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認知症を発症して約30年、母が亡くなった日

母が亡くなった。
まだ認知症という言葉もなかった約30年前、母はおかしなことを言いだした。
それからジェットコースターのような日々を過ごし、家族にも親族にも大波乱を巻き起こしてきた。

ここ数年のコロナ禍、母は介護施設に暮らし、面会できない日々に母の症状は悪化し続けた。
さらに、介護施設の経営者が変わり介護や看護のケアの質が落ちた。
母の命を危惧し、二月に施設探しを始め、三月末には新しい施設に引っ越したばかりだった。

母が認知症を発症したころ、私はようやく念願の就職をし、社会に飛び出し、一人暮らしをはじめ、人生をスタートさせたばかり。
キラキラした生活を望みながら、母の不可解な言動に惑わされ、苦悩し始める。

それから母に寄り添い家族のために自分のために、様々な経験と学びを重ね、精神修養し、この日を迎えた。

いつものように朝のルーティンを終え、パソコンに向かったとき、スマホの電話が鳴った。

施設のケアマネージャーからだった。
母は、2週間前からいつもより熱が高めで、訪問診療を受けたり、病院受診し検査したりしていた。
母の熱が下がらず、いよいよ酸素濃度が低くなっているので、施設内の病院に入院の手続きをしたいが許可してもらえるだろうか?という内容だった。
私は、お願いしますと答え、電話は終わった。

その時の私は、
「母の命が危うくなっているのかもしれない」
なんとなくそう感じた。
「もしもの時がせまっているのか?」

もしそうだったとしても…
私はこれまでこういうときのために、勉強し準備してきた。
勉強の成果を確かめるためにあらゆる機会に体験し、自分の感情と行動、思考を見つめてきた。

父も認知症で、両親は5人きょうだいの第一子。
私はそんな両親の三姉妹の長女。
家族を支えるために、特に祖母と父に厳しく躾けられ、母には家事をみっちり仕込まれた。その期待に応えるべく努力してきた。
そのことでいつのまにか私は、努力しなければ生きる価値がないと思い込んだ。

「私が家族を守らなければ!」
「そのためにはどうするのが最善か?」
常に問いかけ、挑戦し続け、心がどんどん苦しくなっていった。

厳しい躾けに堪えながら蓄えた自分の自信を「母の認知症発症」で木端微塵にされるような想定外の経験を様々にしてきた。

「いざというときのために備える」
「いつも想定外のもしもをも考える」

そんなことをケアマネージャーの電話の後、思い返していた。

「だから私は大丈夫。」

するとまたスマホの電話がなった。
知らない番号だったが電話に出た。

やはり。
母が入院した病院の看護師からの電話だった。
「先生が入院の説明をするので病院に来てください」

すぐに準備してバスで病院へ。
先生の話によれば、尿路感染症と肺炎で1週間から2週間程度の入院予定ということだった。
その後看護師から書類を渡され明日持参することにし、母の現状を教えてもらい(母には会えない)帰宅。

帰宅して1時間もしないうちに、再び病院から電話。
母の状態が回復せず、悪化しているので、大きな病院に移送したい、移送先が決まったらその病院に来てほしい、などという連絡だった。
買い物に出かけようと家を出たばかりだったので、すぐに家に戻る。

次の病院からの電話。
「この数時間でどんどん状況が悪化しているので、タクシーで今すぐ来てください。」
「途中電話するかもしれないので電話を持っていてくださいね?!」
と指示され、タクシーを呼んだ。

そうだ!
両親の保険証と印鑑と私の印鑑と現金と、遅くなりそうだから上着と…
メモ帳とペン!
冷静な私に安堵する私に思わず笑っちゃう。

ちょうどタクシーが来た!
バッグとスマホを握りしめ、すぐに向かう。

タクシーに乗り込み行き先を告げると、運転手にいろいろ聞かれたので、(タクシーで日中の中距離移動をする私世代の客は珍しいらしい)正直に差しさわりのない程度に事情を話した。
すると、優しい方で、前向きなお話をしてくださり、ホッとする。

