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本物の才能とは?

二十歳の頃、彼女と二人で小谷美紗子のライブにいった。小谷美紗子は私の一つ上で、彼女と同じ年だった。
そこで聞いた彼女の歌はまさに本物で才気がほとばしっていて圧倒されたことを覚えている。私は鈍感なのですごい人だなーと思って聞いていたけれど、鋭敏な彼女は完全に打ちのめされてそのあとに食事に行ってもほとんど何も食べられないような状態だった。

今から何者かになりたいと思っているまだ何者でもない二十歳の若者にとって、表現者として圧倒的な存在感で自分を表現する小谷美紗子は、あまりにも眩しすぎた。

今メジャーで大活躍中の大谷選手のように、努力だけではどうやっても到達できない高みを見せてくれる人たちがいる。そんな本物の才能に触れたとき、何者でもない私たちは何を思うだろうか。ただ自分の無力さを感じるのかもしれないし、ただ称賛する側としてその才能の行方を見届けるのかもしれない。

持って生まれた身体能力や声。それに磨きをかけるため捧げる惜しみない努力。そんなものがあってこそ人を感動させるなにかを提示することができるのだろう。また、持って生まれた才能が社会に求められる才能かどうかという運もある。少し前(数百年前)であれば、天候を見極めて最高のタイミングで種を蒔ける才能を持つ人は、圧倒的なカリスマだっただろう。大谷選手などは、まさに今の時代が求めたスターということになる。

一方、小谷美紗子は、その地味なビジュアル(失礼)もあり、デビューから20年以上たっても大ブレイクとまでは言えない状態で音楽活動を続けている。本物の音楽的な才能があっても、ビジュアルを求める日本の音楽業界とフィットしなければ大ヒットに至らないというのも時代の要求の理不尽さだ。小谷美紗子の場合は歌詞が濃すぎて万人向けでない、というのもあるけれど。

あの時、小谷美紗子に打ちのめされた彼女は45歳になり、今も私の隣にいる。毎日楽しみながら、苦しみながらクリエイティブに活動中だ。自分の好きなことをいくらでもできること、これは間違いなく一つの才能だ。それが時代に求められているかどうかは、自分では決められない。それは仕方がないことだし、時代に求められることが良いことなのかどうかも私にはわからない。でも、好きなことを何十年も毎日続けられる才能は正直うらやましい。私を含めてほとんどの人は、その才能がないのだ。

時代に求められているかどうかに関係なく、自分が好きなことに人生のすべてをかけられる人と並走して生きるのは結構楽しい。
それが周りの人に認められるかどうかは私にとっては実はあまり関係がない。彼女にとってもあまり関係ないみたいだ。

本物の才能というのは、世間の承認とは関係ないところにあって、たまたま時代にフィットしたものだけがピックアップされていくのだろう。
世間の承認や評価に興味がなければ、時代にピックアップされずに自分がやりたいことを好きなだけできることそこが、最高の生き方なんじゃないかと、私は思う。

実は、大谷選手にとっても小谷美紗子にとっても社会的な成功はあまり関係がなくて、周りの人たちが勝手に騒いでいるだけなのかもしれない。木の棒を振り回して獲物をできるだけ遠くにはじき返す、自分の声帯で最高の自分を表現する。社会的な成功とか、お金とかとは関係ないところにいる人たち、それが本物の才能を持った人たちなのかもしれない。

小谷美紗子の20代の頃の歌声。知らない人はぜひ聞いてほしい。



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