見出し画像

一流の仕事をする人たち

「一流の人は、自分のやっていることに飽きない」
いつか秋元康が言っていた。

イチローはいつもカレーを食べて同じストレッチを繰り返し、バッターボックスに立つ。

藤井フミヤは自分のライブに来るファンのために何百回でも何千回でもTRUE LONEを歌う。ファンがそれを聞きたがっているのだから歌うのは当たり前だと彼はこともなく言うが、コンサートでヒット曲を歌いたがらない歌手は沢山いるし、変なアレンジや節回しで歌う歌手も沢山いる。彼らは自分の歌をう歌うことに飽きている。



最近、今の仕事の意義が自分の中でよくわからなくなっている。
ものづくりと言いながら環境を破壊しているだけのような気もするし、疲弊するものづくりの現場で自分ができることなんてほとんど何もないような気がしてきて、それならこのあたりでそろそろ退場してしまってもいいのかな、なんて思うこともある。自分の心身が否応なしに、成長にではなく死に向かっていると痛感せざるを得ない40代から50代。中年の危機ミッドエイジクライシスを体感している自分がいる。

でもきっと単純に、私は自分がやっていることに飽きつつあるのだろう。やりたくない理由も、やめる理由も今すぐ50個言えと言われても言えるけれど、それはただの言い訳で、単純に自分がやっていることに飽きている自分がいる。仕事の意義とか、環境破壊とか、部下の育成とかコンプライアンスとか、そんな話はどうでもよくて、今自分がやっていることに飽きているのだ。


10年以上、定期的に行く近所のチェーン店の居酒屋がある。
私の住んでいる地域はオフィス街と住宅地の間くらいの中途半端な場所。しかもその居酒屋はビルの地下にあって、とても立地が良いとは言えない。私が引っ越してきてから5年くらいは入れ替わり立ち代わり店がオープンしては一年そこらで撤退するような、典型的な「立地の悪い飲食店」だ。

ある時そこにオープンした居酒屋。オープンしてすぐの頃に行くと、学生バイトみたいな店長がいて(学生バイトだったのかもしれない)、「いらっしゃいませ」と感じのいい笑顔で迎えてくれた。「靴はそのままで結構です」といい、席に案内してくれる。

十勝地方の鶏肉料理と日本酒がおすすめというけれど、まあメニューはよくあるチェーン店の居酒屋とそんなに変わり映えはしない。味は少し濃いめで、これもまあチェーン店らしい味だ。

そんな普通の居酒屋なので、いつも通りしばらくしたら無くなってしまうのだろうなと思ったけれど、あれよあれよと今年で14周年とのこと。そして、学生バイトかなと思っていた店長は、今もまだ店長のままだ。14歳年を取ったはずだけれど、当時と全然変わらず、彼は今も若々しく、今も相変わらず感じがいい。

月に1回か2回、それを10年以上続けているのだから、私と妻は完全に常連だ。でも彼はいつでも初めて来店した時と全く同じ感じのいい笑顔で「いらっしゃいませ」と迎えてくれ、「靴はそのままで結構です」と席に案内してくれる。「お久しぶりです」とか、そんなことは一度も言われたことがないし、いい意味でも悪い意味でも、いつも来るお客さんとして扱われたと感じたことは一度もない。店長は私たちの顔をもちろん覚えているはずだけれど、そんなそぶりを彼は、14年たった今でも全然見せない。

毎日たくさんやって来るお客さんに毎日感じの良い笑顔で挨拶をして席に案内する。飽きないのだろうかと思うけれど、きっと彼は一流のサービスを提供できる一流の店長なのだ。

いい時も悪い時も、好景気の時も不景気の時もコロナの時も、彼は笑顔で客を迎え、彼が提供するべきサービスを粛々と提供してきた。それは簡単なようで、全然簡単なことではなく、それができる店長がいたからこそ、あの立地の悪い場所で10年以上、居酒屋を経営することができているのだろう。



一流の人というのは天才のことではなく、飽きずに続けられる人のこと。


飽きずに続けられる人が一流なら、仕事に飽きつつある私はきっと一流の会社員ではないのだろう。

でも、飽きても続けることはできる。飽きずに続けるのと、飽きても続けるのは全然違う、全く逆のような気もするけれど、結果としては同じ気もする。そして自分はそんな風に生きるのはとても得意だ(惰性で生きているのだ)。

そして、仕事がもう十分わかったと言えるほど、私は仕事を理解していない。仕事の表面的な繰り返しに飽きているだけで、もっと深いところ、違う角度から見たとき、その仕事のほんとうの意味が見えてくるのかもしれない。


一流の仕事。
それは天才がやる仕事でも、周りをアッと驚かせるような目立つ仕事ではなく、きっと日々の生活の中で淡々と続けられる営みの中にある。


この記事が参加している募集

仕事について話そう

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?