そうしてこの先の最悪のパターンや最良のパターンのシミュレーションをする。
まだ先の読みづらい状況で、最善の行動は?
まず誰に連絡するのか?
連絡する相手へのメッセージの内容(伝え方)
自分は冷静に判断できるか?
自己対話。

ひとまず夫に連絡すると、
「いつでもなんでも対応できるようにしておくから大丈夫、どうしてほしい?」
そうだな。
「病院について母の状況が分かったらすぐ連絡するからそれまでは待機していてほしい」
と私は答えた。

そうして、移動中のタクシーにもやはり病院から電話。
街中の総合病院に救急搬送すると決まり、救急車がもうすぐ到着するが間に合うかどうかの確認だった。
そのときタクシーは病院のすぐ近く。

病院に到着しタクシーを降りるとき運転手に
「一人で大丈夫?」
と声をかけてもらったとき、
すぐに落ち着いて
「はい!大丈夫です!」
と答えられた。
私は大丈夫。

病院に到着すると、病棟の看護師から簡単に病状説明を受け、あらかじめ準備されていた入院セット(2週間分)を受け取り、中身を確認、すぐに到着した救急車に母と病院の看護師と私が乗り込んだ。

これまでの経験で、救急車に乗る前に救急隊員の方々に「よろしくお願いします!」と心を込めて伝えられたのは、自己成長の自己満足。
これは自分で自分を励ますチカラになる。
何せ救急なのだ。
関わってくださる方はプロ。
とはいえ動揺のあまり自失してしまうのは、経験も年も充分すぎ恥ずかしい。
お願いしますの挨拶だけでも感謝の心を込めたい。

救急車内では母の隣に座り、そっと母の手に私の手を重ねて私は思った。
「これはまだほんの序章に違いない。
しっかりしなければ!」

あれ?私、自分にプレッシャーかけてる?!
いやいや今回の私は震えてもいないし、心臓のドキドキに圧倒されることもなく、いつもの私だ、うん!大丈夫!

救急車のなかで、看護師に母の近況を詳しく教えてもらう。
また母の過去について聞かれたり。
質問に答えながら、ちょっぴり感傷的になり涙が浮かんだりもしたけれど、そのままに感じるままに隠さずに、話をした。

その時私の内側からわいてきた。
今は、素直に感じるままの私でいることが大事。
期待される私でなく、
私のままに居ることを大切にしよう。
母の前で正直な時を過ごす!

そう腹を決めたとき、物凄く穏やかな空気に包まれた気がした。
何の焦りもなく、あるがままを受け入れる安堵感。

しかし。
母の酸素濃度がどんどん下がっていく。
母はもう死ぬかもしれない、心が感じた。

でも私は。
母の肩から腕を優しく愛情をこめさする。
励ましの言葉をかけ続ける。
「お母さん、もう少し頑張ってよ!」
「息ができないのは辛くて苦しいよね!わかるよ!でも頑張って!」
「いままでたくさん頑張ってくれたのに、もっと頑張ってってごめんね。」
「お母さん、頑張ってくれてありがとう!」
「私はここにいるよ!(手を母の手にそっとのせて優しくトントン)」

心の中では、
「私ひとりのときに死なないで!」
という言葉もあった。
口にはせずに、心の中で何度か思った。

妹たちは絶対母に会わなくちゃいけない。
母は妹たちとお別れをしなくちゃいけない。
そのために生きてきたんだよね?
そんな風に思えた。

母の苦しそうな表情を見るのは、想像するよりずっとつらかった。
見ているだけで涙が浮かぶ。
母は涙目で私に何かを訴えてくる。
その気持ちを受け取るのが辛すぎて、
今受け取ったら自分が崩れてしまう気がして、
心の中で母に言わないでと返した。
母はより苦しそうに悲しそうに涙目の涙が増えたけれど、一瞬うなずいてくれた気がした。
それが母の私への応援だったのかもしれない。
「お母さんありがとう」
思わず声に出して言っていた。

