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「コミュニケーション」の意味。

他者に「コミュニケーション」って何?と聞くと、「伝え合う」「意思疎通」「情報交換」「交流」「通信」などの回答が返ってきます。

これが現在の用法なんでしょうね。だから「コミュニケーションをとる」「コミュニケーションを図る」という表現が出てくるわけです。二者の間を「何か」が行き来する、そういう意味がコアになってるらしいです。

そこで、このコトバは何から来たのかルーツをたどってみると、ラテン語で「communicare(共有する)」「communis(共有の)」というのがあります。「交わり共有しあうこと」とか「共通のものを作りだすこと」とか、そういう意味で。「共有する」あるいは「共通のものを作る」が目標として示されているのに対し、現在の用法ではそのあたりが意識上に表れにくいようです。

最近のコミュニケーションをめぐる様相を見ていると、「即効性」「効率性」「迅速性」へと価値が偏重しており、なかなか共有しにくい、共通のものが生まれにくい状況になることをまるで良くないことだと、ネガティブに捉える傾向があるようです。すぐに共有できること、簡単に共通のものが作れることが、コミュニケーションの「評価基準」みたいになっている。それが現代の世相なんでしょうか。

そもそも、お互いわからなかったり共通のものがなかったりすることが「コミュニケーション」の起点になるということを考えれば、相手の意図をじっくり熟考してもいい。相手に伝えることばをじっくり吟味してもいい。その時に起きる「間」も共有すればいい。そうしてお互いが工夫したり助け合ったりして、最終的に共有できればそれでいいと思うのです。これらは、様々な人々と係わって実感していることです。

それから、ICTによって「伝導率の向上」が実現できたとしても、それが自動的に、お互いにどんな事柄を共有できたか、共通のものをどれほど作りだすことができたかといった「共同性の深まり」の実現に結びつくわけではない。

また、「情報保障」が実現できたとしても、お互いに「わからないよ」「これはどういうこと?」などと質問や意見を出して新たな見識を見出していけるような「関係性の形成」の実現に結びつくわけではない。いずれも「コミュニケーション」のありかたにつながる事柄です。

このように普段の「コミュニケーション」というものの実践を見直すことは、人に対する自分自身の係わりや態度を吟味する機会にもなるだろうと思います。