『推し、燃ゆ』感想文 #白熊文芸部

7月2日配信、白熊文芸部で僕が読み上げた感想文です。


 最初に感じたのは虚無だった。
 序盤をしばらく読んで、小説ってこういうものだっけ、という違和感。構成がおかしいわけでも、文法がおかしいわけでもないのに、何かがいつもと違った。
 もう少し読んで違和感は確信に変わった。主人公は自分の話をほとんどしていない。
 学校へ行く、授業を受ける、家族に連れられて病院に行く。そのどこにも自分で決めた行動がない。受動的な反応や感情はあるけれど、自分から行動したのは推しを推すことだけだ。
 ブログを書いて、祭壇を祀り、ライブへ行く。生活の描写が簡素な一方で、推しを推すことに対してはたくさんの文量を割いてある。この文章量の違いが、そのまま彼女の人生に占める推しの割合なのだろう。
 最初から最後まで、自分より推しや推し活の話をしている。状況はどうしようもなく重いのに、中身がないから軽く読み進められてしまう。違和感の原因はこれだった。
 勉強もできず、バイトも上手くいかない。厳しく教えても、優しく教えても身につかず、環境が悪かったという逃げ道もない。僕には彼女の生活が向上する風景が見えなかった。その生活にはただ推しだけがいて、それが自我を構成する。そこから推しがいなくなった時、何も残らなかった。虚無だと思った。

 人はこんなに自分を捨てて生きることができるのだろうか。僕にだって好きなアーティストの曲を聞いたり、推しの配信を見たりしたいという欲求はある。でもそれが全てになることはない。小説を読んだり映画を見たりもするし、ゲームをしたりクイズに挑戦したりもする。音や言葉を自分から発信したいし、その反応があると嬉しい。
 彼女だってブログを書いていて、その反応を貰ったりしているはずなのだけど、どうもそれに対する欲求が薄く見える。推しの一挙手一投足には強く反応するが、それ以外の反応は無いとは言わないまでも全体的に薄い。
 彼女は世界に興味がないのではないか。日本語を使うことができて、感情があり、推しに関するブログでアクセスを稼ぐほどの能力があるのに、この「興味」が僕の感じるそれと同じものだという確証が持てない。僕と比べて何か要素が足りなかったり、ずれていたり、過剰だったりするのではないか。そんな思いが捨てきれなかった。

 二度目に読んだ時、印象が少し変わった。
 初回よりも、何かに焦るような推し方をしている部分が目についた。
 生半可には推せないという焦燥や、推すことそのものに対するストレス。推しがいなければ自身が存在できないという恐怖。
 彼女は自分の虚無に気付いている。
 推しがいなくなることで娯楽がなくなるとか、生きがいがなくなるとか、そういうレベルのものではない。自分が自分であるために推しが必要だという自覚がある。推しを解釈する、自分という関数こそに存在意義を感じている。他に何もないから、推しがいなくなると自分がなくなると思っている。
 推すこと自体が自分の業だと。業の意味は因果の因となる行為そのものを言うけれど、ここではおそらく善い意味では使ってないだろう。推すことで自身に悪いものが溜まり、いつか結果として返ってくると認識している。それでも推すことをしない今に耐えられない。だから業なのだろうと思った。

 覚悟して推している。未来ではなく今を選ぶ。
 それでいて、推しと付き合うとか、結婚するとか、そういうことは何も考えてない。彼女自身の情報に虚無を感じたけれど、推しの情報もそんなにあるわけではない。アイドルという立場がある以上、本人か事務所が発信すると決めた情報しか受け取ることはできない。推し本人のアイドル意識の低さから溢れてくる情報はあっても、それでは完全にはならない。
 推しは推しで、彼女の人生におけるある種の舞台装置なのだ。たまたま推すきっかけがあって、今回事件が起きた。そうでなければ推しが誰であっても、外からは変化なく見えるのだろう。
 その視野狭窄に、彼女は意図的に陥っている。
 勉学にも、友だちにも、仕事にも、将来にも目を背けて、輝く推しだけを見ている。見たくないものを見ないために、その光を利用し逃避している。
 だから引退によって強制的に逃避から連れ戻された世界には現実感がない。失敗したライブの密録が、推しのマンションにある生活感が、もう逃げ場がなくなったことを示している。

 どうしてこうなったのか。何かが悪かったのか。
 推しを推すことが悪かったのではない。そう言い切っていいと思う。推しを推していなくても、きっと彼女は社会には馴染めなかった。
 誰かのために、というエネルギーはとても強いもので、その一部でも自分に向けられていたら変わったのかもしれない。でもそんなことができるなら最初からしているだろう。人は簡単には変われない。
 やればできるかも、やり方が合わなかっただけかも、を丁寧に潰したこの物語が、あらゆる道を塞いでいる。推しに関係すればできることは多いのに、関係しないと何もできない。推す前からそうだったということは、推しに会わなかったら全てができなかったのかもしれない。もしそうなら推しの存在は依存するほどの救いになっただろう。
 この世の全てが推しに関係すると認識できれば、もしかしたら何か変わったかもしれない。でも、その推しはもういない。
 四つん這いになりながらも最後に残った理性が、綿棒をきちんと拾い集める理性が、ひどく悲しく感じた。この先どうやって生きていくんだろう。でも、なんだかんだと、どうにかして生きていくんだろうなという気もした。
 僕は彼女の名前を覚えられないまま、本を閉じた。



きたみゆ版

くうま版


この記事が参加している募集

読書感想文

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?