救急車は夕方の渋滞する道を救急病院に向かっていた。
いつもに増して激しい渋滞。
救急車の運転手と助手席の隊員は、常にアナウンスしながらの道中だった。
止まらない車、猛スピードで追い越していく車、突っ込んでくる車。
「なんて大変なんだろう。」
ああ、でもそうだ!
こんなにたくさんの方々を巻き込んでいるのは、私たちだ。
「母のためにありがとうございます!」
だよね。と気づく。
それから母を励ますことと
救急車に道を譲ってくださる方々に「ありがとうございます!」を
ぶつぶつお念仏のように唱えていた。
すると看護師に「大丈夫ですか?」と聞かれる。
恥ずかしい(笑)
なんだろう、この感覚は(笑)
「大丈夫です!」
説明しようとしたら、母の反対側の隣に座る救急隊員に焦りがみられたような気がした。
「酸素の数値がどんどん下がっている」
酸素濃度は最大値

看護師と私は再び母に大きめの声で
「もうすぐ病院だから頑張って!」
気持ちを込めて母のカラダを優しくさすり、母を励ます。
母は一段と激しく肩を動かして呼吸しようとしている

死ぬ前の金魚みたいだ
とても苦しいに違いない
私なら耐えられない
ココロをよぎる言葉たち

病院に着くと、すぐに私は事務の女性に手続きのために連れだされた。
母の様子を確認する間もなく。

母は?
やっぱり救急隊員のかたにお礼を言えなかったな!
付き添いの看護師は?

とりあえず、書類をかき手続きしてもらう。
すぐに医師に呼ばれた。

医師からの説明と質問
お母さまは自力でも呼吸が難しくなっています。
血中の酸素濃度は下がる一方です。
気管挿管して人工呼吸器をつけますか?

私は思う。
これは延命治療をしますか?という質問のこと?
今私がひとりで決めるの?
そうか、これなのか。
あぁ怖い。

医師に質問する。
気管挿管し人工呼吸器をつけるということは、延命治療をするということと同じような意味ですか?
医師はさらに詳しくどういう処置をし、その後どうなる可能性があるのかを説明してくださった。

そうして私は医師に話し始める。
実は母は50代になってすぐ認知症を患い、在宅介護から施設介護で現在を迎えている、と。

その医師は、私の目をまっすぐに見て、私の話を聞きながら、丁寧に親しみをもって質問と説明をし、家族と私の思いを尊重し、「それなら私が言えることは、…」とお話してくださり、私のその場での決断を尊重、応援してくださった。

ここ10年ほど家族と何度も何度も話し合った、延命に関する考え方のすり合わせ。
今がその時。
やはりその時は来た。

あぁでも私は母を殺すのだ。
そんな風に感じた。
人には、それでいいと言えることも、いざ自分になると、「殺す」という言葉と感覚が何度もよぎり辛くなった。

私の言葉で母は死ぬのだ。
医療の発達は残酷だ。
昔なら考えられなかったことだ。
何が自然な死といえるのか?
これは自然な死なのか?

思考はグルグルしたが、先生が母と家族のこれまでをくみ取って私の決断に思いやりのこもった賛同をしてくださったことで、覚悟が決まった。
人のあたたかさは、伝わる。
医師には心のあたたかさがあった。

そうしてしばらく待合室にいるよう指示される。
が、またすぐに、処置室に呼ばれ、家族を呼ぶように指示された。
母が急変した。
長くない。
家族が間に合うかどうか。

なぜか私は冷静に聞いていた。
「先生、家族全員呼んだら合計6人ですが、よろしいでしょうか?」

「大丈夫ですよ!すぐに連絡してあげてください。」

家族への連絡
病院に着いてすぐ事務手続きのときに、夫に病院に来てほしいと伝えた。
妹たちとその家族には、先生の指示に従った。


夫は、落ち着いているようで、意外と焦ったり慌てたりするところがあるので、母のことは伝えず、ただ不安だから来てほしいと伝える。

妹たち
いつも私が先頭に立って家族を守る役割をしてきたので、突発的な出来事にひどく動揺する彼女たち。
そのため、両親のもしもに備えたり、介護施設の面会、親族関係の行事などの連絡専用にLINEグループを作っているので、そこにメッセージを書き込んだ。
彼女たちにダイレクトにいきなり「母が危ない」と伝えるのは危険と考え、なんとなく予感がしていた私は、

