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努力とは、自分のために生きることだと私は言いたい

今日の札幌は14℃。やっと暖かくなり、今年初めて外でロードバイクに乗ることができた。

走ったのはいつも通りの道。私はここ10年以上、ほとんど同じ道をひたすら走り続けている。家を出たら北上し、札幌競馬場の脇を通ってJRの鉄道づたいに北へ走り続ける。線路の脇は信号が少なくてとても走りやすい。ちょうど10km走ったところが目的地の手稲山だ。ここから8km、平均勾配6%、獲得標高500mの手稲山をひたすら登る。走行ログを残せるアプリ(Strava)に残る記録を見ると今日が353回目の手稲山登坂で、88位の記録だったのでそれほど悪くない。去年のベスト記録よりも早くて、シーズンスタートとしてはとてもいい記録だったと思う。

シーズンの最初はタイムがわるくて登っているうちに記録が伸びてきて夏くらいがピークになるのがいつものパターンなので今年は楽しみだ。

去年は2月3月が死ぬほど仕事が忙しくて体調を崩したこともあって春から調子が悪くて、それをシーズン中ずっとひきづって、極端にタイムが悪いままシーズンが終わってしまった。40代後半になって単純に老化でもうタイムが落ち続けるだけなのかなと思っていたけれど、冬の間にインドアトレーニングをしっかり継続したおかげか、今年最初のヒルクライムであっさり去年のベストタイムを超えることができた。

私はずっと同じことをやることが苦にならない。ロードバイクに乗るときめたら同じ道を走り続け、同じ山に300回以上登るし、noteを始めてみようと思い立った日から毎週noteを書き続けている。noteは2021年5月から書き始めたので今月末でちょうど3年になる。150週間以上、毎週書き続けていている。

何かを継続することは、私にとっては生きるということとほとんど同じだ。

あっちにフラフラ、こっちにフラフラという生き方が多分私には性にあわず、やり始めたらちょっとくらいしんどくても私は簡単にそれをやめない。そして仕事はやり続ければできることがだんだん増えてきて任される仕事の規模もやりがいも大きくなってくるし、ロードバイクに乗っていればタイムが縮まったり、健康になったり、体重が維持できるし、noteを毎週書いていると去年の自分が何を考えていたのか、何をしていたのかが分かる(私はほぼ自分のためだけにnoteを書いている)。

何かを続けるために努力が必要かといえば、私はそんな風に感じたことはない。仕事を続けるため、ロードバイクを続けるため、noteを続けるために私は努力をしているとは思っていない。

そもそも努力とは何だろうか。何かしらの目的を達成するために継続的、意識的に行う行為を努力というのだろうか。ちょっとAIに聞いてみた。

努力とは、ある目的を達成するために、気を抜かず力を尽くして励むことです。目標に向かって努力することや、努力のたまものといった表現が使われることもあります。

努力は、目標達成のために継続的に行動すること、そしてその過程を大切にすることを意味します。

Copilot「努力の定義」

ということで、大体自分のイメージと同じで、目標達成のために継続的に行動することが努力ということになるようだ。

多分私がピンとこないのは、私の行為にそれほど明確な目的がなく、何かを達成したくて行動しているわけではないからなのだろう。

仕事で何かを成し遂げたいとか、ロードバイクでレースに勝ちたいとか、noteで有名になりたいとかそんな目的があるわけでなく、ただあるときにやり始めたことをずっと続けているだけ、というのが率直なところだ。

目的達成のために行動する、という損得勘定、損得感情に個人的になじめない。何かを達成するために行動するのが努力だとしたら、達成できなければその行動は努力ではないということになるし、もっと難しいのは目標がなければ行動できない、努力できないということになる。

目標を決めるというのは、はっきり言って簡単なことではない。
人生の目標を決めないと行動できないとしたら、ほとんどの人が行動するまえに途方に暮れてしまうだろう。


自分のために生きること、それが努力の本質だと私は思っている。
別に大それた目的なんてなくても、毎日、今日一日を生きるだけで、それは一つの大きな達成だと、50年近く生きてきた人間として私は言いたい。

誰かからの承認を得るためや、誰かが決めた「価値のあるもの」を手に入れるために右往左往するのではなく、自分のために自分でやり始めたことを淡々とやり続ける、それ行為こそが真の努力であり、その結果何かが達成されるかどうかなんて言うのは二次的なおまけみたいなものだ。


自分のために生きる。
それを私は努力と呼びたい。


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