステキママ」「娘ちゃんいつ見てもカワイイかっこうでスゴーイ!なママ」などなど。
そういった物語は、結局すべて、子育てという無償の奉仕のいびつな関係を補正するための仕組みなんだ。突き詰めていくと結局は親の勝手なんだよ。
でも、それを全否定するのは現実的ではない。対象である子どもが、なまじ目の前で様々な可能性らしきものをきらめかせているだけに、どうしても何かを期待してしまうんだ。
親も所詮は人間。人間はそんなに強くはないし、欲張りな生き物だ。それが親の勝手だとしても、無償の奉仕という関係の上に余分な物語を上乗せして、そのいびつさを補正しなければやっていられないこともあるんだよ。それはそれで良しとするのが現実的だ。
ただし、それを自覚してやっているのと、子どものためであると本気で思い込んでやるのとでは、大きな違いがある。親が自分のためにでっち上げた物語なのに、その物語と我が子との相性があまりにも悪かったときに、自覚してやっていれば、さっさと撤退できるからね。
だから、母さんは、それが自分勝手な物語であるときちんと自覚するためと、いざという時のストッパーとして父さんに機能してもらうために、
「曲かけちゃうよ!」
と宣言するわけ。
それに、こういう物語は、自分でも気付かないうちに踊らされてしまっていることも少なくない。だから、そのことに気付いた方が、
「曲かけちゃってるね!」
と自覚させるわけ。
けっこう複雑な概念を、「曲をかける」という単純な用語に落とし込んで、夫婦の間で共通理解にしているというのは、とても便利だ。それに、ふたりだけの言葉という感覚が妙に一体感を高めてくれて、本来は厳しいツッコミである「曲かけちゃってるね!」も軽やかに言えるのでオススメだよ。

君の世代は、もう“神話”で痛い目に遭わないで欲しい。“神話”にみんなですがるくらいなら、父さんが教えたように自分で分かった上で“物語”を楽しんだ方がいい。
未来の君が、かけがえの無い相手と出会えて、「曲かけちゃうよ!」と笑い合えることを、心から願っているよ。