第一段階
施設の病院の待合室で救急車に乗る前に、
「緊急連絡」と題し朝からの出来事を簡単に書き込み、病院から救急車で救急病院に向かうと伝えた。

第二段階
「緊急連絡」と題し
検査中だが、母に会いたかったら来ても良いと医師に言われたと書き込む。
(この時医師に急遽再度呼ばれ母の延命について聞かれた)
すぐに、追記しようとしたところで
妹から電話があったので、延命措置について聞かれたのでしないと答えたことを伝え、すぐに病院に来るよう言う。

その後、LINEグループにもう一度内容を簡単に書き加える。
そうして、きっと、すごく動揺している妹たちのために、
「深呼吸して!」
「落ち着いて!」
「焦らないこと!」
と記入。

日ごろからそういう習慣をつけていたので、これが多少効果的に働いた。
(感情が爆発しても、行動がある程度冷静になるくらいの効果)

再び医師に呼ばれ、母が今晩を越すことは無理だろうと説明を受け、あと数時間?と言われる。

そこに夫と妹三女が到着。
妹次女から電話があり、彼女の状況を確認しながら(今どこにいるのか?誰が周りにいるのか?誰と連絡とれたか?など)話をする。
そうして彼女がどうしたいか?をまず聞き、ならばどうする?かを聞き、電話口で深呼吸をしてもらい、次の行動を促し、電話を切る。

その間、介護施設の病院から付き添ってくださった看護師と話をゆっくりし落ち着いて過ごす。
家族が揃った頃、連絡などの役割が終わった看護師を見送る。
看護師のおかげで、私ひとりで対応するときも、安心し落ち着いていられた。なんと有り難い。

検査と処置が終わった母は、救急処置室の奥にある透明なプラスチック張りの部屋のベッドに横たわっていて、そこに私と夫、妹三女が通され、医師から改めて現状と今後の説明と言葉をかけ続けるようアドバイスを受けた。

苦しそうに必死に息をする母。
とてもつらそうだ。
それを見ると、私の決断のせいだと恐ろしく悲しくなって涙がでる。
妹三女、夫と母のそばで、母を励まし続ける。
「お母さん、お願いだから妹次女が来るまでは頑張って!お願い!」
その言葉をかけるたび、母は目を開いて涙目で小さくうなずいている気がした。
ときどき、母の呼吸がとまり、血圧も下がり、酸素濃度は絶望的に下がり続ける。

とにかく母に触れる。 
手を握ったり、腕や肩をさすったり、足をさすったり。
言葉をかけ続ける。
悲しく切ない。

妹次女が家族とともに駆け付けた。
妹次女が母に声をかけると、母はカッと大きく目を見開きうなずいた。
三姉妹で一番大きな反応を持っていく妹次女。
最後まで変わらない親子関係。
そこは可笑しくてみんな笑ってしまう。
すぐに先生が全員に母の状態と今後について説明してくださる。
かわるがわる母に話しかけ母に触れる。

それから数十分。
母は父以外の家族全員に見守られて息を引き取った。
あっという間の出来事だった。

父は今頃何も知らずに施設にいる
それは仕方のないことだ。
人生の無常。

医師の死亡宣告を聞き、一度外に出る。
しばらくして、看護師に呼ばれお化粧を一緒にする。
可愛く優しい若い看護師さんと私たち三姉妹は笑ったり涙ぐんだりしながら一緒に母らしいお化粧を施した。

その後、葬儀社の手配をし(こういう時のために数年前に葬儀社を決め積み立てをしていた)、家族で話しながら時間を過ごす。

葬儀社からお迎えが来て、病院を出たのは午後10時頃。
葬儀場で簡単な説明を受け、親族に連絡する。
親族への報告と説明は家族皆が座るテーブルで私がした。
相手を思い言葉を選びながら。
私の対応をみていて欲しかったから。
ひと段落したのは、深夜。

本当に長い長いそしてあっという間の一日だった。


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